春先に残った一輪
それは――まだ寒さも残り野山の雪も溶けきらない春先の事だった。四方を小高い山々に囲まれた陰士村にも至る所に雪が残っていた時の事である。
陰士村は日本の本島北の地の山奥にあるひっそりとした小さな村で、冬の間のほとんどが雪に見舞われるような土地である。そんな陰士村の人口は百人にも満たず、地図にも山間があるとだけしか書かれないような村とも言えない集落だ。
正確には既にこの村はなくなり、人はいない。今しがた、暖かな春を迎えずにこの村は絶えたのだ。
雪化粧をした鬱蒼と茂る木々や草の中にある獣道のように人一人が通れる程の山道から辿り着ける陰士村の入り口。そこにある扉のない門から何かを引きずったような跡が村の奥へと続いていた。
その跡は車の幅程もあり轍もあるが、それはタイヤの跡とは似ても似つかない物だった。その跡は門から散開するかのように扇状に広がっていて、いくつもの民家へと辿り着いていた。
民家は瓦葺きの昔馴染みの日本家屋だが、今はその原型を留めている物も少なかった。屋根には無数の穴や削り取られたかのような跡があり、土の見える地面や家の中に散らばっている物も少なくない。さらには壁が欠片になるほど崩れ、家の面影も僅かに残る物ばかりだった。それが一つや二つではなく、村全体の家屋が原型を留めていないような有り様だったのだ。
災害にでも見回れたようなその光景は確かにこの村が壊滅した事を告げていた。村道にも、轍のような跡にも、廃墟となった民家にも、村に残る雪にも、いくつもの赤く広がる血の跡が着いていたのだ。
残された家も人も皆無とも思える惨状の中、ただ一つだけ血の跡が最も酷いのにも関わらず、原型を残している家があった。
それは村の奥地にある屋敷だ。その家は他の民家とは格を離したいかにもという造りしていた。荘厳な面持ちで構えられた人二人分の身長の幅はある両開きの門。まるで宮殿を思わせる家を覆う雪の乗った藁葺きの屋根。民家が一つくらいは入るような広々とした庭。この家の外観全てが崩れることもなくそのまま残っていたのだ。しかし、家の形を残すだけでこの家はどこよりも酷く赤い血の色に染まっていた。
門はそのまま残っているが扉は蝶番が緩み開かれいて、表面が鋭い刃物で抉られたように傷つき、血が滴るかのように下へと続いていた。その門から入る家の敷地内の石畳や庭の砂利にはいくつもの血の跡が点々としている。そんな屋内は外よりもさらに酷さを増して、血だけではなく、千切れた服や肉片までもが傷のついた床や壁、天井にまで付着していたのだ。それは廊下だけではなく、いくつもある部屋や台所にまで散乱していた。
屋敷にも村にも人の姿はなく、声も何の音もしない。惨劇が起きた事だけを残す村で生きている者はいない…………はずだった。
屋敷の一室。破られた掛け軸に襖、何かで抉られたり床板が見える程裏返された畳。天井にまで飛び散っている血の海。二重畳はゆうにあるその惨劇の部屋の真ん中、血溜まりが広がるそのど真ん中に、赤い着物姿の女の子が一人ぽつんと佇んでいた。
女の子は頭を下に向け、伸びた髪をまるで幽霊のように垂らしている。着物の袖から伸びる小さな手には鞘に収まった刀が握られていて、鍔口からは血が滴り落ちていた。
この村最後の生存者。
その女の子はやがてふらりとするや、赤い畳の上へと倒れた。
その村は絶えた。雪融けの春を待たずに。
とある町に一つの噂が流れた。
ある夜、ホテルにいたら突然頭のない甲冑に身を包んだ鎧武者が現れたと。鎧武者はホテルにいた人々に刀を振り、ホテルは当然大騒ぎになったと。
けれど、そこにどこからか女の子がやってきて、鎧武者を見事に追い払い成仏させた、とそんな噂が流れたのだ。
ホテルにいた誰もが、女の子の名もなぜ来たのかも分からなかったが、鎧武者から命を助けてくれたヒーローだと呼び、その女の子を探した。けれども誰一人その女の子を見つけられなかった。
やがて見つからず姿も見せないその女の子を、あれも幽霊か何かだったのだろうとそこにいた人々は言ってやがて忘れた。その姿に誰もがその事に納得したからだ。
白い鞘に白い刀を持ち、白い着物姿の女の子を。