8月16日(金):午後8時過ぎ
塾講師の話す数学の公式の使いどころに悩みながら問題を解いていた彼女の元へ、妹が下校中に事故に遭ったとメールが来た。打ち所が悪かったらしい。緊急手術が行われたそうなので、高校一年生の天野湖樋は、塾の授業を急遽早退した。
妹の運ばれた病院が塾のすぐ近くだったので、走って向かう。薄紫の塗装をした燈成病院に辿り着くと、待合室で父と母が、ホッとしたような緊張したような顔をして椅子に座っていた。
しかし、二人に医者と話をするから先に妹の部屋に行くように言われたので、湖樋はまたまた早足で病室へ向かった。普段はいけ好かない妹なのだが、そこはたった一人の血を分けた妹。本当は心配でたまらなかった。
湖樋が病室入った時、妹の天野和沙が眠る部屋には、一人の少女と一人の少年がいた。
「湖樋!」
そう言って抱きついてきたのは、和沙と一緒に下校していた友達の加藤結衣である。彼女を迎えにやってきた兄で、湖樋の同級生でもある加藤慎が小さく会釈した。
病室を見渡すと白い部屋には細々した機械が幾つも置いてあって、その幾つかが和沙に繋がれている。その量に首を傾げつつも、湖樋は和沙の様子を確認した。
顔色が少し悪いように見えるけれど、無事のようだ。呼吸もちゃんとしている。湖樋はちょっぴり安心した。
「これでも一応、心配はしたんだよ? 早く起きろ、バカやろー」
「湖樋……、一応怪我人だから扱いは丁重にね?」
ペチペチと和沙の頬を叩けば、苦笑混じりに慎がくぎを差す。わかってるよぅ、と湖樋は呟いてから、思い出したように彼等を追い立てた。
「もう八時過ぎてるし帰った方がいいんじゃない? 多分、大丈夫だろうし」
「そう? じゃ、結衣、帰ろうか」
「やだ! カズが心配だもの!」
「結衣ちゃん、和沙はきっと大丈夫。すぐにひょっこり目覚めるよ。起きたら慎ちゃんに電話するから、改めてお見舞いに来てくれる?」
湖樋のどこか人を安心させる微笑みと諭すような言葉に、結衣は顔をくしゃりとさせたが、やがては頷いた。
結衣と慎は昏々と眠る和沙に「またね」と挨拶をして病室を出た。湖樋も見送るために病室を出る。その時。
湖樋の首筋にひやりと、冷たい感触がした。
「え?」
湖樋の声に、前を歩く二人が振り返る。白衣を着た男が、背後から湖樋の首筋に何かを当てていた。金属特有の光沢でぬらりと光る。
全員、それが医療用のメスである事に気づくのに、そう時間はかからなかった。
「別に騒いでもいいけど、救援なんて期待すんなよ?」
白衣の男は悲鳴を上げそうになった結衣を視線で黙らせて、湖樋を人質にとったまま、結衣と慎を隣の部屋に誘導した。そして次の瞬間、普通の病室のつもりで入室した三人の表情は驚愕に彩られる。そこは和沙の病室以上に様々な機械が置いてあったのだ。
ピッピッピッ、と無機質な機械音だけががしばらくの間鳴り響く。そんな中、第一声を発したのは湖樋だった。
「……アナタ、何者?」
「天野和沙の担当医、八橋柘磨だよ。天野湖樋クン。と、言ってもつい一時間くらい前からの関係だけどな」
くっくっ、と喉を鳴らす八橋。
湖樋は首筋の刃物のせいで動けずにいるが、それでは状況が変わらない。湖樋は緊張しながら、これは絶対に脅迫されているという状況を理解した上で口を開く。心臓が鼓動を速く打つ。
「ご用件は、何?」
「おいおい。この状況でよくそんな威勢のいい事言えるな」
首に当てられたメスがキラリと鈍く光る。結衣が青ざめた。
「湖樋!」
「結衣ちゃん、大丈夫。……で、八橋センセ?なんでこんな真似した上に私の名前を知ってるの?」
半眼になってジロリと睨んでみるが、相手は背後にいるのでこちらの表情は見えないだろう。八橋は顔色を一切変える事無く、飄々とした声音で答える。
「言いたい事があったから、個人的に調べただけだ。───天野和沙を俺の実験に使うから、しばらく借りるぞ」
一瞬、時間が止まった感覚がした。
「……アナタ、何がしたいって?」
「お前の妹で実験だが?」
「私が許可すると思ってんの?」
「別にお前の許可は要らない。一応、知らせて置こうと思っただけだ。親は色々煩いだろうから、子供のお前なら面倒ごとにはならないだろうと」
湖樋はくらりと怒りによる目眩を感じた。
「…慎ちゃん! こいつ吹っ飛ばしちゃって!」
湖樋は思いっきり八橋の脛を蹴り飛ばした。八橋が痛みに顔を歪める。その隙に湖樋は八橋の手から脱出。慎は湖樋の言う事を瞬時に理解して、一足飛びで八橋に突進。湖樋は巻き込まれないようにしゃがみ込んだ。
「痛ぅ……。……って、うおい!!」
胸元を掴みあげられ足払いをかけられ投げ飛ばされる。誰もが呼吸を止めた。
ガタガタガシャンッ!
機械を盛大に巻き込みながら八橋は吹っ飛ばされる。
「ばーか。慎ちゃんは柔道で大人をやっつけれるくらい強いんだから」
べーっ、と可愛らしく舌を出して、さりげに身内自慢をする湖樋。
「お兄ちゃんナイス~」
「そうかなあ?」
「痛た多……、って、うわあああああっ! 何て事してくれたんだ君たちはっ!」
二人の褒め言葉を貰って慎が照れていると、八橋がガバリと起き上がった。そして必死な形相であちこちに散らばった機械を掻き回す。何かを捜しているようだ。
「ふふん。天罰よ」
「今の衝撃で制御装置が壊れてなければいいのだが……!」
「はあ? 意味不明」
付き合うのも馬鹿らしく思えるので、湖樋は今の内に病室を出る事を二人に促した。
しかし、そう簡単に事は運ばない。
何者かがドアを開けようとした結衣を遮ったのだ。
「ユイいいい! 怖かったよおおお!」
結衣の腰くらいの高さがある、二足歩行型のロボットが結衣に抱きついてきたのだ。
「きゃ!」
「あ、お姉ちゃん! カズサね、さっきね、車に引かれたんだよおおお! 慰めてっ!」
と、思ったら直ぐに今度は湖樋に飛びつく。
「うわ」
湖樋は反射的に蹴飛ばす。
「ぐふ」
ロボット、緊急停止。
誰もが唖然とする。なんだこのロボットは。てか、お姉ちゃんって。
三人は顔を見合わせる。湖樋の事をお姉ちゃんと呼ぶのは一人しかいない。自分の事を子供っぽく自分の名前で言うのも。
「か、和沙?」
「そだよー。って、あれ? 皆、背が高くない?なんで?」
半信半疑で訊ねる湖樋に、自称和沙のロボットはあっけらかんと言う。どう言う事だ?
「ああ、装置が今ので作動してしまったようだ。壊れてないようで何より。さて、天野湖樋。これでお前は逃げられんぞ? 俺にとっては万々歳だがな」
「はあ?」
「俺の研究の一環だよ。詳しい事は省くが、俺は脳の出した指令をその人間の身体だけではなく、外部にも与えられるようにするという研究をしていてね。そういう装置を造ることに成功したんだ。小動物による実験も成功した。後は実用に向けて人体実験なり何なりやって結果を上げなくてはならないんだが……」
意気揚々と自慢話をする要領で話し出した八橋が、ちろりと自称和沙ロボットに視線をやる。
「人体実験を実行しようとこの病院の医者に掛け合ったら、急患で来た奴なら数日の間意識不明でも何とかなると許しが出た」
「医者がそんな事を許す筈がない。どうせ、今私にやったみたいに脅迫したんでしょ」
「くくっ。ノーコメントだ。だが俺が医者の許しを得たのは事実だ。でなきゃこんな大掛かりな設備の搬入を許してくれないだろ?」
「ソレが和沙だという証拠は?」
「本人が名乗っただろ? 嘘だと思うならこのロボットと天野和沙本人を見張っておけ。ロボットが動いてる間は本人は絶対動かない。何たって脳の指令が天野和沙の身体ではなく、こっちのロボットにきているんだからな」
にやりと意地が悪そうに笑う八橋と、疑い深い湖樋の視線が鋭く交わる。一触即発の状態だ。
そこに空気の読めない救世主が現れる。
「お姉ちゃんカズサを無視すんな~!」
ロボットによるドロップキックが炸裂。湖樋は背中に手を当て撃沈した。
「はは、バカみてぇ(笑)」
「(笑)を使うな(笑)を!……いっ痛ぅ」
「カズちゃんだな」
「カズだね」
慎と結衣が確信を持った。
慎は八橋の方を見る。撃沈した湖樋に変わって、今度は慎が八橋と対峙する形になった。
「カズちゃんを戻すにはどうすればいい」
「そんなに警戒するな。ただ、俺と一緒にある場所に行ってくれればそれでいい。間違っても自分達で機械の動作を止めようとするなよ? 下手に触るとソレが故障して精神に異常を来す可能性があるからな」
八橋は和沙を指差す。すり寄ってくる和沙を引っ剥がし、辺りの機械を弄る体制に入った湖樋はピタリとその動作を止めた。
「……ふう、危なかった」
「くぎを差しておいて正解だったな」
くっくっと喉を鳴らして笑う八橋。湖樋達四人はその八橋を見てぼそりと話し合う体勢に入った。
「ねえ、慎ちゃん。柔道であの調子乗ってる奴に言う事聞かせられない?」
「ええ? 出来ないことはないけど…」
「駄目だよ、湖樋。それじゃあ、脅迫と同じだよ。警察に電話する?」
「結衣ちゃんの案は微妙ね。この人、この病院の医者公認だから、ここにたどり着く前に他の医者に追い出されるかも」
「カズサお腹空いたー」
「バカズサは黙ってなさい」
三人で真剣に思案するが、これといって良い案が浮かばない。やはり従うしか無いようである。大人は卑怯だ。仕方なく、腹を括る事にしよう。
「……いいわ。手伝ってあげる。その代わり、終わったらちゃんと和沙を返してよね」
「交渉成立だな」
八橋が偉そうに白衣のポケットに手を突っ込んで、湖樋の前に歩み寄る。
「じゃあ早速。明日、八時に水着を用意してここに集合だ」
八橋と状況がよく分かっていない和沙以外の全員が、目を点にした。