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やさしくやさしく持ち上げて

作者: 瀬川潮

 からり……。

 足が半分乗るか乗らないかぐらいの幅しかない足場。そのレンガが欠けたのだろう、崩れ落ちる音がした。落ちていく音は聞こえない。当たる場所などないし、強い風の音に飲まれるのだから。

 少年は今崩れた足場を、壁にべったりと張り付いたまま見下ろし確認すると、生唾を飲み込んだ。つま先立ちをしたわずかな足場の下は、何もない。ただ青空が広がっているだけだ。

 改めて風を感じたせいではないが、ぶるっと身震いする。それでも怖れは抑え込み、横を向いて「さあ、行こう」と気丈にほほ笑んだ。

 ほほ笑みの先には、少女。こわばった表情のままこくりとうなずく。黒く長いスカートが風になびいていた。

 空高くに浮かぶ古城の壁面を伝い歩いている二人だが、実は様子が微妙に違っていた。

 少女は壁面に付いている取っ手を掛けているが、少年は掛けていない。足を少し踏み外せば空に投げ出されるのに、なぜ取っ手をつかまないのか。

 実はこの取っ手。もともと古城の壁面にあった物ではない。少年が彼独自の能力で作り出したものだ。ゆえに、彼の進む先には取っ手などなく、彼が進んだ後にだけ取っ手がある。

 今、まさに崩壊している世界は、大地と森と湖、そしてやさしい風に草花がゆるやかになびく平原が広がる、そんな世界だった。鳥がさえずり、小動物がきょろきょろし、獣がのっしと歩く世界。空は青く、日は東から西へと大きく弧を描く。大地の四方は、下に雲しか見えない深い深い崖で終わっている。人々はその中で、それぞれが一つ持っている能力を生かしながら、生活していた。同じ能力者はいない。ある者はゆうげの仕度に薪にだけ火をともし、またある者は縄だけを自在に操り猟をした。疾風の足で手紙を運び、酒場ではビールだけを固定する能力者がビアグラスをたくさん盆に載せて給仕した。

 少年の能力は、取っ手を生み出し取り付けること。ただし、取り付けや取り外しが可能なため、自分自身が取っ手を使うことはできなかった。今の場合、少女は壁に取り付けた取っ手をつかんである程度体重を支えることができるが、少年は壁面のちょっとした凹凸に手を掛けつつ、少女のために取っ手を取りつけながら幅のない足場だけでバランスを取らねばならないのだ。

 つらく、恐ろしかったが、彼の目は輝いていた。

 世界が崩壊し始めた理由は定かでないが、この古城だけは崩れることがなく、なぜか浮いたままだった。既に世界の大地はすべて、下の世界へと落ちていた。

 世界が崩壊する前、彼の心は崩壊寸前だった。彼の能力が、何の役にも立たなかったからだ。自分が使えない取っ手に何の価値があろう。スマートな曲線がもっとも美しいとされ、でっぱりがあるのを嫌う風習も、彼にとっては不幸だった。人は誰も、必要以上の取っ手は望まなかった。取っ手職人にと思い、商売を始めたがとってつけたような職が安定するわけもなかった。

 からり……。

 また、足を運んだ先で足場が少し崩れた。びょおおおう、とひときわ強い風が吹き付ける。

 不意に、バランスを崩して落ち行く。

 そんな自分を想像してか、少年は目をつぶった。すると、壁のくぼみをつかむ少年の右手に、少女の左手が添えられた。

「頑張って」

 少女は、そう言ったわけではない。崩れ行く大地に追い詰められながらこの古城の門に着いた時に初めて出会ったのだが、その時から彼女は一言も発していない。まるで何者かを閉じ込めるかのようにがっちりと鍵がしまっている城。その反対側の、きっとまだ崩れていない大地を求めて壁面を伝う最中、危ない目に合っても彼女は何も言わず、ただ息を飲むだけだった。

「頑張って」

 口は動かさないが、再び視線が励ました。

 少年はほほ笑みを返す。

 から元気ではない。自分を勇気づけているわけでもない。ただ、心の底から純粋にうれしかったのだ。

 仕事をしていることが。

 自分の能力を生かして、人のためになるような、自分にも他人にも誇れるような仕事。もしも、無事に城の向こう側の大地に立つことができたなら、彼女はとても喜ぶだろう。

 自分自身にとっても、何と喜ばしいことか。

「私、しゃべっちゃいけないんです」

 再び歩を進めようと左を向いた少年は、背中の方から声を掛けられたような気がした。やさしい響きがあったので、少女のものだという気した。

 同時に、聞き流した。彼女はしゃべってはいけないのだから、しゃべっているわけはない。彼はそう思うと、黙々と自分の仕事をした。

「私の能力は、『城に閉じ込めること』。私が黙っているあいだは、この城からは誰も、何であろうと出ることができないんです」

 声は続ける。少年は振り返らない。黙々と歩を進める。

「この城は魔封じ。世界の魔物が詰まっています。だから、あなたをこの城に入れるわけにはいかなかったのです」

 少年の父親は、ガラス職人だった。父親がそうだったように、ひたすら仕事に集中していた。

「たとえ世界が崩壊しても、この魔物どもを外に出すことはできません」

 彼女も仕事に集中しているのだ、と少年は感じた。父親は、ひたすら出っ張りがない美しい曲面を描くグラスを作ることに集中し家庭を支えていた。寡黙だった。口を動かすより手を動かしていた。

 自分は、とにかく取っ手を付けるんだとつま先立ちで左に移動する。父とは微妙な関係だったが、父を尊敬している。自分に後ろめたさがあったので、あまりしゃべらなかった。口より手を動かすものだと、父の姿から学んだ。とにかく、仕事に集中する。

 ガラリ!

 突然、左足を運んだ部分だけが崩れた。少年は大きく身を崩した。

「あ!」

 少女が声を上げた。今までの会話よりひときわはっきりした声だ。少年は体制を崩して見上げた城の尖塔部の窓から、黒い何者かが翼を広げてはばたき、飛び去ったのをはっきりと見た。

 もともと少女は少年の右腕に左手を添えていたので、何とか助けようと改めて左手に力を入れた。

 だが、少年がそれを振り払った。少女が口を開けて何か言おうとしているので、落ちながら「しーっ」と人差し指を口に当てた。

「君は、君の仕事をすればいい」

 視線に、そんな言葉を乗せた。左手を伸ばした彼女は、叫ぶ代わりに大粒の涙をこぼし続けた。少年は落ちながら、二度と落ちることはない世界を望んだ。

 二度と落ちることのない世界を——。


 世界の下にさらに世界があることを知ったわずかな人たちがいる。空を飛んだり浮かんだりする能力を持ったわずかな人たちだった。もっとも、なぜかもう二度と空を飛んだり浮かんだりすることはできなかったが。

 窓際にたたずむあの時の少女——いや、少女と呼ぶには失礼な年頃だが——は、相変わらず黒い服を好んで身にまとっていた。少し面長になったが、穏やかな、落ちつきのある面差しはあまり変わっていない。斜陽が温かく包み、風がやさしくほほをなでていた。

 下の世界は、空の上の大地の世界とほとんど変わらなかった。

 変わったことといえば、この世界の人間は能力が持てないということ。その世界に合わせるかのように、空の上から降りてきた人たちはいままで持っていた能力を失った。

 そしてもう一つ。

 彼女はそっと、コーヒーを入れたカップを片手でいとおしく持ち上げた。

 風があいさつするように髪をなびかせるが、少女はしゃべらない。

 力を失ったのであるならしゃべってもいいはずだが。

——バサリ。

 窓の外、庭の池の中心に飾ってある女神像に大きな翼を持った黒い魔物が降りてしゃがんだ。

 ぎろりと少女をにらむ。

 仮に取っ手の少年がいれば、あの時羽ばたいた魔物だと気付いたろう。

「お前も魔物になったんだ。仲間をいつまで閉じ込めておく気だ」

 問うてくるが、もちろん彼女は何もしゃべらない。

「お前も、もう魔物だ。飛ぶ能力などないのに無事にここに降り立ち、人は力を失ったはずなのにまだ天空に閉じた城が残っている。お前は人を捨てたんだ。もう、お前も魔物だ。人じゃない……仲間をいつまで閉じ込めておく気だ」

 繰り返す魔物。しかし、少女は心がないかのようにまつげの先すら動かさない。

 ただただ、コーヒーカップの取っ手をやさしく持って、わずかな希望を抱きながら遠くの空を見上げるだけだった。

 下の世界でも、今まで取っ手はなかったのだと聞いたから。


   おしまい

 ふらっと、瀬川です。


 崩れる天空大地でのお話。ありがちな設定を便利に都合良く盛り込みました。

 最近寒くなりましたので、温かい飲み物を用意してやさしくやさしくカップを持ち上げつつお楽しみください。

 というか、読んだ後ですね。


 では、お読みいただきありがとうございました。

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