第十三話 天使が向けた愛念
昨日のカマキリ貴族との戦闘も踏まえ、新しい戦い方や魔術と剣術の混ぜ込み方を研究しようと思い、俺は朝一番でザフィラスさんの下へ行こうとしたのだが。
玄関を出ようと扉を開けた刹那、背後からエプロンドレスの妖精に抱きしめられた。
ホワイトブリムのよく似合う闇色髪の天使は、俺の背中に頭をグリグリと押し当てながら、甘えるような声音で“お願い”をする。
「ねー、ご主人様ぁー。今日もご主人様と一緒にいたいです」
どうしようかな。
ザフィラスさんのご教示によると、剣術は一日休むと三日分衰えるらしい。
だから時折挟む休息日以外の日は、満身創痍で身体が動かないなどの重体を除いて、なるべく休まない方が良いと言われたのだ。
だが、もう一つだけ言われたこともある。
休憩中にザフィラスさんと方を並べて座っている時に、ザフィラスさん自身の青春を語ってもらったのだが。
大体が執事に関する勉強か剣術や魔法の稽古であり、素敵な女性に想いを寄せる暇など無かったらしい。
だが彼は、その苦労が今の幸せを産んでくれた、と締めくくり、滅多なことでは動かない俺の心を、この上ないほどの感動の渦に巻き込んだ。
だからと言って、『キンジ様も恋などにうつつを抜かしていてはなりません!』なんて鬼のようなことは言わず。
『若い頃に積み上げた苦労や頑張りは必ず将来実を結びます。ですが、想いを寄せる素晴らしい少女との青春は、何よりも大切にしてください』と、菩薩のように穏やかな面持ちで言われたのだ。
いわゆる、もしフェリアに自身を求められるような時があったら、剣術稽古も大事だが、今その時を大切にしてくれ、とのことらしい。
簡潔に言えば、『フェリア>剣術』と言うこと。
もちろん、そればっかりにうつつを抜かして、剣術から手を抜こうとは微塵にも思ってはいないのだが。
さて、
しかしどうしたのだろうか。
フェリアが今まで俺にこんな風にベッタリなことは無かったはずだ。
添い寝をする時など、お仕事モードなフェリアは確かに抱きついたりペロペロしてくれたり色々としてくれたが。
こうやって、彼女の方から求めてくるなど初めてである。
うむ、期待感MAXだ。自然と胸が高鳴ってしまう。
「うん、今日はフェリアと一緒にいようか。どこに行く――」
まで呟いたところで、思わず手で口を塞ぐ。
フェリアは明日からまた学校だ。
もしかすると、一緒にお昼寝をしよう、などと言ったお誘いかもしれない。
下手げに“どこか”などと言って、無理して『外に出ましょうか』などと言われたら、俺は申し訳なくてその時間を楽しめないだろう。
しまった。迂闊だった。
聞こえていなければ良いのだが……。
「ご主人様の昨日のお姿、とっても格好良かったです。強気な顔してましたけど……実はわたし、あの根暗貴族さん凄く嫌いで、ロングスカートの中で脚がもうすっごく竦んじゃってて。……本当に、格好良かったです」
何だろう。昨日から事あるごとに、フェリアの口から『格好いい』という単語が飛び出してくる気がするのだが。
気にしすぎている、と言われてしまえばそれまでなのだが、事実先程から、鈴の音のようなフェリアボイスでの『格好いい』が頭から離れず、今俺の顔は凄くニヤついている。
他意は無くとも、大好きな女の子に褒められることとは嬉しいものなのだ。
「――ですから、一緒に迷宮に潜りませんか? 一応わたしも、魔王討伐の旅に出る前にギルド登録をしたので、迷宮には一緒に潜れるんです」
そう言ってフェリアは、胸元から保護魔法が施されたギルドカードを見せて、天使のように愛らしくはにかむ。
今より若干幼いフェリアがあどけない表情でこちらを見つめており、俺は暫しの間それを見据え、妖精のように魅力的なフェリアの顔写真を記憶に焼き付ける。
ちょっぴり照れた様子なのも高評価だ。
く、今になってまた平面の世界へ入りたい衝動に駆られてきた。
フェリアと出会ってからは、そんなこと無かったのに。
「ご主人様ぁ! 写真ばっかり見てないで、もっとこの経歴とか功績を見てください。……写真なんて見なくても、わたしはここにいるのですから。……ご主人様が望むのでしたら、好きなだけわたしのことを見つめても良いんですよ?」
フェリアは唇を尖らせ、拗ねたような面持ちでぷいと顔を背けた。
いかんいかん。目の前にご本人がいるってのに、写真に見とれてしまうとは失礼だな。……自重自重。
しかしフェリアの言葉を聞く限りだと、今はお仕事モードのようだな。
ご主人様に精一杯尽くしてくれるメイドさん。
強くて凄くて格好いい、その上可愛い。そう、やっぱりフェリア最高!
「……ああ、ごめんごめん。経歴と功績かぁ」
言いながら俺はギルドカードを受け取り、今一度フェリアの写真にほんわかしてから、経歴や功績が書かれている部分へと視線を動かしたのだが。
フェリアの経歴・功績欄を見て、俺は思わず目が点になった。
薄緑色に煌くそのギルドカードには、まるで米粒に書いたような細字がびっしりと羅列されている。
この世界の文字を解読することは不可能だが、一応俺だってギルドカードは持っている。
名前欄と経歴・功績が書かれている箇所くらいは、喩え文字が読めなくとも分かっているはずなのだが。
「……えっと」
「ふっふっふ。ご主人様も、これでようやくわたしの実力をその目で確認したようですね」
誇らしげに仁王立ちをして、ふふん、と言った様子で口元が弧を描いている。
堂々とした様子で胸を張って、立ちふさがるメイドさん。
何だろう、言葉にするとものすごくエロい。
実際眼前に広がる光景も、思わず見とれてしまうほどに蠱惑的な状況なのだが。
それとフェリアは何か勘違いをしているぞ。
俺はフェリアと出会ってから、一瞬一時、一度たりともあなたを過小評価した覚えはありません。
魔獣に襲われたところを助けていただき、二ヶ月という長い間家事もご奉仕も、さらには生活費まで出していただいて。
俺は死ぬまで一生、フェリアに足を向けて眠ることなどできません。
いつまでもずっと、ペッタリ密着して一緒に眠るんだから。
「さ、流石元勇者様」
「えへへ。明日は学校もありますし、午前中だけでもどうでしょうか。……まだ家のお仕事も終わっていないので、帰ったらすぐにやらなくてはならないのですが……」
指先を突っ付き合い、若干俯くと。
フェリアは期待するような眼差しで、上目遣いをして俺の顔をじっと見つめる。
さしものフェリアでも、二日続けて午前中でお仕事を終了させることはできなかったようだ。
俺も今日は暇だし、フェリアのお仕事は少し手伝うとして。
大丈夫なのか、そんな二日も外出して。
フェリアは毎日身を粉にして働くため、休日はほぼお昼寝で潰している。
柔らかい日差しに照らされた無防備な寝顔をそっと見つめるのも、実を言うと隠れた楽しみの一つでもあったのだが。
「フェリアが行きたいなら、一緒に行こうか? でも、疲れたり眠くなったらすぐに言ってくれよ。それに、」
「ありがとうございます、ご主人様! 早速戦闘着にお着替えして参りますので、今しばらくお待ちください!」
倒れられたら困るからな――と言いかけて、俺はそれ以上言葉を発することができなかった。
風のように速く廊下を疾走したフェリアの背中を眺めていると、何となく妙な違和感を覚える。
そっと視線を下ろすと、フェリアが通った廊下には、エプロンドレスやホワイトブリム、さらには処女雪のように純白な下着が散乱していた。
待ちきれずに脱ぎながら駆けていったようだが――。
ヤバい。廊下に脱ぎ捨てられた衣装を眺めていたら、何だか気持ちが高ぶってきた。
あれがフェリアの素肌と吸い付くように一日を共にしていると思うと――いかんいかん。
迷宮に潜る前から、何で俺はこんなに興奮しているんだ。
俺はフェリアが脱ぎ捨てた衣服によからぬ妄想を吸い出されながら、玄関にて悶々とした気分のまま、フェリアが着替え終わるのを待つことにした。
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迷宮の灯は点灯されていた。
そのため前回のように、真っ先に白猫が飛び出してくるなんてことは無く。
とくにこれといって、危険な魔物は出現してこなかった。
時折現れて行く手を妨げる弱い魔物は、フェリアが放つ炎魔法で脅かして追い払う。
三階層までの魔物であれば、一般人でも松明をかざせば大抵の魔物は逃げていくらしい。
だから三階層までは誰でも潜れるのか。
野生本能のために生物が火を恐がると言うのは、どこの世界でも通じるものらしいな。
ちなみにフェリアは、炎魔法を主に使い、属性魔法ではサブ魔法として雷魔法を若干使用できるらしい。
後は治癒魔法やら障壁を生成したり、解毒したりと補助魔法は色々と使用できるらしいのだが。
土や風、水などの魔法は使用できないため、俺が昨日使用したような地面を泥濘ませる魔法はできないらしい。
一度でいいからやってみたい、と言いながら、甘えるように腕に絡みつかれた。
エプロンドレス越しの胸とかが触れて心地良い。
もっと抱きしめてくれてもいいんだぜ。
炎魔法だけを使用できる人は大して珍しく無いのだが、雷魔法と炎魔法を双方使いこなせる人間はこの世界では少数らしい。
一番少ない組み合わせは、炎と水。
次に風と土。
そして、三番目に少ないのが炎と雷らしい。
理由や原因はよく分かっていないのだが、そういうものらしい。
そのため、炎魔法を主に使用する魔術師は、水魔法や雷魔法を主流とした魔術師とパーティを組むことが多いらしい。
フェリアが魔王討伐の旅に出た時も、水魔法の魔術師はいつも自身の隣に控えていたとか。
寝るときも隣にいたと聞き、一瞬だけ嫉妬したが、パーティにいたのは全員女性だとその後付け足され、俺の心を苛んだ嫉妬の渦は静かに浄化された。
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三階層の端までたどり着くと、見張りをしていたギルドナイトがフェリアに視線を送りながら、妙な顔をして何やら話し込んでいた。
よからぬ話だったら蹴っ飛ばしてやろう、などと物騒なことを考えていたのだが。
その内の一人がフェリアに駆け寄り、驚くほど礼儀正しいお辞儀をしながら、四階層へと伸びる階段へと案内してくれた。
四階層へと到達し、ギルドナイトの姿が消えたところで何だったのか、と問いたところ。
世界を救った元勇者様が来るとは、光栄でございます。などと感激されたらしい。
その話をしながらも、フェリアはちょっぴり嬉しそうに頬を染めてはにかんでいた。
あまりに可愛かったので、躓いた振りをして抱きしめたら、満更でもない顔を見せながらも本気で怒られた。
『抱きしめるなら、する前にいってください!』とか言われたが。
抱きしめたこと自体を拒絶されたわけでは無くて、ちょっと嬉しかった。
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フェリアが放つ火炎弾によって、行く手を阻む魔物は一瞬で消し炭へと姿を化す。
だが時折拳大の雷撃弾を撃ち込み、魔物をショック死させていた。
何故殺害方法を変えるのか、と問いたところ、素材を売ることができる魔物を消し炭にすると、もったいないとのことだ。
スライムのようなドロドロした魔物は一瞬で殺害するが、ゴブリンのように二足歩行をする人外生物は心臓を一瞬で停止させる。
戦い方を見て分かったが、フェリアは何があろうとも、魔物を一撃で仕留めているようだ。
だが辺りに無駄な被害を与えず、時偶その身を退かせ、俺にも戦う機会を与えてくれる。
袈裟懸けに切り落とし真っ二つにすると、フェリアは嬉しそうに指を絡め合って健闘を称えてくれる。
フェリアが傷を負うようなことは無かったが、俺は幾度か武器を持った魔物に擦過傷や裂傷を負わされた。
だがフェリアはそんな俺を蔑んだり見下すことも無く、まるで小動物を労わるかのように穏やかな表情で傷を撫で、治癒魔法をかけてくれた。
戦っても守っても、補助をさせても完璧。
強いだけでは無く、他の仲間たちのことも考えて動き、決して自分が足でまといになるようなことにはならない。
それでいて威張ることも無く、時には退き、他者の功労を精一杯評価する。
怪我をすればすぐに庇い、疲弊が溜まると、他者のペースに合わせてくれる。
フェリアの闘いを見ながら、俺は元の世界での冒険を思い出していた。
パーティ全員から認められ、好かれていた竜人の剣士であり勇者。
俺は冒険中ずっと、彼が皆に認められるのは強く逞しいからだと思っていたが。
フェリアを見ていると、当時気がつかなかった、彼の良い面がまざまざと蘇ってくる。
怪我をしたドワーフを庇い、崩された状態から的確な布陣を導き出したこと。
立ち位置が定まらない俺に、遊撃という立場を作り、俺の存在意義を作り出してくれたこと。
魔物に襲われた一般人を救うことができずに落ち込んでいるとき、『次こそは必ず救おう』と激を飛ばしてくれたこと。
フェリアも彼と同じなのだ。
可愛いから、優しいから好かれるのでは無く。
見えないところでも、他者を尊重して立ち回り、皆のフォローに周りながら自分自身も功績を残す。
並大抵の努力や頑張りでは不可能なことだ。
だがそれを悟られぬよう、本人はいともたやすく行っているかのように自然に振舞う。
俺がもしそれだけの能力を持っていたら、きっと自慢しまくっているだろうな。
さて、
フェリアの魔法によって消し炭になるか、俺の斬撃によって真っ二つになるか。
はたまた電撃を浴びて感電死するか、どうにかして生命を根絶させられた魔物の数も増え、気がつけばもう十階層をも通り越していたようだ。
フェリアが持った皮袋にも、魔物の素材や結晶などがいっぱいに詰められ、そろそろ満杯だろう。
俺は携帯の端に記された時刻を確認し、『あと一階層潜ったら帰ろう』と提案して、フェリアにも了承をとった。
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階段を下りると、フェリアが怪訝そうな表情で辺りを見渡した。
直後、俺の傍に速やかに駆け寄ると、迷子になった少女のように心配そうな面持ちで、キュッと俺の腕にしがみつく。
またしても良い感触。
「どうしたんだ?」
「いえ、すみません。この階層を一人で潜るのは、初めてのような気がしまして」
逆に言えば、先ほどまでの階層は一人でも潜れる場所だったのか。
出てくる魔物も若干手強く、俺の斬撃一閃では臓物一つ零れぬ輩ばかりだったが。
そう思うと、もしかすると結構奥深くまで来てしまったのではないかと不安になる。
その思考が顔に出てしまったか、フェリアはそっと俺から離れると、堂々とした面持ちで仁王立ちをして、えへんと胸を張って見せた。
「大丈夫です、ご主人様。昔冒険をともにした、リリウスという剣士とともにもっと深くまで潜ったことがございます。ご主人様の身に何かあるようなことは、決してございません」
組んだ腕に潰され、普段より多少自己主張をしている膨らみから視線を剥がし、俺は脳内を支配する煩悩を剥ぎ取ってから、
「そうか、頼って大丈夫なのか」
「はい、期待してください。ご主人様に、私の格好いいところをもっと見せてあげます」
そう言うと、フェリアは俺を守るような姿勢で先に一歩目を踏み出した。
格好いいところなら、もう十分見せてもらったけどな。
ロングスカート――とまでは言わないが、ミディスカートよりかは長いスカートを舞い上がらせ、軽やかなステップで攻撃を躱して先手を取る。
突進してきた魔物には容赦無く火炎弾を撃ち込み、逃げ出した魔物に対しては追うような真似はせず、静かに見送る。
小型獣などは一瞬で灰にされ、大型獣やフェリア曰く珍しい魔物は、雷撃を浴びせられて感電死する。
群れになって出現した魔物は、俺の土魔術で土壌を軟化させて沈殿させ、フェリアの炎魔法によって一掃される。
その時も、フェリアは俺の土魔術を興味津々と言った様子で見つめていた。
強くて可愛い女の子にこう羨望の眼差しを向けられるとは、精神の何処かが非常に高ぶってくる。
もっと褒めて欲しい。
と、余計なことを考えていると、不意に俺たちの眼前に見たことの無い魔物が飛び出してきた。
群青色をした体表をしており、時偶赤黒いまだら模様になっている。
ククリナイフのように研がれた何らかの武器を手にしており、眼光は鷹のように鋭く冷たい。
全身に鱗が施されており、トカゲのような風貌をしているが、色彩や二足歩行と言ったためか、トカゲかと聞かれても肯定し難い。
何とも奇妙な生物である。
俺がその変色トカゲとにらめっこをしていると、颯爽とフェリアが飛び出し、意気揚々といった様子でスカートをはためかせながら俺の前に降り立った。
「ここはお任せください。わたしもこの魔物を見るのは初めてですが、きっと素材は高級なはずです。まずは雷撃を食らわせてみます」
そう言って駆け出すと、ナイフを掲げながら突撃するトカゲの胸元に向かって、燦然と輝く雷撃弾を撃ち込む。
虚空を切り裂き、音を割りながら空間を突き抜けると。
何のことも無く、変色トカゲの左胸に直撃した。
大抵の魔物はその瞬間、瞳をしろくろさせ、泡を吹いて倒れるのだが。
「え、うそ……」
変色トカゲは胸に受けた雷撃をものともせず、ククリナイフの刃先をフェリアに向けたまま、風のように早く疾走し――。
「――あ!」
「きゃぅ!」
フェリアのスカートが断裁され、ふくらはぎの肉を無情に抉りとっていく。
攻撃を弾かれた動揺のためか回避行動が遅れたらしく、フェリアはその攻撃をモロに喰らいながら後方へと転がり飛んだ。
「フェリア!」
「――治癒魔法」
煮詰めたトマトソースのようなドロリとした血液を溢れさせ、フェリアは自身のふくらはぎに治癒魔法をかける。
幸い怪我は大したことが無かったようだが、フェリアの顔から赤みが消失し、唇はカタカタと震えていた。
しかしフェリアも歴戦を勝ち抜いた“戦士”であり、元勇者である。
パシンと頬を叩き、すぐさま立ち上がると、後方へと回った変色トカゲへと向き直り、腰に差したレイピアを取り出し、両手で握りしめて構えた。
繊細な見た目をしており、普段から布の中に編み込んでいるらしい。
流石にご奉仕や家事をしているときには身につけていないが、今日着込んでいた戦闘用のエプロンドレスには隠し持っていたらしい。
だが。
「フェリア、それ、使えるのか?」
「魔法ばかりに頼ってきたので……。使ったことは何度かありますが、身体がもう覚えていません」
ごもっともだ。
レイピアを両手で握り締めて、しかも腰を落とし、足が竦んで戦慄いている。
銀行強盗が警官を前にして逃走を図っているようだ。
傍から見ても危なっかしい。
普段なら、そんなフェリアの新鮮な挙動にキュンキュンくるのだろうが、今はそんな状況じゃない。
一歩間違えたら、フェリアは今この場で生命を落としていたかもしれないのだ。
変色トカゲの背丈がもう少し大きかったら――スカートがもっと深く断裁されていたかも――では無く。
胸元などの急所を捉えられていたかもしれない。
「フェリア、」
「大丈夫です。ご主人様を傷つけさせるわけには」
下がってろ、ってことか。
無理だよ。こんな目の前で最愛の女の子が生命を危険に晒されているって言うのに、後ろで見ていろだと。
そりゃもちろん、フェリアの仕事には『主の身を危険に晒さない』という言葉も入っているだろうが、それとこれとは別だ。
あるだろ、きっと。
俺はメイドの五箇条などを見たことは無いが、『主を心配させたり、悲しませたりするな』って文字が――。
「フェリア、下がってろ」
言い終わるか否か、俺は気がつけばフェリアの前に立ちふさがっていた。
身体が勝手に動いたとでも言えば良いか。
いつの間にか愛剣を抜き、右手には魔力が溜まっている。
本能だ。
精神の奥底に眠る本能が、俺の身体を動かしたのだ。
最愛の女の子――フェリアを護るために。
「ご主人様、」
「大丈夫、心配しないで」
俺はなるべく柔らかな口調で言葉を紡ぎ、変色トカゲと向き合った刹那、“勇気の加護”を与えられし愛剣をトカゲへと振り抜く。
勇気の加護とは、たしか切れ味を落とさず、砕けない。と、返り血や血糊を寄せ付けず、呪いを封じ込むなんて大層な加護力を持っていたはずだ。
振り抜いた瞬間、変色トカゲの武器と俺の愛剣がお互いに食らいつく。
耳障りの悪い金属音が奏でられ、双方後方へと飛び退き、仕切り直される。
刹那、またしてもトカゲは飛び出した。
俺は愛剣で牽制しながらも、右手を突き出して雷魔術を撃ち込む。
効かないと分かってはいる。
だが、多少でもそちらに気を向けてくれれば、その瞬間に群青色をした脳天をたたっ斬ることができるかもしれない。
使える武器は何でも使う。
それが、ザフィラスさんから最初に教わった、魔法剣士としての戦い方だ。
「ぐ――ぎゃう!」
俺が放った雷魔術を胸に受けた刹那、変色トカゲは苦痛に顔を歪めながら胸元を押さえた。
苦しそうに呼吸を乱し、ククリナイフを取り落としてうつ伏せになって倒れ込んだ。
まだ息はしている。
過呼吸にでもなったかのように、喉笛から苦痛の篭った音響を奏で、全身を仰け反らせる。
俺は返り血を浴びるのを覚悟で変色トカゲの眼前に飛び出し、群青色の脳天に向かって剣を振り下ろしたのだが。
「――ぎゃふぅ!」
剣先が皮膚を捉える直前、変色トカゲは白目を向いて口端から泡を吹き出しながら息を引き取った。
多少時間はかかったが、ショック死したらしい。
だが何故、何故俺の魔術は効いたのだ。
フェリアの魔法と比べ、俺の魔術はかなり劣っている。
威力も無い、速度もない。
今回の攻撃も、単に意識を逸らすつもりであり、魔術を撃ち込むことが目的では無かった。
最悪躱されたとしても、一瞬でもその意識を逸らすことができれば儲けものだ。
そう考えて撃ち込んだのだが――。
「わ、わあー……。ご主人様、」
言い終わるより先に、フェリアは俺に精一杯の愛念を向けて飛びついた。
言葉が無くとも想いが通じるほどに熱い抱擁。
突然のことだったために俺はフェリアの重みを支えることが叶わず、半ば押し倒されるような格好で、俺はフェリアの下敷きになった。
「――ひゃん!」
「痛――」
後頭部を打ち付け、視界に星が散る。
散りばめられた星彩が消失した刹那、視界には、薄く目を閉じた天使のように愛らしいフェリアの顔が接近していた。
「ご主人様……。恥ずかしいので、ちょっとだけ目を瞑っててもらえませんか?」
言い終わるか否か。
フェリアの繊細かつ肉付きの良い手のひらが俺の瞳を覆い――。
極上の感覚とともに、淡く甘美な風味が、口中に広がった。
愛する少女から贈られた、甘く幸せなキスだった。