オオカミ少年?
人気のない校舎を、一人の少年が走っていた。図工の時間なのに、絵の具を教室に忘れたのだ。
「大急ぎで取っといで」
先生にそう言われ、全速力で走ってきた。
二年三組の教室に入る。棚に一つだけ、ポツンと残されている絵の具セットを持ち、すぐさま飛び出す。
彼が通う小学校の廊下や階段には、右側通行を徹底させるため、真ん中に幅十センチほどの線が引いてあった。
一刻も早く図工室に戻らねばならないのに、その線が目に付いた瞬間、
(線の上だけ踏んで行けるかな)
思いついてしまった。
考える前に、すでに体は線の上を走り出している。
バランス感覚には自信があった。平均台の上を平地と同じ速さで走ることもできる。問題は階段と曲がり角だ。
線からはみ出さないよう気をつけながら、階段を駆け上がる。よし、大丈夫。
次は直角に曲がっている所を斜めにジャンプ。線の上に着地。少しグラついたが、なんとか立て直す。
これで、あと一つ教室を過ぎれば図工室だ。
ささやかな挑戦の成功を確信した、そのとき。
左肩に激しい衝撃。一瞬、体が宙に浮き、こんどは体の右側が何かにぶつかった。「ごめん!」という声が聞こえたような気がした。
まず感じたのは、くやしさ。大の字にひっくり返っているので、線からは当然はみ出している。
「もうちょっとやったのに……」
どうも、教室から出てきた誰かとぶつかって、反対側の壁までぶっ飛ばされたらしい。
相手の姿はもう見えなかった。
しばらくぼんやりしていたが、図工室へ行く途中だったことを思い出した。体も特に痛くないし、平気だろう。
立ち上がり、歩き出したところで違和感に気付いた。
右耳の上あたりが、なんだかヌルヌルする。
さわってみると、手に赤いものがついた。
「なんやこれ」
数秒考えて、血だと気付く。
急に、寒くなった。なんだか息苦しい。
(頭から血ぃ出てる。オレ死んでしまうんやろか?)
いても立ってもいられず、図工室に飛び込んだ。先生は机の間をまわって各自の絵を指導している。
「先生!」
しがみついた。
「やっと戻ってきたん。あれ、絵の具は? 教室に取りに行ったんちゃうの?」
それどころではない。早く先生に相談しないと。
「先生、血ぃ出た!」
頭をおさえていた右手を開いて見せる。さっきよりたくさん血がついていて、びっくりした。
とにかくこれで、先生がなんとかしてくれる。もう大丈夫……
「はいはい、わかったから早よ手ぇ洗っといで」
何を言われたのかわからなかった。
「え、だから血が」
「ええかげんにし。いつも言うてるでしょ。そうやってふざけてばかりいたら、誰にも信じてもらえなくなるんやで」
自分が消えてしまったような気がした。
滲んだ視界の中で先生がまだ何か言っていたようだが、聞こえなかった。
そのうち、何か熱いものがお腹の方から上がってきた。その熱いものは、知らないうちに口から出ていた。
「先生のあほ!」
図工室を飛び出した。
一人で保健室に行った。
「ん、どうしたん?」
保健の先生は笑顔で迎えてくれた。頭から血が出たと言うと、顔色がかわった。
しばらく後、少年はタクシーに乗っていた。頭には包帯が巻かれている。
病院に到着し、保健の先生に手を引かれて中に入る。待っていたお医者さんは、怖そうなおじさんだった。
おじさんは頭の傷を見て、
「痛いか?」
「あんまり痛ない」
「ほお、強い子やな。ほな手術しても泣かんとがんばれるな」
「手術?」
なんかカッコイイ。
「がんばる!」
ベッドに寝てワクワクしながら待っていると、
「始めるで。まず痛くなくなる注射するからな」
……注射?
「え、注射するん? 手術は?」
おじさんは呆れたように
「手術はいいのに注射はいやなんか? 変な子やな。ちょっとチクッとするだけや。我慢し」
注射器の鋭い切っ先が見えて、思わずギュッと目をつぶる。
チクッとした。
思ったより痛くなかった。でも一度つぶると怖くなって、目は開けられなかった。
何回か髪の毛が引っ張られているような感触があって、
「ほいお終い。がんばったな」
おじさんの声が聞こえた。
「もう終わり?」
「そやで。全然泣かへんかったな。強い子や」
ほめられて、なんだかこそばゆい気持ちになった。
学校へと帰るタクシーの中、保健の先生が気をつけなさいとか、廊下は走ったらあかんとか色々言っていたが、少年の耳にはほとんど入っていなかった。
次はどんな面白いことをしようかと想像をめぐらせながら、窓から夕暮れの光に染まった世界をニコニコと眺めていた。