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最後にお一つ雪の花を  作者: 千野狐狼
プロローグ
7/14

雪融けを告げる白い桜―6

光の粒が空に投げられまるで広がったように瞬く夜の闇の中、橙色や白色の光が地上に灯っている。蝋燭のように競り立つビルの明かりはまるでキャンドルのようで、住宅街の明かりは並ぶ燈籠のように街を彩っている。

そんな花日町にある五間の住宅街。山を開いて作られたこの町の平地部分にある集合住宅の一角。車一台が通れるほどの道路を挟み軒を連ねる家々の一つ、黒い屋根の一軒家。家の前にある小さな門には草部と書かれた表札がある。その家の角っこ。隣の家との塀側に設けられた側面部分の一室。曇りガラスと網戸がはまっているサッシがある風呂場に、暖かな印象を受ける橙色の明かりが点いた。

電気を点けた脱衣所兼洗面所に入ると凛は服を脱ぎ始めた。無論これから入浴するのである。脱皮でもしたようなその服を洗濯カゴへと放り込む。着ていたのは宗太の妹茜の服と言うこともあり、洗濯機へとそのまま投げ込む祐一郎や宗太の服とは別にしてほしいとの事で、凛も洗濯カゴに入れたのだ。

昼間の餓鬼の血はマンションから離れてしばらくして消えたおかげで、服には一滴の血痕も残ってはいない。でなければ凛はそもそも草部家に戻ってはいなかった。もし血塗れの子供が一人家に戻ってきたら、この家に迷惑が掛かる上に折角の休める場所もなくなる可能性が高くなり、最悪自分の目的すら果たせなくなりかねない。

だからこそ消える血は凛にとってはとてつもなくありがたい物だった。しかし、凛もその悦に長く浸るつもりはなかった。血の消滅の原因は詳しくは分からないが、あれが地獄に送り返される餓鬼だからだろうと凛は考えていた。ある他の化け物を斬った時には血が消えなかった事があるからだ。

その事を頭の隅へと追いやりながら凛は風呂場の扉の取っ手に手を掛けた。血の消えなかった化け物の事は凛にとって消したい記憶なのだ。

風呂場の扉を開けるとほんのりと湿った空気が脱衣所に流れ込んだ。その空気と入れ替わるように凛はひんやりとする風呂場の床に足を入れた。水で濡れているせいか、春先の夜の寒さのせいか、冷たさが足の裏から頭までを刺激する。それに身震いしつつ凛は両足を入れて扉を閉めた。浴槽の蓋を開けてプラスチック製の手桶を取る。蒸気が天井を目指して昇るお湯を組んで足元や床へと掛ける。入っていきなり体に掛けずに床へと撒く。それが凛の寒い時の入り方なのだ。こうして入る方が体には良い、と教えられた昔からの習慣である。

それから体にお湯をかけて風呂用の椅子へと座り、凛は風呂場の鏡に映る自分を見つめた。その姿に凛は大抵気分が下がりげんなりとしてしまう。

それほど手入れもしてなかったせいか艶や滑らかさが消えた肩よりも少し長い黒髪。僅かに丸みを帯びた小さな顔についている、昔とは違う切れ長になってしまった目。笑ったときに口角はあがっているのだろうかと凛自身首をかしげてしまう一文字の口。湾月型のような緩やかな肩。筋肉かただの肉か分からない程に白く細い腕。適度にある肉がなければ腰でぷつりと切れるのではないかと思うような逆三角形型の胴体。

凛はそれを見てやはり首をかしげる。瑠美、宗太、宗太の家族からすればこんな自分の体型は可愛らしいと言うのだ。ジュニアモデルのようだとも言っていた。しかしながら、それがどれほど凄いものなのか凛には分からない。けれども宗太の妹茜と瑠美からはなぜだか羨ましがられる。将来は絶対に美人になると。

誉められているのではあろうが、しかし、凛はそんな風に言われる体を自分で見て嫌になってしまう。背は低く見た目からして弱々しいと思う体なのだ。そんな自分の細く小さい体がとても良いとは思えなかった。

確かに小さい体は小回りが利く。使うエネルギーもよほどでない限りそこまで必要とはしない。だからこそ今までどうにか食い繋いでこれた上に、化け物相手にも反射的な行動を即断速攻で行えてきた。そこは大変良い利点だ。体が小さければ的は縮まる。目の前でも例え隠れている敵でも、気配を感じとる事さえできれば咄嗟の攻撃にも反応できる。余程の手合いでなければ深手を負う事も避けられる事は容易だ。戦闘での俊敏さなどで負ける自信が凛はまったくない。

しかし、敵を威圧するにも押さえるのにも適してはいないのだ。今日の化け物に対する散々切りつけての尋問のような行動でも起こさない限り甘く見られてしまう。ある程度ならば組倒す事はできても押さえる相手が強く大きければそれも難しくなる。さらには小さいが故に相手が大きくなればなるほど一撃必殺を目的とした首や胸の攻撃も与えにくくなるのだ。現に宗太や瑠美にとって頭一つ分大きいくらいの餓鬼も、凛には頭二つ、三つ分大きいのだ。

そこに強さが重なられれば太刀打ちなど出来ない。その欠点を補うための愛刀と剣術と人を逸脱した身体能力である。しかしながら、人を逸脱した身体能力でも脚力や腕力が上がる程度だ。傷を受けてもすぐには治らない上に痛みは変わらない。肢体がなくなっても再生はしない。肢体を斬られても喚き動ける化け物と違い、あくまで常人を外れた身体能力だけである。一撃必殺がお互い様である以上、凛には汚れず綺麗になどとそんな事を言って選ぶ手段がないのだ。

凛は髪を洗い終えて使った方が良いと言われたリンスを髪につけた。甘い匂いで乳白色のそれを髪に馴らす。これで洗い流せば良いとの事だが、そんなもので艶と滑らかさが戻るのかと考えると凛は少し疑ってしまった。確かにつけたそれはよく滑るのだが。

そうして手と髪のべたべたつるつるをお湯で洗い流し、垢擦りを手にした。垢擦りをボディーシャンプーと書かれた桃の絵が書かれたボトルの前に持っていき、薄紅のキャップ部分を押す。垢擦りに落ちた液体を手の中で泡立てた。

そうして体を洗う中で凛は欠点としか思えない体に、唯一それでも良いと思える部分があることを毎度のように思い出す。

それはまだ少ししか膨らんでいない胸だ。ちょっと手で覆えば隠せる程度のそれだが、大きくなられては戦闘に支障を来すのではと凛は危ぶんでいるのだ。細い体の前に出っ張りがある。それは想像しただけでも何とも邪魔だと思ってしまうのだ。だからこそそこだけは利点として捉えていた。

しかしというべきかやはりというべきか、凛もそれなりに膨らんで欲しいとは思っているのだ。平たくまったくないという状態だけ嫌なのだ。だが、豊満というのもまた困ってしまうのだ。戦闘には邪魔だが、女としては適度に欲しい。こんな我が儘な気持ちに胸が応えてくれるか否か。そこで凛は非常に悩んでいるのだった。

(お母さんはどのくらいだったっけ……)

と、凛は背中を洗いながら鏡越しにその姿を思いだしかけて、慌てるように首を振ってその記憶を払った。

赤い花模様が華美だった群青の着物。腰まである長さが風に綺麗に揺れていた黒髪。ほのかにふんわりと香る優しく甘い匂い。自分を優しく呼ぶ声。

それを本当に記憶の底から思い出しかけて凛はとっさにお湯を頭から被った。手桶でもう一度お湯を汲む。湯と共に排水口へと流れる泡の音に、

「泣くなら水を被れば分かりはしない。それに一緒に流してしまえば良い」

と、そう言った父の言葉を思い出して、もう一度お湯を頭から被った。鏡に映る自分の姿には一筋の涙も流れてはいない。流れているのはお湯だけだ。

凛は鏡越しに、自分を強く強く恨むような顔付きで睨み付けた。手桶の柄を握る手に力がこもる。湯気で次第に曇る鏡の向こうに凛は歯軋りをして、乱暴に湯の中へと飛び込んだ。

全ての化け物を手にかけてでもたった一つの願いを必ず叶えるのだ。泡の如く微かな音を立てて、水のように透明に、全てが消えたあの日のために。







宗太は今日初めて凛に与えられた部屋をその時見た。

部屋は物置のように段ボールなどが散開していたのだが、今はまるで新築の家のように、見事に片付けられていた。床などホコリぽかったのに今はワックスでも掛けたように輝いている。滑ることもできるような出来映えである。窓には外からは見えにくいレースまで取り付けられていた。

「わざわざありがとうございます」

部屋の入り口近くで凛が宗太に頭を下げていった。風呂上がりから間もないともあって凛からは石鹸の良い匂いが漂っていた。

「いや、別に俺はなにもしてないから。片付けてくれたのは母さんだし」

と、宗太は恥ずかしそうに申し訳なさそうに言った。

本来ならばこの部屋の片付けは凛と宗太がすることになっていたのだ。しかし、凛による朝の謎の変革と昼間出掛けてしまったせいで片付けるべき人間が二人とも外出というミスが起こり、結果的に母の美和子が片付けることになったのだった。そのため凛が風呂に入っている間に宗太はこっぴどく叱られてしまったのだ。

あんたまで外に出てどうするのかと。春休みだからといって遊んでばかりいないのなどと。

宗太もそのことを忘れてしまった事は認め、母親任せにしたのは悪いとは思っている。高校生になるのに母親任せとはと茜からも散々からかわれた。筋の通らない説明のしようのない理由、俗にいう言い訳ならば考えたが、宗太の性格がそれを言わせなかった。これは完全に足掻きようのない痛恨のミスだと。

そんな内心かなりへこんでいる宗太は部屋を改めて眺めた。綺麗に片付いてはいるのだが、片付けすぎたのだろうかと思ってしまうような部屋だ。棚やベッドやタンスに机の大型家具はおろかほぼ何もない。まるで簡素な客室そのものだ。唯一あるのが昨夜凛が使った布団一式と、小さな枯れ葉色の四角いテーブルが一つだけ。客室ですらまだこれよりも何かしらが置いてある。まるで刑務所のようだった。

「本当にこれだけでいいの?何か他に」

「いえ。ここまでして頂いたのですから十分です」

言い終える間もなく凛が澄ましたような、至って満足そうな顔をして答えた。宗太は唸るように本当にこれだけで良いのだろうかと思い頭を掻く。

八畳間の部屋に布団と小さなテーブルが一つだ。元から殺風景な部屋にこれだけで十分だと言うのは普通ならお世辞だ。居候で世話をしてもらうと言うことで遠慮しているだけだと捉えるだろう。そこに何か楽しみの一つでもあって良いくらいだとも思ってしまう。しかし、少女は本気でこれだけで満足とでも言うような顔をしてそんなことを言ったから、宗太はどちらなのだろうかと考えてしまった。

それとも昼のあの事があって何か自分に遠慮でもしてるのか。もしかして一人になりたいのだろうかという疑問を宗太の頭は勝手に浮かべてしまう。一番気にしているのは宗太自身なのだが…………。

「それでは少し早いですがそろそろ私は」

そう言ってまだ九時にも関わらず寝ようとする凛に、宗太は躊躇いながら声をかけて止めた。今でなくても良いことではあったがなぜか話したくなったのだ。それが昼に起きた事のせいなのかどうかは分からなかったが。

「毎年やるんだけど、明後日白い桜が見れる場所があるんだ。興味とかない?」

宗太の問いかけに凛ははてと不思議そうな顔をした。

「白い桜ですか?」

「うん。白いって言ってもライトアップなんだけどさ。下から光を当ててその桜が白く染まるっていう感じなんだけど…………」

「行ってみたいです」

迷ったようすもなく即答で凛が頷いた。興味があるだろうかと不安ながらに話した宗太はその答えに思わず笑顔になる。

「皆で行くから興味ないなんて言われたら凛ちゃん一人になっちゃうなと思ってたから良かったよ」

「そうだったんですね。皆さんで行くなら尚更行きたいです」

そこでふと微かに笑顔を見せた凛に宗太は安堵した。少女はやはり少女なのだと。

「そっか。分かった。じゃあ父さん達に伝えとくよ」

「はい、よろしくお願いします。あと、おやすみなさい」

「うん。おやすみ」

礼儀よく頭を下げた凛に返事をして宗太は外に出た。扉を閉めた直後、宗太は部屋の前でほっと胸を撫で下ろした。凛は少女だったのだ。いつも難しい顔をして無表情な訳ではないのだ。大人びた雰囲気や何か別世界にいる人間のような印象を受けるだけで、笑顔を見せればやはりまだ十一歳の少女だった。先程の会話で見せたような可愛らしくにこりとはにかむそれは、宗太に物凄い安心感のようなものを与えていた。

宗太にそう思わせる原因は宗太自身分かっていた。それは恐らくこの先消え去らないであろう光景だ。

ひょろりとした体躯に、何が入っているか想像もしたくないような膨らんだ腹。五本の何でも切り裂けるのではと思わせるような爪。にやりと口角が上がり薄気味悪く笑ったような大きな口から覗く猛獣のような鋭い牙。深紅の色をした宝石のように不気味に光る切れ長の瞳。縮れていながらも動くたびに振り乱れる髪。そんなおぞましい姿をした化け物の名が、餓鬼。

それを血にまみれながら、黒髪を揺らしながら、いきり猛る戦士の如く小さな体で刀を振り回す少女、凛。

昼間見たその二つが入り乱れる姿と、惨劇の後のように血で溢れる室内が宗太の頭の中に強く焼き付いていたのだ。そのせいかあの後から今の今まで凛に話しかけるのを宗太は躊躇っていた。それにも関わらず、凛が笑顔を見せた事に多少は恐れを抱いたが、宗太は思わず安心してしまったのだ。あれが夢や嘘だったとでも言うように、その事を一切話さず、日常の会話で笑顔を見せた少女に。

宗太はそんな浮きも沈みもしない気分に苛立ちを覚えながら自室へと向かった。これから風呂に入る支度をするためだ。明後日の桜のショーに凛が一緒に行くことはそのついでに言うつもりだった。明後日の事は宗太も楽しみなはずなのに、けれどもその頭に浮かぶのはやはり昼間の事だけだった。

餓鬼を殺すためなら何の躊躇もなさそうに刃を向け血にまみれ、餓鬼以上に恐ろしい形相で斬りかかるそれは、どう頑張ろうと、何をしようとも消しきれない。それがまだ今日起こった事ともあり鮮明に残っている。忘れようとしているのにだ。

宗太は部屋に入りタンスから下着と部屋着を出すと部屋を出た。

餓鬼は化け物なのだ。人を食らい、しかし満たされずに探してまた食らう化け物なのだ。それを倒す、殺す事は悪いことではない。むしろ良いことなのだろうと宗太は思っていたのだ。だからこそ協力することに躊躇いはなかった。人々を襲う化け物を倒すという協力だからだ。それを昨日も聞き今もそう思うのだが、凛の戦くような姿や迷わず餓鬼の肢体や首をはねる姿のせいか、良いことのようにはとても思えなくなっていた。

まだこれで凛が感情を押し出して殺してくれれば宗太もそれが少しはよく思えた。けれども凛は無表情で餓鬼を殺し、悲しげにそれについてなどを説明する。だからこそ宗太は化け物を退治することは良い事のはずなのに良い事と思えなかった。人を食らう化け物なのにだ。

しかし少女は自分達を巻き込ませないために、餓鬼に馬乗りになられた危険な状態で自分の体を張った。それが宗太はとてつもなく嫌だった。少女から自分達は紛れもない邪魔者だとでも言われているような気がして。力もなく助ける事も出来ないのに何かの力になりたい。それがとてつもなく自分達の独り善がりな考えである事を悟らされた気がした。同時に、宗太は何も出来ない自分への無力感のような、自分達から首を突っ込んで見た凛や化け物にも関わらず覚えた嫌悪感への更なる嫌悪感のような物を与えていた。

それでもお礼の言葉や普通に話したり喜ぶ凛に、心なしか安心したり喜んでしまう自分が宗太は嫌いになりだった。

それらの事が頭と心の中を駆け巡り、宗太は深く床にまで届きそうな重い溜め息を吐いた。何が正しくて、何が間違っているのか。自分達のしていることは…………。

宗太はもう一度溜め息を吐いた。赤く鮮明に残った記憶と嫌悪感が呼んだ憂鬱な気持ちが宗太を今夜は眠れなさそうだと思わせた。







電気を消した暗い部屋の中、凛は白い刀を布団へと持ち込んだ。そうして自分の隣へと静かに置く。昨夜は宗太の部屋だったため隣に置くのを諦めたが、今日からはまた隣に置いて寝ることを決めていたのだ。

刀を隣に置いて眠るのは人前では憚られるが、今までもそうしてきたせいか、これがなくてはとばかりにうきうきとした心持ちで置いて、凛は満足げに横になった。愛刀が横にある。これだけで凛は何故か落ち着くのだ。

そうして布団を被る。少し肌寒い夜の冷え込みともあり、ふんわりとした羽毛布団だ。微かな、晴れた陽気の、暖かな日だまりの匂いつきである。それに少しばかり嬉しさで胸が膨らみ、凛は布団の中で刀を抱くと、目を閉じた。広がるのは開けていた時と同じ暗闇だ。

そんな中で考えるのは、宗太が言っていた明後日の白い桜などではなく、昼間餓鬼が言っていた言葉の意味だった。あの言葉の意味が分かるまでは餓鬼の問題は解決しない事を凛は知っている。

餓鬼という一つの問題は小さくとも、気にもしないほどに広がる小ささは、やがてとても抑えきれない程の大きな問題になる。それを今の段階で抑えきれなければ、凛の目的は変わり、やがて朽ち果ててしまうのだ。

凛はその考えをもって頭の中にある昼間の餓鬼の言葉を思い出す。餓鬼は尋問、いや拷問とも言えるそれに、

――ダイジョウハ、ヤズロ、ゴドミニイヌ。

と、答えた。人の成れの果ての、人語を解す餓鬼だからこそ、言葉が通じたのだろう。これでアーやウーという唸り声なのか鳴き声なのか分からないような言葉で答えていたら、凛は迷わず餓鬼が息をする間もなく切り捨てていた。目的のためや起きている事への質問に答えない化け物は凛にはいらないのだ。

しかし、餓鬼の言葉をそのまま受け止めれば意味はまったく分からない。悪く言えば聞いたことに対して正しく答えていないとも言えるくらいだった。

だが、大将の事を尋ねて餓鬼はダイジョウと答えている。単純に滑舌が悪いのか、言葉を忘れただけなのだろう。そこで凛がまず初めにしたのは考えたのは餓鬼が濁ったような声で言ったその濁り、濁音を消すことだった。

――タイショウハ、ヤスロ、コトミニイヌ。

これが濁音を消した言葉だった。そこで分かるのは間違いなく大将がいる場所を餓鬼が言っている事だ。イヌは恐らく居ると言ったのだろう。これは餓鬼がそう言った時に凛は理解していた。餓鬼が受け答えをしっかりしていることも判明した。だからこそ凛は無理にでも聞き出そうとしたのだ。その結果、恐らく場所は聞き出せたはずだった。ただ、それが暗号めいた言葉という事が問題なのだ。

ヤズロ。ヤスロ。ゴドミ。コトミ。

居るをイヌと言ったように、恐らくこれらを別の文字に変えなければならない。しかし滑舌の悪さのせいで何が正しく何が間違っているのかすら分からない。そしてどちらが場所なのか、もしくはどちらも場所なのかすらも疑わしい。これが本当に場所を答えたものなのかも疑わしい。と、考えかけて凛はそれだけは消した。

これ自体の真偽を疑った瞬間、凛には餓鬼達大将の当てがなくなるのだ。

餓鬼に食われた人間は凛が確認しているだけで全部で六人だ。宗太と瑠美の二人には言ってはいないが、実はマンション以外でも食われている。事もあろうか他の二人は凛の目の前で餓鬼に食われたのだ。助けようとした時には遅く、彼等は食われて死んだのだ。命の灯火が消えるという光景にふさわしいくらい、空しく悲しさを漂わせる青い炎を空へ散りばめながら。

その最初の出没から凛が確認しているだけで二週間で既に六人だ。本当はもっと多いのかもしれないと凛は踏んでいる。しかも現れるのはほぼ毎日である。目撃したその半分以上は食われることなく防いでいるが、凛もいつまでも餓鬼退治をしているつもりはない。

餓鬼は羽虫と同じで根源を絶たない限りいつでもいくらでも沸いて出てくる。大元を絶っても増えるものはいくらでも増えるだろう。しかし、それでも羽虫の根城事絶つ方が幾分も効率が良く、減少も早いだろう。そのあとであぶれた者を一つ一つでも良いから絶つ方が、食われる者を減らす事もでき、どちらかというと安全である。根城が判明するまでは根城を離れた餓鬼退治にはなるが…………。

だからこそ凛は、少なくとも手に入れた餓鬼の言葉の真偽を疑って考える事を止めようとは思わなかった。振りだしに戻るだけと分かっていて、それだけは避けたかった。もしこれが間違っていても後では無駄骨以外の問題は何も起こらない。しかし、正しければ折角の情報を無駄にした上に餓鬼の犠牲者が増える問題が起こるのだ。

そのため凛は真偽を疑うことはやめて言葉の意味と解読することだけを考える。その傍ら頭に浮かんだのは高層の建物で言った言葉と、言いかけた言葉だった。

――食われた魂はどこへ行くんでしょうね。そして、餓鬼はどこから来たんでしょうね。

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