8月17日(土):午後4時半過ぎ
「はあっ……、はあっー……」
八橋は慣れない運動をしたためか、服が水を吸って重いからなのか、ともかくかなりの疲労を感じていた。
「……っ、あ」
湖樋も半分溺れかけていたからか、こちらも荒い息を繰り返している。
慎さえも素早いロボット相手に神経すり減らして格闘したからか、大の字で転がっている。
三人とも一気に疲労が蓄積された。慎の隣には、八橋の言った通り圏外に出たことによって通信が切れたロボットが転がっている。
三人がぐてーっと死んだように休憩していると、場違いな明るい声が響いた。
「湖樋ー、スマホ鳴ってたよー」
結衣が湖樋のピンク色のスマートフォンを持って駆け寄って来た。
湖樋は何とか身を起こしてスマートフォンを受け取る。電源を入れて受信履歴を見ると、ほんの数分前に母から電話がかかっていた。湖樋は一瞬、和沙に何かあったのかとヒヤリとした。まさか、和沙の暴走が悪影響を及ぼした?
画面をタッチして母にかけ直す。直ぐに相手は電話に出た。
「もしもし」
『湖樋! なんで電話に出なかったの!』
「なんでって言われても」
『それよりも!』
説明する前に遮られる。まあ、湖樋としても「そんな事より」という思いが強かったので良かったのだが。
それにしても母の声が異様に弾んでいる。つまりはハイテンション。電話してくるほど、何か良いことでも合ったのだろうか?
『和沙が目覚めたのよ!』
「……ああ」
納得。母は湖樋達と八橋との遣り取りを見てないので、和沙が目覚めなかった本当の理由も知らない事を思い出す。
普通、手術をして成功と言われたのに患者がなかなか目覚めないという状況は、母の様子などを見てかなり不安になる事だろう。その不安が無くなったのだ。それは素直に喜ぶべきなのだろう。喜ぶべきなのだろうが、しかし……、
「止めるの大変だったんだよう」
『は?』
しまったと顔をしかめる。うっかり口を滑らせてしまった。慌てて何でもない事と、出来るだけ早く帰る事を伝えて通話を切る。
「何だって?」
「和沙が目覚めたって。どうやら八橋が言ったように、圏外に出た事で本体に意識が戻ったみたい。慎、手伝ってくれてありがとー」
「いいって、いいって」
にこりと周りの人をほんわかとさせるような笑みを、寝転がったままの状態で浮かべる慎。男の子でこんな表情はズルい!かわいい!お兄ちゃんグッド!と悶える結衣。
「俺も誉めてくれよー。俺、お前を助けたんだぜ?」
湖樋が一瞬ではあ? と、いう顔をする。女の子らしからぬ事は百も承知。
「どの口が言うのかな? 誰のせいで溺れそうになったと思うの? アナタがロボットにヘンな機能付けたからでしょ。それ以前にアナタの都合で私達を巻き込んだじゃない。ああ、こう考えると、非難の言葉は出てもお礼の言葉は出てこないなあ。せっかく助けてもらったけど、借金は返され切れてないね。御礼を上げる価値は無いと判断」
「湖樋、湖樋。ストップ」
結衣のストップがかかる。
「八橋さん、スッゴいへこんでる」
八橋の方を見れば、こちらに背を向け体育座りで、どんよりとした雰囲気を醸し出している。はっきり言って、鬱陶しい空気だ。
「……。ふ、ふん!ま、和沙は約束通り無事に人間に戻ったから許してあげないこともないよ」
「ああ……、せっかくのモルモットだったのに。またどこかで医者を脅そうかなあ」
「ちっとも懲りてないのね!」
「俺は科学者だからな」
開き直っ不敵な笑みを浮かべる八橋に、結衣がクール! めっちゃクール! と、悶えだす。それに慎が顔をひきつらせながら、湖樋と八橋の会話に加わる。湖樋がその言葉に微妙な顔で目線を慎から外したことは誰にも内緒だ。
「ともかく帰らないか? そろそろ、ここを出ないと帰るのが遅くなるし」
「そうだねー、お兄ちゃん」
ねー、と息ぴったりハモって結衣が同意する。湖樋の手にあるスマートフォンは午後五時を過ぎようとしていた。
夕方なのにまだ明るい青色の空は、何気なく湖樋達を見下ろす。
湖樋はふと考えた。今回、和沙が事故に遭って手術に成功したのに目覚めなかったのは、八橋の思惑によるものだった。しかし、本当に和沙が誰のせいでもなく目覚めなかったなら? そんな時、自分はただ一人の妹に何が出来るのだろう。実際、八橋がいて良かったと密かに思っているのだ。だって家族にこそ内緒ではあったものの、妹が無事であると保証されていたのだから。
「帰ろっか!」
湖樋の言葉に吸い寄せられるように、全員が彼女を振り向く。
何かに吹っ切れたような湖樋の声音は、疲れ果てた慎と八橋にほんのちょっとの気力を。結衣に不思議な安心感を与えた。
空はまだまだ明るいが、もうすぐ夜が始まろうとしていた。