雪融けを告げる白い桜―4
公園の芝生の上で小さな子供たちが野球をしている。ピッチャーの子が投げたボールは、打ってやるとばかりにグロップの部分を握りしめて構えるバッターの子と、そのボールがミットに入るのを待つ子へと走った。キーンと気持ちよいくらいの音を響かせて、ボールが春の空へと飛んでいく。打ち上げられたボールを取ろうと一人の子供がグローブを空へとかざしながら下で構える。打ち上げられたボールを見ながら一塁へバッターだった子が走る。そんな期待と不安を表すように東風に煽られたボールはしばらくそこで止まったかのように浮かんだ。それはやがて落下すると、グローブの中へポスリと静かに収まった。
「あれは……何ですか?」
「野球だよ」
「野球…………」
子供達が遊んでいる芝生から離れた砂場のある場所で、木陰のベンチに座りながら宗太と凛は野球をしている子供達を眺めていた。宗太からすればそれはごく自然なことで何の変鉄もなくあまり面白味のないものだ。それを宗太の隣にいる凛は、珍しく真新しい物でも見るようにじっと見つめていた。
宗太はこの状況に、この公園に来てベンチに座ってから、二十分は付き合っている。宗太自身も子供だが、それより幼い子供の野球を二十分も黙って見ていて何が楽しいのか。そんな事を思うのは今日の朝方に起きたことのせいだろうかと憂鬱な気持ちで宗太は空を見上げた。
宗太の気持ちに反して、しかし、子供達の気持ちやしている事には綺麗に比例して青々としている。真っ白な蛇か竜のような雲が青空に気持ち良さそうに浮かび漂ってまでいる。宗太の晴れ晴れとしない気持ちは、さしずめこの青空の中、灰色と白を交えて小さくも分厚く浮かぶ雲と言ったところだろう。
だが、雲は小さくても厚みがあるように宗太の悩みもまた深刻なのだ。その根本は、隣で相も変わらず野球をしている子供達を興味津々と言わなくても分かる程に体を前のめりにして見ている少女だ。
凛は今日は白い着物ではなく、茜のお下がりでもある黒の短パンにグレーのパーカー、中は白い文字プリントがある黒いTシャツだ。とてもよく似合っていて、もし噂の少女が分かる者でもそうとは思えないくらいだ。
その凛の横には豹を模したプリントの黒のバットケース立て掛けてある。中にはバットなどではなく刀が入っている。
もちろん持っていてはいけないことくらい宗太は百も承知だ。少女が人を斬ることはしないと言っていても、それはまずいと言って止めもした。だがどうしても持っていくと聞かず仕方なくケースに入れさせたのだった。財布やケータイよりも、出掛けるときは必ず持ち歩く。それほど肌身離さず持っていたいものらしいのだ。
何事もなかったかのように大人しく座り、まるでつい三時間ほど前に起きた事など知らないかのような雰囲気の凛に宗太は尋ねた。今朝方の草部家の問題を。
「それで……つまり君は預かったっていう事になるのか?」
「はい。申し訳ございません」
「いや、それはもういいんだけどさ」
顔の向きを変えず謝る凛に宗太は困って頭を掻いた。淡々と答える少女だからこそなんと聞けばよいのか困るのだと宗太は思った。
昨日の今日で、凛は難しい顔をした父祐一郎すら今日からうちの子だと言わしめる程の事をしでかしたのだ。
それは凛が親戚の家からしばらくの間引き取った子、という宗太には身に覚えのない事だったのだ。宗太はそれを起きた時に昨日よりも仲が良くなっているとは思ったが、それもただ単にこれから暮らすからと捉えていたのだ。だからこそ、少女を親戚から引き取ったという話が出た時は飲み掛けのジュースを床に落としてしまう程の衝撃を受けたのだ。そして自分の記憶が間違っているのか、それとも夢なのだろうかなど散々疑うが凛自身から現実だと伝えられた。
そのあとで大体の説明を聞き、多少なり納得できる事を言われ丸め込まれてしまい、仕方なく宗太はその状況だけは受け止めた。だからこそ宗太にとっては深刻で、しかし周りからすれば何の問題もない事なのだ。なぜならこれを知っているのは三人だけだからだ。
「驚かせてすみませんでした」
「驚いたけど別に謝らなくていいんだ」
「そうですか……」
「ただ何をしたのかなと思って聞いてるんだけど……」
「…………」
と、凛が黙りを決め込むという事を朝からもう五回程繰り返している。凛はしたことに対しては謝る。しかし、何をしたかは一切話さないのだ。
「んー、何かその、マジックみたいな事をしたのか?」
「…………」
答えない凛に宗太は聞き方の切り口を変える。
「あれは君がやったこと?」
「左様です」
「で、何したのかな?」
「…………」
これで尋問のような聞き方に対しての黙秘が六回目を迎えた。
凛は中々崩したり変化させたりもしない凛々しい顔付きで宗太へと口を開いた。もちろん顔は前を向いたままで。
「今更変だとは思っていますが、迷惑と手間を掛けないようにと思ってしたんです。この方があなたにもご家族にも面倒が掛からないと思いまして」
宗太もその言い分には納得していた。今朝の事で宗太も家族に対しての凛の立ち回りが幾分か楽になったのだ。親戚であり預かっている上に昨夜の宗太の家族の性格はそのまま。だからこそ凛が親戚の子という立ち回り以外何も変わってはいない。
しかも、宗太の両親がしなくてはならない凛を預かる上での手続きなどの手間は多いに減ったのだから、むしろ良い方向に風は吹いている。
だが、
「まぁ、父さん達には面倒じゃないかもしれないけど……俺と瑠美は違和感ありすぎて困ってるかな」
と、宗太は思っている事をそのまま口にした。そう家族や周りには対して問題ではないが、瑠美と宗太には違和感があるのだ。
記憶の違いに不安や恐怖を覚えた宗太は瑠美に電話をしてありのままを話したのだ。その結果、瑠美も凛が親戚ではない事をはっきりと言い、昨夜の化け物の事からを覚えていたのだ。
僅かな浦島太郎を覚えた宗太にとって昨夜の出来事を覚えている瑠美は唯一の救いだった。自分だけが感じる違和感を他の誰かが知っているというのは安心感を一瞬で満たせるほど感じられる。自分自身がおかしいわけでも変なのでもないという証明になるからだ。だからこそ宗太はそこで一番最初に凛を疑った。凛に家族が親近感を覚えているからこそ凛が関わっているのは言うまでもないからだ。
だが、凛は何をしたのかは言わない。何かしたことだけを認め謝るだけだ。
宗太も家族に外傷や仲が悪くなることがあったわけでもなく、ただ凛という少女が親戚の子という認識になっただけだからこそ、特段怒る理由も見当たらず仕方なしと半ば納得しているのだ。
「真実はごく僅かな者だけが知っていればそれでよい……」
「えっ?」
「遠い昔の言葉です」
憂いを帯びた表情で言った凛に宗太は本当に年下なのだろうかと内心頭を傾げた。少女と話せば話すほど変に年の差を感じ、不思議な事が増えていく。けれど宗太はあえてそれを聞いていない。恐らく今ある疑問を少女にぶつければ、さらに疑問が増えるからだ。
宗太はポケットからケータイを取りだした。時刻は十二時近い。芝生で野球をしていた子供達も昼御飯のためか帰り支度をしている。
凛はその子供達から空へと顔を向けた。どうやら興味が消えたらしいと宗太は思った。ケータイを仕舞いながら宗太はそんな凛に声をかけた。
「そろそろだな」
「そうですか……」
振り向きもせず口調にすら感情も込められていないその返事に宗太はガックリと肩を落とした。子供達に興味がなくなり、自分にも悲しきかな興味がない。上を向いたままでいるために恐らく今少女が興味があるのは空。そんな風に宗太は感じ、無言のこの距離感が異様に悲しく感じられ凛と同じく空を見上げた。
もうすぐ瑠美が来るからそれまでの辛抱だと思いながら。
凛は昼時の微かな静寂の中にその音がしたのを感じた。先程までいた自分よりも若干幼げな子供達の声でも音でもない。雲の浮かぶ穏やかな空からベンチの背もたれの方向へと振り向いた。横に座り何も考えていなさそうな少年、宗太もどうしたのかと尋ね同じように後ろへと顔を捻った。
ベンチの後ろにはもう一対ベンチがあり、その前方に円形の砂場、黄色と赤のブランコ、三段に高さの違う鉄棒がある。砂場の近くには動物を模した小さなオブジェも置かれている。そこから先、石でできた時計台がある広場からグレーのパーカー姿の人物が走ってくる。その人物は軽やかな足取りで地面を蹴っている。
誰だろうかと考える事もせず、その背格好などを見て凛は昨日の人物、瑠美だと判断した。
宗太が片手を挙げると向こうもそれに答えた。やはり瑠美という少女だ。今のは挨拶らしいと凛は思う。
「やっときたか」
そう小声を漏らす宗太に、凛はこの少年が早すぎるのだと思いため息を吐いた。朝のちょっとした事から動転したのか、それとも元々の性格なのかは分からないが、待ち合わせの一時間前にいるのはこちらなのだからやっときたを言うのはおかしい立場だ。しかも、凛も半ば朝の事が原因で連れ出されたと思っている。その理由も瑠美という少女が用があるという名目での朝の事柄についてを詳しく聞きたいというのが見え見えの誘いだった。それが遠回しに何度もとありそれだけでも少しばかり苛立ちを覚えているのに、着物を着ようとしたところを止められ、愛刀を携帯しようとしたらまた止められて非常に機嫌が悪い。
そこを素直に表すのはこの少年に対して大人げないと思い態度になるべく表してないようにしていたのだが、恐らく分かってはいないだろうと凛は踏んでいた。あと数歩のところにいる瑠美を見て、隣で来たよと微笑むくらいなのだから。
そんな宗太に凛は内心ガックリと肩を落とすほど溜め息を吐きつつ、瑠美がベンチの背もたれに寄りかかると、おはようございますと答えた。それに瑠美は可笑しそうに困ったように笑ったのを瑠美は見逃さなかった。何か自分に可笑しいところがあったらしい。
だが、そんな事は気にせず凛は瑠美に用件は何かと尋ねた。特段何もなければ私用があるからだ。
瑠美は宗太の隣に座り、まだ少しばかり弾む息を整えて言った。片手にはペットボトルが握られている。
「あのね、六丁目のマンションで人が失踪したんだって」
「本当か?」
疑うような口調をしたからか宗太は瑠美にキッと睨まれた。凛はやはり宗太はバカなのだろうかと呆れた。たまたまとは言え、自分に辿り着いたのは瑠美だというのに。
「詳しくは分からないけど消えたのは昨日の夜だって。これって凛ちゃんが言ってた何かの役に立たないかな?」
宗太よりも協力的な瑠美の言葉を聞いて凛は地面を見つめた。蟻が一匹ゆらゆらと行く道を確かめるように、迷うように歩いている。それを見ながら凛は考える。蟻すらもその先に自らの力の糧があるかどうかで行く道に迷うのだ。人が失踪することはさほど凛にとっては問題ではない。むしろそんな事には無関心の方が多い。
問題なのはその人間がどう消えたのかだ。そしてどこかへ行ったのか、もしくは逝ったのかだ。どちらにしてもなぜ消えなくてはならなかったのかが重要なのだ。
考えている間に蟻がベンチの奥へと消えていった。板が敷き詰めてあるためベンチの下の蟻は凛には見えない。
「昨日の夜もサイレンが鳴ってたから何かあると思ってさ」
「そうなのか?」
「うん。確か一時くらいだったかな?サイレンがいくつか鳴ったんだよ。さすがに見にはいけなかったけど……知らないの?」
知らないと答える宗太に凛は当然だろうと思った。朝から宗太の家族も話してはいたが、本人は他の事で頭が一杯だったのだから。そうして二人が話す端で凛はその言葉の意味を考えていた。サイレンが意味するのは十字の入った大きく白い車か、白黒の平たい車だ。凛にはそれらサイレンを鳴らす物体の正式名が分からないため、形や色、その中にいる人間の役割で覚えている。平たいのならば話を聞き込む人間。十字の白い車ならば病院。どちらにしてもそれならば凛の求める物ではないのだ。
「でもさっきその話をしてた人がいてさ、運ばれた人も何かした人もいなかったんだって。で、しかもそこの家には誰もいなかったって」
凛の眉がピクリと動いた。可笑しいのだ。瑠美の話通りでは“いたのにいない”事になっている。
「はぁ?住んでなかったってことか?」
勘づいた凛に対して、宗太は眉をひそめて真逆の事を瑠美に尋ねた。
そんな宗太に瑠美は明らかに、まったくもう、というような呆れた顔と口調で言った。
「じゃなくて消えたんだって。昨日まで住んでたのに!」
凛はそこで瑠美の方へ顔をあげて身を乗り出した。そんな行動をしたからか瑠美も宗太も思わず驚いてビクリと身を引いた。
そんな二人の目には眉間にシワを寄せて真剣な顔付きそのものとばかりの凛が映っていた。一文字だった口が開く。
「そこには行かれましたか?」
「ううん、場所がよく分からないからまだ行ってないんだよね。それに噂だし」
噂と聞いて凛はさらに眉を寄せた。それは噂と言うことに呆れた訳ではなく興味を持ったからだ。昨日いた人間が昨日の夜に突然いなくなる。そんな不可解なことが起こり得るとしたらその人間がそれほどの状況にあってどこかへ行ったかぐらいだ。普通ならば。
しかし、凛が引っ掛かるのは車や人を呼んだのは誰なのかだ。普通家の中ならば家の人間だ。だが、その家の人間はいない。けれどマンションで起きたことは明確となればそこに人はいたのだ。昨夜消えたと言われるまでは。そうしなければ平たい白黒の車も白と赤の大きな車は来ないのだから。
そうなるとそこで何が起きたのかが分からない。そんな不可解な事象だからこそ凛は目をつけた。凛の知っている限りではそれを出来ることが数多いるからだ。
「そこへ向かいます」
凛は可能性を求めて言った。
「どうやって?どこかも分からないのに」
「大丈夫です。それが本当に昨日のような奴の仕業なら痕跡があるはずですから」
凛の自信に満ちた声に二人は目を見張った。同時に昨日の奴という言葉が衝撃的でもあった。それが思わず口に出た。
「あいつらってまだいたのか?」
「はい。あれは使いや雑魚です。恐らく大将がいるのでその大元を見付けないとあれは消えません」
「大将って?」
「さぁ……むしろそれが分かっていれば既に殺してます」
感情も何も含めない凛のその言い方に二人は唾を飲んで黙った。
見付けていれば既に殺している。倒すのではなく、殺す。その言い方に二人は何か言い様のない恐怖を覚え、昨日の事を思い出す。
凛は言っていた。願いはただ一つ、ある男を殺すこと。
凛がそう言った昨日を思い出す二人にはその差が何となくだが分かったのだ。今の言葉が感情的か否かが。心の底から恨むように言ったのか、無感情でまるでただの作業のように言ったのかが。
「私はそこに行きますがお二人はどうされますか?」
立ち上がり、愛刀の入ったバットケースを手に取りながら凛は言った。
すぐにでもそこへ向かおうとしてる凛。それに二人は頷いた。
「行く」