間話 精緻な魔法陣
濃紺色の空に、玲瓏な月明かりがかざされる。
暗雲が立ち込める中、切れ切れとした薄い雲が月光を隠匿し、深緑の大地をおぼろげに彩った。
慎ましげに照らされた地上にて、腰に短剣を差した一人の竜人が姿を現す。
彼は過去に勇者と呼ばれた剣士であり、現在は一国の王子である。
勇者と呼ばれた竜人の剣士は、剣士とは思えぬほどの軽装で、星彩の散らばる空を眺めていた。
彼には、冒険をともにした五人の仲間がいた。
不器用だったが、数々の知識を持っていたドワーフ。
脳筋だが、どれだけ堅牢な壁でも破壊した巨人。
体力は無かったが、いざというときに何度も助けてくれた魔法使い。
戦う術を持たなかったが、幾度となく最良の助言を授けた大賢者。
――そして、剣士である彼を護りながら、精一杯戦ってくれた魔法剣士。
竜人は煙のような鼻息を漏らし、黄色く塗られた双眸で虚空を見つめる。
魔王を討伐し、無事に生還。
美麗なお姫様をもいただき、約束された高い身分。
仲間たちにも相応の身分や財産が与えられ、身を縛られることも無く、穏やかな日々を過ごしている。
だが彼の胸中には、ポッカリと何かが抜け落ちていた。
最愛の姫を抱いても、豪勢な料理をいただいても。
彼の心から完全に霧が晴れ、透き通るように純粋な“こころ”が顔を出すことは無かった。
旅から戻り、もう三ヶ月以上は経ったか。
もしかすると、もっと経過しているかもしれない。
あの日――魔王討伐の旅から凱旋した翌日。
宴の最中に姿を消した魔法剣士の家へと赴き、最初に出会ったオークから聞かされた事実。
その時の言葉は、一字一句として、彼の脳裏から剥がれることは無かった。
『ニノミヤ・キンジ様は、異世界より描かれた魔法陣に乗り、新しい世界へと向かわれました』
最初、オークの言葉の意味する内容が分からなかった。
オークの説明が簡略だったこともあるが、きっと彼は動転していたのだろう。
姫君の美貌に心を奪われ、過度な興奮のために無様にも大衆の面前で気絶。
その後も姫君の隣に座らされ、鈴を転がしたような魅惑的な声音に酔いしれながら、彼女が注ぐ美酒を喉笛に流し込んだ。
実に心地良い時間だった。
夜になると、姫君に誘われ、彼女自身の部屋にて身体を交えた。
人間で言えば二十にも満たない彼にとって、その時の体験はまさに夢のようであった。
透き通るような瞳、愛らしく緩む口元、耳に絡みつく甘い嬌声。
何もかもが、彼に未知なる感覚を施した。
彼はそのとき、幸せだった。
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思い出に感慨深く浸った後、東から吹く爽やかな風を味わった。
このまま全身が溶けてしまいそうな、心地良い感覚。
竜人は憂いな表情で瞑目すると、今来た道をまた戻っていく。
姫君は現在身重である。
種族が相違していたためか、暫くその予兆は無かったが。
数日前、やっとその兆候が出たのだ。
飛び上がるほどに嬉しかった。
仲間たちも、その報を聞くとまるで自分のように喜び、盛大に祝福してくれた。
竜人剣士は、皆に祝われて堪らなく嬉しかったのだが。
その場に魔法剣士キンジがいないことが、何よりも寂しかった。
「――王子様」
竜人剣士が歩を進めていると、闇の中から一人のオークが姿を現した。
存在感の薄い、まるで幽鬼のように生命力を感じさせない風体。
痩せぎすな体躯を気怠そうに揺らしながら、彼は小さく腰を折る。
「王子様に、申し上げたいことがございます」
「何だ」
面倒くさげな声音で、ぶっきらぼうに応える。
竜人剣士は、あまり彼のことをよく思っていない。
自身が楽しんでいる間に、大切な仲間を異世界へ飛ばした張本人。
責めるべき相手では無いことは重々理解していたが、そうしなければ、彼自身の精神の安定を保てなかったのだ。
だが、彼の出発を止められなかったという事実だけが、彼の胸中を渦巻いていた。
痩せこけたオークは干し柿のようにシワだらけの手を差し出すと、胸元から一枚の板を取り出した。
竜人剣士も、木材で作られたその板が何を意味するものなのかは知っている。
「……キンジを召喚した魔法陣に描かれていた、写だったか」
竜人剣士は目を逸らす。
その板に刻まれた模様は何度も見た。
数ヶ月間、長きに渡って魔法陣を描いた世界を探したが、見つけることができなかったのだ。
召喚魔法が発達している世界に存在するそれとは、似ても似つかぬ言語であり、解明は不可能。
描かれ方も、見よう見まねで描いたような、子供の落書き程度の文字。
複雑な事象や、召喚する相手を検索するための“絞り”も使用していない、はっきり言って不完全な召喚陣である。
人間を転移させることに成功したというのが、不思議なぐらいだ。
この世界の住人であれば、赤子でももっと立派かつ精緻な魔法陣を描くことができるだろう。
もっとも、赤子は文字を書く方法を知らぬため、実際やらせようとしても不可能なことなのだが。
オークはその板を掲げると、瞳をギョロリと動かして竜人剣士の姿を視界に入れる。
竜人は鼻から煙のような吐息をこぼし、目を背けながら、その鱗だらけの体躯を戦慄かせている。
この板に描かれた魔法陣に関して、この数ヶ月間、二人は何度もぶつかり合った。
ぶつかり合ったと言っても、オークはただのオークで竜人は時期国王であり世界を救った勇者である。
対等な言い合いができるはずも無く。
目に見える功績を果たすことができないオークの解析結果にイラつき、ただただ竜人の八つ当たりを受けるだけであった。
だが彼も、魔法陣の解析をやめなかった。
いくら罵倒されようと、誇り高き竜人剣士は、我を忘れて逆上したその度に、オークの目の前で膝を折って額を地面に擦りつけた。
竜人――龍の血が混じった種族は、基本的に自信の過ちなどを謝罪しない。
むしろ傲然とした態度で、自らの意思を捻じ曲げてでも押し込むような者が多い。
だが彼は、そのようなことは無く、己が間違っていると分かれば、すぐにその間違いを認め、反省して正した。
オークという種族からすれば当然のことだったが、竜人がそうした行動を起こすなどとは思わない。
初めて竜人に謝罪の言葉を向けられたときは、驚愕のあまり、オークは思わず後方へとひっくり返ったという。
「遅くなりましたが、つい先ほど、この魔法陣に描かれた言語と同様の言語を使用している世界を解析することができました」
「何だと!」
黄色く彩られた双眸を見開き、竜人剣士はオークに詰め寄った。
嬉しさのあまり興奮しているのか、全身が戦慄き、煙のような鼻息が何度もこぼれ落ちる。
竜人の心の中を、色々な感情が渦巻いた。
感情に任せて発した心無い暴言、理不尽な罵倒、その他諸々の言葉をここ数ヶ月の間ずっと浴びせてしまっていたのに、彼はその言葉にも耐え、ずっと研究を続けていてくれたのか。
竜人が感じていた諦念や喪失感が一気に消え失せ、代わりに耐え難いほどの罪悪感が彼の心に多い被さった。
「オークよ、ありがとう。……そして、すまなかった」
一国の王子である竜人はその場に跪き、オークの眼前にて心からの謝辞を見せる。
オークは暫しの間、その光景を見ていたが。
フゥと吐息を漏らすと、頭を上げてくれ、と促した。
「とにかく、場所が分かったのは事実です。とりあえず私は、行き帰りの召喚術を使用できる方にお願いし、どのような世界なのか一度行ってみようかと」
「待て」
竜人剣士は颯爽と立ち上がると、怜悧な視線をオークに向けた。
その瞳には、今までの無気力や諦念は感じさせず、前を進むべく者に宿る、一種の期待感のようなものが焦がされている。
「俺も行こう。一国の王子であれば、召喚師を探す苦労も多少緩和されるだろう」
「ですが、姫君は今大事な時で、」
「行かせてくれ、頼む」
両手を地面に着き、再び頭を下げる。
オークは暫しの間逡巡したが、竜人が見せるその誇り高き覚悟に心を揺るがされ、一瞬たじろいだ。
「俺は王子である以前に、この世界を救った勇者で、キンジの大切な仲間だぜ。それなのに、俺が一緒に行けないなんて、な」
危険な世界かもしれないのだ。
全世界を終末に飲み込まれた、暗黒世界かもしれない。
キンジが生きているかも分からない。
全くもって未知の世界だ。
会えるかも分からない。
だが、竜人は何かしらの行動を、自らの手で起こしたかった。
何もせず、ただただ黙って見ていることは、彼の意思に反するのだ。
「ですが、私一人では王子様をお守りするなど……」
その言葉を発した刹那、オークの背後から草を踏む音が奏でられた。
「俺もいるぜ」
ドワーフだった。
酒臭い小さめの体躯に、入道雲のように立派な白ひげ。
ナイフのように鋭い眼光は、この上無い頼もしさを感じさせる。
「……ドワーフ」
「お前だけに、いいカッコさせるかよ」
月明かりを隠すような巨体。
コケがむしたような深緑に、荒々しく無垢な体躯。
表情こそ機械的で冷たいが、その出で立ちは、あらゆる者に安心感を与えるだろう。
「巨人」
「正義の勇者は、お前だけじゃないんだぜ」
「コーホーン」
紫紺のローブに身を包んだ魔法使いとともに、妙な空咳をこぼす大賢者の姿がそこにあった。
彼ら四人のことは、オークも知っている。
数ヶ月前に魔王討伐の旅から凱旋した、竜人勇者の仲間だ。
しかも、この世界に存在しない魔法剣士を除いた全員である。
一人として、この場にいない者はない。
「みんな……」
「こ、これが友情パワーか」
タイミングよく現れた四人の姿を視認し、オークは思わずたじろいだが。
すぐに居住まいを正すと、真剣な双眸で四人を見据えた。
「それでは、魔法陣を描けるお方を探しに……」
「大丈夫だ。魔法陣の写があるなら、座標軸さえ指定してもらえれば行き帰りの転移魔法陣程度俺でも描ける」
そう言うと、大賢者はオークが持つ木の板をひったくり、凛々しい双眸を細める。
口元が嬉しそうに裂け、右手の先から魔力が放たれた。
「出発は今夜にしよう。皆、各々用意をしておいてくれ」
テキパキと纏めると、大賢者は木の板に描かれた魔法陣と睨めっこしながら、写とは若干異なる魔法陣を丁寧に描き始めた。
やはりあの写は不完全だったらしい。
オークは一度、写と全く同じ魔法陣を描けば転移できるのでは無いか、とも思っていたのだが。
もし一方通行の転移だったら、と畏怖の感情に苛まれ、試すことができなかったのだ。
だが、それで良かったらしい。
転移魔術とは恐ろしいものである。
どこかしらに不備があるだけで、永遠に暗黒世界を飛び回ることになる、なんてことも実際に起こりうるらしい。
事実、そうなった生物はこの世界にも何千何万と存在する。
ただこの世界の魔術はかなり発展しているので、そうなった者を救出する魔術も存在するのだが。
各々王宮に用意された自室へと戻り、この場に残ったのはオークと大賢者のみとなった。
大賢者は誰とでも分け隔て無く会話ができる人間だが、集中力を切らせてはならない作業を続けているため、先程から無言のままだ。
オークはどちらかと言うと、初対面の相手に話を振るのが苦手である。
ゆえに、今現在この場には何とも言えぬ沈黙が漂っていた。
大賢者は黙々と作業を続け、少しずつ魔法陣を完成形へと近づけていく。
見たことの無い言語だが、辛うじて座標軸や角度、大まかな位置指定を示している部分は識別できた。
流石に目指すべく一点――キンジの目の前に転移することは不可能だが、同高度の世界に飛ぶことは可能。
みるみるうちに、大地へと記号や文字の羅列が刻み込まれ、裂け目から魔力が放出されていく。
…………。
……。
完成した。
ドワーフが酒ダルを担ぎ、巨人が保存食を背負い。
魔法使いが立派なローブに身を包み、顔面のあちこちに熱烈なキスマークを付けた竜人が現れたところで。
緻密で精緻な大仕事を終えた大賢者は、脱力して小さく吐息をこぼし、額の汗を拭った。
五人の瞳に映るのは、淡く幻想的な光の粒子が放射状に放たれる、見慣れない色彩の魔法陣だった。
魔力は十分溜まっているらしく、魔法陣の中央部は力強く薄緑色に輝いていた。
「これに乗れば、キンジのもとへと行けるのか」
「確証は無いが、同軸か同高度の世界には行けるだろう。間違っても暗黒世界へと放り出されることは無い。この先には、魔力が存在するという感覚がある」
魔法使いの疑問に、大賢者は頼もしい声音ではっきりと応える。
一方通行で未知なる世界へと向かったキンジとは違う。
彼らの場合は、違っていれば帰れる、という安心があるのだ。
行くだけであれば、何の損失も無い。
足を踏み入れた途端、魔力や生命力を吸い取られ、生命を根絶されるような世界であれば話は別なのだが。
大賢者が一歩足を踏み出したところで、オークが不意に彼の服の裾を掴んだ。
「最初は私が行きましょう。転移先の確認だけ行い、すぐに戻ります。もし私が戻らなければ、その時は……」
「いや、描いたのは俺だ、俺の責任、俺が行く」
言い終わるか否か。
大賢者はオークの小さな手を振りほどき、魔法陣の中央部へと飛び込んだ。
数秒の後。
瞑目した大賢者が寸分違わぬ箇所へと舞い戻り、力強く頷く。
転移先には、足を着くことのできる世界が広がっていたようだ。
「どこかの森林奥部に繋がっていた。だが、森林があるということは、生命が存在する世界ということだ」
大賢者の言葉に、この場に佇む六人がそれぞれ安堵の吐息を漏らす。
魔法陣が放つ幻想的な光に照らされた六人は、一瞬深呼吸をしてから、一斉に魔法陣中央部へと飛び乗った。
青白く輝く光の粒子に飲み込まれ、視界を真っ白な閃光に覆われる。
選ばれし六人の戦士たちは、躊躇いなく、未知なる世界へとその身を落した。
友であり仲間であった、魔法剣士ニノミヤ・キンジを救うために。




