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最後にお一つ雪の花を  作者: 千野狐狼
プロローグ
6/14

雪融けを告げる白い桜―5

花日町金木。片側二車線の国道が隣町にまで続き、花日町の駅へも続く車道がある車通りの多い地区だ。その六丁目は国道沿いにレストランを始めとした飲食店や複合施設があり、駅からも離れているせいか、花日町全体や隣町からの人が車で来るために交通量は普段から多い。そして今が春休みともあってか所々車が詰まる事もあるくらいだ。

その国道にある三色の看板が目立つ全国チェーンのレストランの少し先、出来て間もないのが分かるほど乳白色の壁が綺麗な状態の十二階建てのマンションが建っている。国道の通りで一番高いのはこのマンションくらいだ。

そのマンションの十二階の一室。スモークガラスの入っているベランダの手摺に隠れるように凛達はいた。ベランダの端には植木鉢がいくつか置かれている。それすらも陰にする三人を照らすのは斜めから射す太陽だけだった。

ベランダで凛は窓を探っていた。下はスモークで上は透明な大きなガラスだ。凛はこっそりと中を覗き鍵が開いている事を知った。この扉は……と、思い凛は戸を引いた。車輪の転がる音がして驚く二人の前で窓が全開になる。

勝手についてきたのは自分達だが、凛の行動とこれからすることを考えて宗太は動こうとする凛の肩に手を置いた。

「勝手に入っていいのか?」

「本来はいけないでしょうが今は致し方ないです」

そう言うと凛はカーテンを潜るようにして素早く中に入った。そんな凛に二人はお互いの顔を見合った。宗太は中を指差し、瑠美は身を引いて首を振る。そして同時に前へと顔を戻し溜め息を吐いた。

何が致し方なくて勝手に家に入れるのか分からない。だが、凛という少女はここに何かあると踏んでいるらしい。それが直感なのか経験なのかは不明瞭だが、ついていくと言ったのは宗太達なのだ。凛の言うその致し方なさに任せて二人はカーテンを退けて室内へと入った。途端に二人は息を飲んだ。

「なるほど…………やはりここで人が消えたのは確かみたいですね」

凛は室内の光景に納得するかのように頷いた。二人は何なのだろうかと考える。

入った部屋はLDK。目立つのは長方形のテーブルに並べられた、椅子と同じ数の四つの食事だ。大皿に載せられた肉の混ざった野菜炒め。湯気もつやもない四つのご飯。表面が味噌の塊で濁っている四つの汁物。取り皿と思われる空の器。それらがまだ手のつけられていない状態で置かれていた。白いカウンターキッチンへ目を向ければ、洗われた食器が重なり、フライパンや鍋がコンロにそのままになっている。窓から入ったところ、宗太達の右側の隅にあるテレビは点けられていない。

そんな部屋の光景を見て瑠美も宗太も直感で感じた。本当にここにいた人間は消えたのだと。それが人為的でも意図的にでもない物だと。

どこの誰が四人分の食事を用意して食べる前に出掛けるのだろうか。どこの誰が食器を洗い鍋に蓋をして逃げるのだろうか。これで引っ越したとなれば余程の変わり者か、相当な状況下にいた犯罪者くらいだろう。犯罪者でさえこんな状況を作るのかと疑うほどだ。さらに電話があり警察か救急がここへ駆けつけたのだ。それで事件にもならず警察関係の人間がマンションにもおらず黄色いテープも貼ってない事から、犯罪者関連ではまずない。だからこそ二人の頭は自然とそれを考えた。

ここにいた人間は少なくとも今から食事をしようとして、しかし、食べられなかったのだと。そこにぴったりな言葉は二人の目の前でテーブルを調べている少女が言った通りの、消えた、だ。

けれども二人はそれを素直に受け入れられなかった。こんな状況で人が消えるわけがないのだから。何か特別な、他の意味があるのだと思い、探し、少女へと尋ねた。

「これどういう事なんだ?」

「凛ちゃんこれって――」

「静かに……」

底知れない不安に尋ねる二人に凛は言って手を翳した。どうしたのかと尋ねる瑠美に凛はさらに手を翳す。しかし、その顔はテーブルでも二人でもなく、全く違う方向を向いていた。二人も翳された凛の手からそちらを見る。

凛が見つめる先は部屋にある二つの扉のうちの一つだった。テレビと宗太と瑠美の横にある襖ではなく、体の前方にあるガラスが四つ窓のように入ったノブのついた扉だ。

ほんの僅かな時間固まっていた凛はバットケースを素早く開き刀を取り出した。ケースなど邪魔だとでも言うように凛はそれでも静かにそれを足元に捨てた。そして音を立てないようにスーッと刀を鞘から抜いた。抜き身の刀と空の鞘を両手に持ったその行動に、二人は体が強張るのを感じた。刀を振り回し化け物と戦った昨日の少女の姿が頭をよぎる。二人が見る凛は、まるで獲物を見つけた肉食獣のように、暗殺を目論む忍者のようにゆっくりと息を潜めて扉に近づいている。

じとりと汗が手に滲み、得体の知れない重圧のように重い空気に耐え兼ね、二人が声をかけようとして、しっ、と凛に小さく叱られた。二人が息を飲む先で、凛がドアノブに手を掛けた。音も立てず扉が開く。

明かりの点いていない廊下は冷気でも漂っているのかひんやりとしている。その廊下の四つある扉のうちの一つが拳一つ分開いているのだ。凛はゆっくりとその廊下を進み、その扉に近づいた。凛が進むのに合わせて二人も廊下へ入ろうと進んだ。

その途端、凛の目の前の扉が内側に壊れるほどの勢いで音を立てて開いた。

「ウグガッ!」

「――――ッ!」

凛は突然真正面から現れた化け物に反応する間もなく覆い被さられて、背中から床へと押し倒された。思わずうっと声が漏れる。鈍い痛みが凛の体の後方を襲い、自分より大きな体の化け物の体重が前面から襲いかかる。

化け物が鋭利な爪を突き立てようとするも、凛は化け物との間に刀を挟みその鉤爪の進行を防ぐ。が、相手は上で動きにまだ幅が利く。凛は下で化け物の力を防ぐだけだ。

それでも粘り気のあるよだれを周りへと垂らし撒き散らしながら、鋭い牙の並ぶ口を近付けてガチガチと開け閉めする化け物を少しでも自身の体から離す。少しでも力を抜けば化け物の餌にしかならなくなるのだ。それが証に化け物の赤い目が暗がりにも関わらずギラつき、目の前の凛以外見えていないかのように上で食らいかかろんと暴れている。

「凛ちゃん!」

「瑠美無闇に前に出るなって!」

瑠美が叫び前に出ようとしたのを宗太は瑠美の腕を掴んで止めた。瑠美は眉を寄せ怪訝な顔で宗太を睨んだ。

「でも!」

「二人共!……来ないで、大丈夫です!」

掠れた大声で凛は二人が来るのを止めた。その声に二人は一瞬体を縮めた。

相変わらず暴れる化け物を下で押さえながら凛は二人が動いていないことを横目で確かめた。今二人が飛び込めば化け物は間違いなくそちらに向く。二人が化け物が飛び出てきてから動いておらず視界に自分がいるからこそ化け物はまだ二人へと目を向けていないだけで、動けば何の躊躇いもなく獲物として見られる。もし、向かなくとも愛刀の鋭い刃を素で受け止める爪だ。丸腰の二人を引き裂くのは容易い。それが分かっているからこそ凛は二人が来るのを止めた。二人がこの化け物を退かそうとしても何もできず犠牲にしかならないからだ。そして廊下と居間の間にいるからこそ目標がそちらに向いても扉を閉めれば無傷で済む可能性が高い。凛としては動けば動かれるほど面倒になるのだ。

そして凛にはもう一つ助けに来てもらっては困ることがあった。二人が踏みとどまっている間にそれを実行する。

「あなたは、ここで何をしてたんですか?」

「ヒト、クウ。オマエゼッダイ」

だみ声で言ったそれに凛は舌打ちをした。この化け物は人の言葉が分からないわけではない。だからこそ今言った事がここでしていた事の答えなのだ。

ここで食べていた。住んでいる人を。

宗太と瑠美は化け物が喋った言葉に寒気を感じた。

「なぜここで食べたのですか?」

「グウウウウウウ!」

化け物が唸り声を上げて凛に力を入れて迫る。苦しそうに凛は顔を歪めた。腕の筋肉が麻痺し始めたのかひきつる。これ以上は、と尋ねるのを諦め、固い床に押し当てられた背中に痛みをこらえて力を入れる。と、同時に足を曲げ、化け物の出っ張った腹へそれを忍ばせた。臀部と背中にさらに力を入れる。化け物の背中が浮き、体勢が斜めになる。それを見計らって凛はふっと腕の力を抜いた。化け物の牙が瞬く間に顔へと迫る。凛はそこで再び腕に込められるだけの力を入れて、前へと突きだした。

「ウガアッ!?」

化け物の体が部屋の中へと飛んだ。衝突音が響き、それに続くように凛は中へと入った。机の前にもたれ掛かるように倒れているそれへと凛はとどめとばかりにその首へと刀を薙ぐ。机の引き出しを削る音と共に化け物の首が体と引き離される。呻き声すらなく血を噴き出すその首が床へと落下する間もなくその場からまるでいなかったかのように消えた。二人の足音と共に粉塵のようなものが辺りに舞い上がる。

「大丈夫!?」

静かになったからか慌てて入ってきた二人へと凛は振り向いた。二人はその血にまみれた凛の格好に一瞬言葉をなくした。部屋の中に化け物の姿はない。しかし、凛のいる場所と勉強机、脇にある白い壁だけが真っ赤に染まっている。そして凛自体が赤い液体を頭から被ったような姿だ。分かっていたとしても二人は当然ながら言葉をなくし、思わず身をのけぞるのも無理はなかった。その姿で凛の手足や肩、髪の先から紅の液体が床へ粘り気を伴ってポタリ、ポタリと落ちているのだから。

それでも二人は凛の無事を確信しほっとした。さっきまで目の前で襲われていて、来るなと助けることも阻まれた上に急に部屋に入り音がしなくなったのだから。

「あいつは?」

「殺しました。この血も消えますからお気になさらず」

「そ、そう…………」

表情を伴わずに言った凛に二人はそれぞれ頷き、その姿の恐れやさっきまでの事を掻き消すように辺りへと視線を向けた。

キャラクター物のポスターや棚や下にある籠に入っているおもちゃを見ればここの主がすぐに分かった。剥いで起きたような形で置かれているベッドの掛け布団は青。教科書の並ぶ机の脇にあるランドセルは黒。タンスの上にはサッカーボールまである。

凛も二人と同じようにそれらを見て部屋を出ようと周囲を見て悲しげな表情を浮かべている二人へと向かう。

「ここは子供部屋みたいですね。たぶんもう使われることも持ち主が戻ることもないと思いますが……」

「えっ?」

言いながら抜き身の刀に注意して凛は二人の脇をすりぬけた。咄嗟に襲われて捨てた廊下に転がる鞘を拾う。

「戻らないって……じゃあここの人はやっぱり!」

瑠美が絶望的な表情で言うと凛はそれに小さく頷いた。ここの人間は皆化け物に襲われて、消えたのではなく食われていなくなったのだ。その瞬間、凛の頷きが二人が先程まで思っていた事の全てを肯定した。同時にただの噂だった事が確証になる。真実かどうかを探りこんな状況へと辿り着く。それがとてつもなく恐ろしい事のように思えたのだ。

凛は納刀をしないまま落ち込む二人をよそにその前を通過する。傷心に浸っている暇など凛にはない。何か嫌な感覚がこの家からはするのだ。

「お二人とも行きましょう……」

そう言う声に押されて二人は凛の後を歩き出す。その足取りが来たときよりも遥かに重くなっていた。

そして、居間に入るその瞬間、凛は気付いた。窓から綺麗な青空が見えるのだ。

凛は入ってきた時の事を思い出す。自分はカーテンを暖簾のように潜って中へと入った。カーテンは引いていない。そうなれば外から見えていざという時に困るからだ。だから見えてはいけないのだ。“外が鮮明に”。

「どうしたんだ?」

「凛ちゃんなんかあったの?」

急に止まった凛に二人は“それ”に気付かず尋ねた。そこに一陣の風が部屋へと舞い込み二人は前を向いた。

そして、首を傾げた。

「あれ、なんでカーテン開いてるの?」

「えっ?あっ、ホントだ」

不思議がる二人の言葉に凛は顰めっ面をした。目付きは驚いた真ん丸な物から既に鋭くなっている。凛は今の言葉から想像する。入った時はカーテンが閉まっていた。それが今は開いている。つまりはさっきのあのドタバタの間に誰かが出入りしたのだ。

「なんで開いてるんだ……!」

「行かないでください!」

見に行こうとした宗太の前に白い鞘が立ち塞がった。凛はもう一方の手にある刀を襖へと向ける。

そちらを指されて二人が見ると、襖が僅かな隙間を作って開いている。その取っ手部分には小さく何かが引っ掻いたような跡もある。

「まだ、いるのか?」

凛は声を出さず頷いた。先程の化け物を頭に浮かべ、襖の奥へと警戒するように息を潜める二人の前で、凛は鞘から手を放した。ガランと音を立てて鞘が床に落ちる。同時にギッと床が鳴るほど力を込めて踏む音がした。

凛はその途端に襖へと駆け寄り、勢いよく襖を開けた。凛の眼前に、和室から飛び出そうとした化け物の姿が現れた。鞘を落とした音に反応して出てこようとしたのだろう。化け物は太鼓腹を抱えるように体を丸めてぽつんと立っていた。そこに襖が開いて凛が現れたからか化け物は半歩後ろへと下がった。その瞬間を凛は逃さない。刀を握りしめ、化け物の土手っ腹へと真っ直ぐに綺麗な蹴りを放った。化け物が和室の壁に激しく鈍い音を立ててぶつかる。頭を振って前を向こうとする化け物に凛は突進し、さらに握った刀を左斜めへと切り上げる。その刃が狙うの化け物の体ではなく肉と骨だけのような腕。潰れた果汁のように吹き出す血をものともせず、凛は化け物の腕を落とすと素早くその喉元へ刀を寄せ、暴れる体を壁へと押し付けた。

凛にはこの一匹だけが頼りだからこそ簡単に死なれては困るのだ。先程の化け物みたく甘い事はするつもりがなかった。

牙や腕を振り回そうとするそれへ凛は問いかける。

「話せるなら答えよ。大将は?」

化け物が腕を振り上げ、

「ウグガガ――!ギャアアアアアアアアア」

おぞましい声が辺りに響き渡る。居間にいた二人が和室の前に辿り着き絶句した。

化け物の耳を塞ぎたくなるような声や片腕をなくした姿。流血が畳や壁に染みている様子など気にも止めず、凛は残る化け物の腕をさらに落とし、おまけとばかりに腹に刀を突き刺したのだ。凛は猛獣のように牙だらけの口を開き喚く化け物を殺気に満ちた目付きで睨むやもう一度喉元へとその刃を向けた。

「人語は話せるはずです!元はあなたも人でしょう?」

悲惨な光景を立ちすくみ目を覆いながら見ていた二人は耳を疑った。目の前で少女に刺され斬られて制されているのは人ではないからだ。人の形をした全く別物の世界から来たような化け物であり、人の面影も何もない。それなのにも関わらず凛は人だったと言った。

それが信じられず口を挟もうとした瞬間、

「お二人には後で説明します!ですから今は何も言わないでください」

と、凛に睨まれるように一喝された。

凛は悶える化け物を押さえながら尚も尋ねる。

「大将は?」

化け物の喉から一筋の赤い線が流れる。化け物は足をばたつかせ、

「ダイジョウ、ゴドミニ、イヌ」

「ゴドミ?」

凛は押し付ける手にも刀を握る手にも力を込める。

「ヤズ、ロガア、ル」

「やずろ?」

「ヤズロ、アル」

「やずろ……そこに大将はいるんですね?」

「ウグガ」

化け物がコクりと首を引いて頷いた。凛は何を言っているのかよく分からない化け物の言葉を少しながら頭の中でそれらしく組み立てた。

ダイジョウ、ヤズロ、ゴドミニイル。

それが何処なのかは分からない。もう一押しと凛が思った瞬間、化け物は大きく口を開き斬れる首も気にせず歯を立てて向かってきた。再度押さえる間もなく押し返される。

そう感じ凛は尋ねることを諦め、化け物の首に当てたそれを迷いもなく一気に手元へと引いた。化け物が粉を被ったように赤く染まりズルズルと下へ力なく下がり、薄れて消えた。

血に濡れたその姿で凛は俯きがちに二人へと歩いていく。二人は今の光景が壁を滴る血の如く鮮明に瞼に焼き付き凛が目の前に来るまで呆然と立っていた。

以前は人だったそれを少女は迷うことなく切り伏せた。やがては消えてしまう偽物のような血を振り撒いて。飢えた獣のような鋭い目で躊躇いもなく。人ではない人の形をした人食らいの化け物を殺したのだ。

それがまともな事なのは二人も分かっていた。しかし、今の事が本当にまともな、正しいのかを疑ってしまう程の光景だったのだ。

だからこそ二人は凛が目の前に来て通り抜けようとした瞬間、思わず身をのけぞって退いた。

凛はそれを気にしないかのように床に転がっている鞘を手に取り刀を納めた。血振りをしていない刀からか腕からか僅かに血が床へと落ち点を作る。その点から目をはなし凛は二人を見た。

和室の方を呆然と見ている少年と、チラリとこちらを向いた少女がいる。どちらも今のせいで酷く顔色が悪い。惨劇のような物を間近で見てそこに立っているだけで恐らく精一杯なのだろう。吐瀉物がないだけ凛からしたら凄いと思えた。

そんな二人へ凛は声をかけた。二人の体が驚いたのか跳ねるように凛の方を向いた。

「今のは、餓鬼です」

「ガキ?」

「餓鬼は元は人間、というのは先程言いましたけど、あれは特に飲食などの欲やけちんぼうが死んだあとになるものです」

「死んだあと?」

「つまりあれは幽霊なのか」

「まぁ、霊魂の一種ではありますが、既に人の感情はないですから幽霊かと言われると何とも言えません。あれは感情ではなく本能で動いているので、霊のように思う何かに執着がある訳ではないです。同時に妖怪という物でもありません」

凛は断言して近くにあったバットケースを手にし、その中に刀をしまった。そうしてふとテーブルの上を眺める。並んだ食事はもう誰も手につけないのだ。

「それとここにいた人達は戻らないですよ」

二人は凛の言葉に悲しげな表情で見て返した。テーブルには一切手のつけられていないこれから食べるのだとばかりに置かれた四人分の食事がある。その一つに凛は触れようとして手を止めた。窓から冷たい風が部屋へと入り込んだ。カーテンが微かに揺れる。

「餓鬼は生前の罪から飲食を限られ、その飢えに苦しんで人や動物、汚物、飲み物などあらゆる物を食べようとします。ですが、彼等は決して食べることができないんですよ」

「食べられないなら、じゃあなんで戻ってこないんだ」

宗太は疑問を口にした。食べられないならなぜ人が消えるのかが不思議でならなかったのだ。

凛はテーブルの上の食事を見ながらそれに答えた。

「詳しく言うと口に入れることはできてもそれは炎になって消え失せる。つまり、餓鬼は飢えを満たすことはできなくても食べる真似事はできるといった所です。そしてそれは真似事でも食べたのだから……そこに“二つとしてあってはならない”。なぜなら」

凛は二人の方を向いた。その顔は憂いを帯びたような、むくれているような表情だった。二人の方を向いた凛は口を開かない。まるで二人の言葉を、その意味を考え分からせるかのように続きを話さない。

なぜ食べる真似事なのに人が食われ消えたのか。実際には食われていないのにだ。口に入れたものが炎になるからかと考える宗太の横で、

「食べたものは元の形には戻らないから……」

と瑠美が小さな声で呟いた。

「ええ。食べる真似事は例えですから実際には食べている。そんな食べた物、食べられた物が元に戻るというのは天地が引っくり返ろうともありえない。それでももし戻ったのなら、皆誰もがはなから何も食べずに生きているという事の証明にしかならない。だからこそ食べられた側は…………もう、戻らない」

凛のはっきりとした声が二人の頭の中で反響した。食べた物は戻らない。その言葉が二人の胸をいとも容易く貫いた。

目の前にあるテーブルの食事も同じく、食べてしまえば今の形には二度と戻らないのだ。そんな事ができたら凛の言う通り食べることに意味がなくなってしまう。さらには食べることが幸か不幸かも分からなくなってしまうのだ。今口に入れた食べた物が満腹感を得ることもなく目の前で元に戻ってしまうのだから。

「彼等は確かに餓鬼に食われてこの世から消えました。でも餓鬼は彼等を結果的に食べれずに空腹感だけを得てまた探してるんです。延々と」

宗太も瑠美も何を返したらいいのか分からず、何も言えなかった。

「飢餓の鬼。それが餓鬼。欲しいものが手に入らず満ち足りない堂々巡りを続ける人間の成れの果てです。それを救う方法は供養などいくつかありますが、私はそんな面倒なことや手遅れになるような方法をせずあれらを断ち大元をも断っているだけです」

「救うってどうやって?」

瑠美は凛の言葉の一つに食らいつくように尋ねた。凛はそれに目を伏せた。

「供え物をあの餓鬼達の居るところや墓の前にすれば良いのですが、あれがどこから出てきたのかもどこから来たのかも分からない以上、供え物をどこにしたらいいのかも分からないです」

瑠美はまるで希望が断たれたかのように肩を落とし下を向いた。そもそも瑠美は凛が言った時点で凛がどうするのかなど分かっていた。例え場所が分かろうとも凛が供養などするつもりはない事が。凛は願いのために力を求めているのだ。それが人の成れの果て餓鬼というものであろうともだ。だからこそ瑠美は他に救う方法はないのかと思ったのだが、凛が餓鬼について知らないことを自分達が知れる可能性は極めて少ないことをむしろ悟らされただけだった。

「あと一つ言い忘れましたが、食われたものは天国になんか行きません」

宗太と瑠美は凛へ顔を向けた。凛はテーブルから離れ窓際へと歩いている。

「あれに食われた未練はどこへ放たれるんでしょうね?」

そしてベランダから見えるものを凛は瞳に捉えた。そこはどこか、と考えながら宗太と瑠美は血濡れた凛の小さな背中越しに同じ景色を見つめた。

春を知らせる遠山の霞んだ空が見える。その下に広がる凹凸の迷宮のような建物の群れ。瑠美と宗太だけではない多くの者がそこに敷き詰めるように暮らしている。

食われた未練はどこへ行ったのか――。

それを凛も宗太も瑠美も分かっていながら誰も口にしなかった。

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