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婚約を破棄しておいて、新しい恋人のお世話まで私に頼むのですか?

作者: 百鬼清風
掲載日:2026/09/25

 私の婚約者ユリアン・ロートはロート侯爵家の跡取りだ。伯爵令嬢の私、クララ・ハルトマンとは、十代半ばからの付き合いになる。今日は隣に座らず、向かいの長椅子を選んだ。

 その横にいるのは、王都で服飾店を営むケラー家の娘、エミリア。紹介されて私が挨拶すると、彼女はユリアンの腕に添えた手を離さず、お辞儀をした。


「クララ、僕はエミリアと結婚したい。君との婚約を解消したい」


 ユリアンの父、ルドルフ・ロート侯爵の屋敷は白楡館と呼ばれている。今日はここで、結婚後に暮らす部屋を見せてもらうはずだった。

 私は手袋を着けた両手を膝の上に重ね、彼を見つめる。両家が決めた縁談だったけれど、二十歳になった今では、夫となる人をよく知っているつもりでいた。


「エミリアとは、自分で出会って好きになった。親同士の付き合いではなく、僕自身で結婚相手を選びたいんだ」

「それで、私との婚約を終わらせたいのですね」

「うん。君に不満があるわけじゃない。でも、一生のことだろう。自分で決めたいんだ」


 彼はそこまで話すとエミリアを見て、彼女と小さく頷き合った。

 私は手袋を外して膝に置き、指を伸ばす。

 ユリアンが私に恋の言葉を囁くことは、あまりなかったが、出席する夜会の日を相談するときには、結婚したら二人で客を迎えようという話もした。一緒に暮らすのを楽しみにしていたのは、私だけだったのだろうか。


「今日、部屋を見せてくださる約束は、覚えていらっしゃいますか」

「部屋?」


 聞き返されて、窓の方へ顔を向けた。

 庭の楡(ニレ)は、根元から枝の分かれるところまで幹が白い。葉が茂っても朝の日は入るから、あの部屋なら本を読むのによさそうだと、以前、二人で話した。好きな旅行記を置く棚も欲しい、と。

 返事を待つ間に、ユリアンは思い出したらしかった。


「ああ。あの部屋のことは、もう考えるな」


 ええ。そうなのだろう。

 その部屋を見たら、私はきっと家具の置き場所まで考えてしまう。もう、自分達が暮らす部屋ではないのに。


「分かりました。婚約解消に同意します。父と侯爵にも来ていただきましょう」

「よかった。君なら分かってくれると思っていた」


 よかった、ですって? 

 返事の代わりに、私は舌打ちをしそうになったが、我慢した。


 呼ばれて応接間へ来た父、オスカー・ハルトマン伯爵は、私の傍らに腰を下ろすと、まず私に婚約破棄に同意するのか? と尋ねた。

 話を終えてから帰りたいと答えると、父は頷き、ユリアンへ向き直る。


「娘の同意は聞いた。両家の婚約は今日をもって解消しよう」


 ロート侯爵は息子を立たせた。


「先にクララ嬢へ詫びなさい。ケラー家への説明も、結婚の準備も、お前が責任を持って進めなさい」


 ユリアンの謝罪を聞き、侯爵からも深く頭を下げられたあと、私は父と白楡館を出た。

 帰りの馬車からも庭は見えた。あの部屋の窓を探すのはやめて、私は顔を伏せる。


 夕食を、ほとんど残しても、父は無理に勧めなかった。食後に運ばれてきたのは、私が好きな濃い紅茶。いつものようにミルクを少し入れる。


「次の婚約を急ぐ必要はない。しばらく家でゆっくりしなさい」

「でも、お父様。私、結婚を楽しみにしていたの」

「そうだな」


 父はそれ以上何も言わなかった。私も黙ってお茶を飲み、カップを置いて、こぼれそうな涙を拭いた。

 しばらくは、ここで暮らすことになる。まだ荷造りを始めていなくてよかった。そんなことを考えたら、また涙が出た。


◇


 一週間後、私は父と白楡館を訪ねた。

 ガーデンパーティーの招待に添えて、ロート侯爵は父へ、両家の交友まで断ちたくはないと伝えてきたそうだ。私にも、気が進むようなら客として来てほしい、と。

 迷いはした。でも、ユリアンに会わないために、これからずっと知人の集まりを避けるのも嫌だ。父の旧友の息子で、隣国エストラーヴェの公爵であるフィリップ・ヴァイスも出席すると聞いていた。


「ヴァイス公爵もいらっしゃるのでしょう?」


 帽子のつばを押さえて馬車を降りながら確かめると、父はそうだと答えた。父にとっても、以前からの約束がようやくかなう日なのだ。

 玄関で父が侯爵に呼ばれたので、私は侍女に帽子を預け、一人で庭へ向かおうとした。そこでユリアンから声が掛かる。


「クララ、ちょうどよかった。少し頼みたいことがある」


 廊下の奥からエミリアも来た。淡い桃色のドレスを着て、片方の肩に重ねた薄いショールを手で押さえている。


「今日はエミリアに客を迎えてもらうんだ。でも、僕もずっとそばにいられるわけじゃない。君には控室にいてほしい」

「何のために?」

「衣装を直したり、休む時間を用意したり。誰かがエミリアに挨拶したがったら取り次いでくれればいい。世話係が君なら、彼女も安心だろう」


 庭では、白いテーブルクロスを押さえるために花瓶を置き直している使用人が見えた。廊下にも案内の者が控えている。

 なぜ私が、そんなことをする必要がある?

 私は招待状を読み違えて来たのかしら。


「こちらを留めていただけますか。腕を動かすと外れてしまって」


 エミリアが私に肩を向けた。髪を持ち上げ、もう片方の手で小さな髪留めを渡してきた。受け取らずにいると、彼女は不思議そうにこちらを見た。


「侍女の方にお願いしてください。私は今日、客として伺いましたので」

「でも、ユリアン様が、クララ様ならよく分かっていらっしゃると」

「用事を引き受けるとは、申しておりません」


 エミリアは髪留めを引っ込めた。ユリアンは彼女の髪を見てから、私に困ったような顔を向けた。


「難しく考えなくていいよ。前もよく手伝ってくれただろう。彼女を立派な女主人として、お客様に紹介したいんだ」

「婚約を破棄しておいて、新しい恋人の世話まで私に頼むのですか?」

「そんな言い方をしなくても。君と僕の仲じゃないか」

「一緒に暮らすつもりだった頃と、今とでは違います」


 父とロート侯爵が戻ってきて、廊下に留まっていた私たちに声を掛けた。庭へ出ずにどうしたのか、という侯爵の問いに、ユリアンが答える。

 少し手伝いを頼んだだけだという説明に、私は控室で待つよう言われたことも付け加えた。侯爵からはすぐに謝罪があった。


「客としてお招きしたのに、申し訳ない。ユリアン、招いた相手に断りなく役目を押しつけるな。断られたなら、そこでやめなさい」


 侯爵は控えていた侍女を呼び、エミリアの世話を頼んだ。

 父の腕を取って庭へ出ると、木陰に席が用意されている。


 父が木陰のテーブルを示し、あちらがヴァイス公爵だと教えてくれた。背の高い公爵は私たちに気づくと立ち上がり、父の名を呼んだ。近寄った父と両手で握手を交わし、顔をほころばせる。


「よく来てくれた、フィリップ。こちらが娘のクララだ」


 父は私へ向き直った。


「公爵はエストラーヴェの国王陛下の従弟でもあるんだ。私が向こうにいた頃には、まだ少年だった。立派になったものだ」

「いえいえ、まだまだ若造です。ずいぶんご無沙汰してしまいました、伯爵」


 公爵は父にそう返してから、私に挨拶をした。切れ長の目と、きれいに通った鼻筋。目が合って、見すぎていたことに気づいた。

 挨拶を返した私に、公爵が椅子を勧めてくれる。引いてもらった椅子に腰を下ろし、運ばれてきたお茶を受け取った。


「お父様とは、おいくつの頃からお知り合いなのですか」

「十三の頃です。私の父を訪ねていらした伯爵が、私まで食事に誘ってくださって。伯爵が初めて遠くへ旅をなさったときの話を、何度も聞かせていただきました」

「そうだったかな?」

「宿の料理の話になると、観光の話より長くなりましたけれど」


 父が大きく笑った。旅好きの父は、家で遠い国の友人の名を懐かしそうに話すことが多い。こうして昔の話でからかわれるところを見るのは珍しく、私はお茶を飲みながら二人を眺めた。


「クララ嬢も、旅行はお好きですか」

「旅行記を読むのは好きです。実際には、ノルゼリアの外へ出たことがありません」

「どこか行ってみたい街は?」

「湖のそばに泊まってみたいんです。以前読んだ本に、朝、窓を開けると、鏡のような湖に街並みが映っていると書いてあって」

「それは、リュセーヌのことかもしれませんね。私の住む街では」


 父から湖畔の領地の話は聞いていたけれど、街の名までは知らなかった。

 著者が挿絵に描いた船着き場の形を説明すると、公爵は頷いた。


「ああ、うちの街です。あの街は岸から眺めると小さく見えますが、近くで見ると、かなり広いんですよ」

「では、あの景色を毎日ご覧になっているのですね」

「いつもは、そんなに静かなわけではありません。昼には船が行き来しますし、船頭が向こう岸へ呼びかける。水鳥まで負けずに鳴くので、湖のほとりで人と話していると、聞き取りにくいことがあります」


 そんな音は、挿絵からは想像していなかった。

 思ったより賑やかだと聞いても、行ってみたかった。むしろ、窓から見るだけでなく、船着き場から景色を眺めたい。


「朝なら静かですか?」

「早ければ。船が出る前は、建物が、より綺麗に湖面に映ります」

「早起きは得意ではないのですが、その日は頑張れそうです」

「いらっしゃるなら、ご案内します。ただ、長旅の翌朝に早起きするのは、つらいかもしれませんね」


 本当に訪ねていったら、案内してくださるのでしょうね。

 まだ行く予定もないのに、朝食の前に彼と湖まで歩く自分を思い浮かべてしまった。隣にこの方がいると、迷うこともないだろう。


 父が少し離れたテーブルの知人に呼ばれ、席を立った。私はそちらへ顔を向けかけたが、公爵が王都での散歩について尋ねたので、そのまま話を続けた。


「こちらでは、どこを歩かれるのです?」

「外より、庭を歩くことが多いです。本には広場や宮殿ばかり載っていますけれど、やはり自分の家の庭が安心します。かなり凝った庭でして、木が多く、先が見えないところが好きで」

「庭では、どんなところで足を止めるのですか」

「道が開けて、急に見晴らしがよくなるところでしょうか。それから、座り心地のよいベンチがあるので」

「休める場所があると、疲れませんね」

「ええ。四季で違った花が咲き、飽きません」


 公爵は湖畔の道を思い浮かべるように、どの辺りなら歩きやすいか話し始めた。


「それなら湖の東側です。道沿いに腰掛けられる場所があります。ただ、いちばん眺めのいい場所には石のベンチしかなくて。長く座っていると、少しつらいんです」


 どの辺りかを手で示し始めた彼は、ふと私のカップを見た。


「すみません、つい話し込んでしまって。お茶を飲む暇もありませんでしたね」


 彼は自分で可笑しくなったらしく、軽く笑って口を閉じた。私はカップを持ち上げ、お茶を一口飲んでからテーブルへ戻した。


「もう少し伺いたいです。そのベンチからは、何が見えるのですか」


 彼は対岸の街並みがよく見えるのだと、湖越しに目立つ建物について話してくれた。

 父が戻ってくるまで、私は湖の話を聞いていた。


「近いうちに、お父様をお訪ねする約束なんです」


 帰り際、公爵は父ではなく私を見て言った。


「そのときも、お会いできますか」

「はい。楽しみにしております」


 馬車に乗ってから、次に来てくださる日はいつなのか、父に聞いた。


◇


 ヴァイス公爵の訪問がある日は、どうしても玄関の時計が気になる。

 最初は父と一緒にお迎えし、次には私が読んだ旅行記をお見せした。その翌週、王都をご案内しましょうかと申し出ると、彼は私がいつも歩く庭に一緒に行きたいと言った。


 侍女を伴って庭の前まで来たところで、私は閉じた日傘を手に立ち止まる。


「本当に、こちらでよろしいのですか。街の広場なら、大きな噴水もありますが」

「そちらはもう見ました。ここは、クララ嬢が来ると話してくださった場所でしょう」


 門をくぐると、砂利の道が低い植え込みに沿って曲がっていた。公爵様にとっては大きな庭ではないだろう。彼を案内するには地味だったかしら。私が彼の様子を窺っていると、いつも何時頃ここへ来るのかと尋ねられた。


「午後です。本を読んでいて、疲れてきたら来ます」

「私はそういうとき、眠ってしまうな」

「椅子で?」

「ええ。首が痛くなってから、ベッドへ行けばよかったと思うんです」


 公爵も、椅子でうたた寝をして首を痛くするのね。

 旅行記では分からない、異国の人である彼の暮らしを、もっと聞いてみたくなった。

 角を曲がったところで、彼が、空を仰いだ。


「雨ですね」


 頬に水滴が当たり、日傘を開く間にも雨脚が強まったので、私は彼を庭の奥の東屋へ案内した。

 侍女が入口で傘の水を切っている。私も日傘を畳んで彼女に渡し、彼とベンチに並んで座った。


「もう少し先までお見せしたかったのに」

「晴れてから、また来ましょう。今日は、ここまでで」


 彼は濡れた袖口をハンカチで押さえた。その指が長く、節の形まで気になって、私は目をそらした。近くに座ると、目を見て話せない。


「リュセーヌでも、こんなふうに雨にあうことはありますか」

「ありますよ。湖の上に雲が出ると帰るのですが、途中で降られることもあります」

「では、案内していただく日は、お天気をよく見ないと」

「晴れた日にしかお会いできないのは、困るな」


 私は彼の方へ顔を向けた。彼は畳んだハンカチを手にしたまま、こちらを見ていた。


「雨なら家で話せます。こんな日にも、あなたに会いたいんです」


 雨を避けて少し内側へ座り直すと、彼の袖に腕が触れた。私はそのまま隣に座っていた。


「私も、お会いしたいです」


 私が、そう言うと、彼は返事の代わりに少しこちらへ向き直り、雨が細くなるまで隣にいた。


◇


 ガーデンパーティーから数週間ほど経った日の夕食で、父が公爵に帰国の日を尋ねた。

 私はちょうど、鴨のローストを切り分けていた。皮は香ばしく焼けていて、いつもなら真っ先に口に入れる。けれど彼があと二週間ほどで帰ると答えるのを聞いて、ナイフとフォークを置いてしまった。


「もう、お帰りになるのですね」


 訪問のある日は、午前中のうちに本を閉じるようになっていた。帰られたあとには、話しそびれたことを思い出して、次は忘れずに聞こうと思う。それが終わってしまう。

 海を越えるわけではない。でも隣国の公爵が、今のように午後のお茶に通ってくださるはずもなかった。


「実は、当初の予定ならもう帰っている頃でして」


 彼は私へ話しかけた。


「滞在を延ばしました。あなたと出来るだけ多く、お会いしたくて」


 父と母の前で、そんなにはっきり。

 両親にどんな顔をされるか気になったけれど、父はワインを一口飲んだだけで何もおっしゃらなかった。皿に目を落として返事をするのも、彼に失礼だろう。私は顔を上げて答えた。


「私も、お会いできる日が増えて、嬉しかったです」


 給仕が来て、私たちはいったん食事に戻った。少し冷めた肉を口に運んでも、気になるのは向かいの彼のことばかり。甘酸っぱいソースを味わう間にも、何度か目が合った。


 食後、彼に庭へ誘われた私は薄いショールを用意し、両親の了解を得て外へ出た。

 侍女はテラスで待ってくれるという。彼と花壇の向こうまで歩き、ショールを肩に掛けた。夜になる前の風は少し冷たい。花壇の端で立ち止まると、彼も歩みを止めた。


「クララ嬢。帰る前に、あなたにお伝えしたいことがあります」


「私と結婚してください。あなたと、リュセーヌで暮らしたいのです」


 すぐに返事をしようとして、私は一度、息を吸った。

 行きたい。彼と一緒に。

 それだけでお返事してよいのか、確かめておくことがあった。


「私、前の婚約を解消したばかりです。あなたのご家族や、周りの方がお困りになりませんか」

「事情は知っています。そのうえで申し込んでいます。家族には私から話します」


 彼は少し間を置いた。


「あなたが好きです。最初にお会いしたとき、綺麗な方だと思いました。話してみたら、帰る時間が惜しくなった。今も、ここを出て宿へ戻りたくない」


 明日も会いたいと思っていたのは、私だけではなかった。


「私も、あなたがいらっしゃらない日は、次の訪問を待っていました。お父様にお会いに来るのだからと思って、少し控えようとしたこともあります」

「それは困る!!」

「では、控えません!」


 私は彼に手を差し出した。


「あなたと二人で、湖を見に行きたいです。私も、あなたと結婚したいです」


 彼が私の手を取った。握ってから、確かめるようにもう片方の手も重ねる。


「ありがとう、クララ」


 名前だけで呼ばれると、返事をしたばかりなのに、また何か答えたくなった。


「フィリップ様」


 初めてそう呼ぶと、彼は私の手に唇を寄せた。今度こそ顔を上げていられない。私は俯いたまま、父にここまでは見られていませんように、と願った。


 屋内へ戻った私たちを見て、両親は二人とも同じ気持ちなのだねと確かめる。

 私たちが並んで頷くと、父は立ち上がって彼と握手をし、私には、おめでとうと言ってくれた。

 その後、フィリップ様の家からも承諾が届き、私たちは正式に婚約した。


◇


 出立前にお茶でも、とロート侯爵がユリアンを連れて我が家へいらしたのは、婚約して間もない日のこと。

 父に呼ばれ、フィリップ様と客間へ入った。


「お二人に先に申し上げておこうと思って。私たち、婚約いたしました」


 そう言うと、侯爵は驚いたあとで、おめでとうと祝いの言葉をくださり、父と茶会の日取りを相談し始めた。そこでユリアンが口を挟む。


「クララが、公爵と?」

「はい」

「いつ、そんな話に」


 ユリアンが座ると、父が婚約までの経緯を短く話した。私はフィリップ様の隣に座り、侯爵から旅立ちの支度は進んでいるかと尋ねられて頷いた。


「旅程のことで、あとで相談があります」


 フィリップ様が私に言った。


「途中でよる場所を少し増やしました。私一人のときと同じ行程では、お疲れになるでしょうから」

「ありがとうございます。湖へ着く前に疲れて眠ってしまったら、どうしようかと思っていました」

「そうなっても起こしますよ」

「お願いします。湖が見えたら、最初にあなたと一緒に眺めたいので」


 道中には私が見たい街もある。急いで通り過ぎるより、二人でゆっくり道中を楽しみたい。


「出発はいつなんだ」


 ユリアンが身を乗り出した。私が答えると、今度は結婚の日取りを聞いた。


「数か月後を予定しています。父も来てくれることになりました」

「王都にはいつ戻る?」

「結婚したら、リュセーヌで暮らします。こちらへ来るときは、父を訪ねることになるでしょうね」

「そんなに急に決めなくてもいいじゃないか。家を離れて、知っている人もいないところへ行くんだよ」


 急に、と言われても。

 フィリップ様と会った帰り道も、家で一人で本を閉じたときも、私はこの方のことを考えていた。ユリアンとのことなど、どうでもよくなっていた。


「フィリップ様と相談して決めました。父にも話しています」


 私は侯爵に茶会への出席を約束した。ユリアンからの問いかけは、もうない。

 帰るときも、彼は扉の前で立ち止まり、私だけを振り返った。私は父のそばに立ったまま、二人を見送った。


◇


 数日後、白楡館の小さな客間に、お茶の席が用意されていた。

 ロート侯爵に迎えられ、父とフィリップ様と一緒に入ると、ユリアンとエミリアが並んで座っていた。今日はほかに客はいない。

 エミリアは私たちに挨拶したあと、フィリップ様へ婚約のお祝いを述べた。私には少し言いにくそうにしていたが、言い終えるまで待って礼を返した。


 茶会の話題は、今日の天気から父が結婚式に出るための日程へと移っていく。私はフィリップ様の左隣に座ってナプキンを膝へ広げ、小皿に取ったクッキーをいただいた。

 ユリアンはお茶を飲んでいたが、父が出発日の朝に見送りたいと言うと、カップを置いた。


「クララ。外国へ行くのはやめないか」


 エミリアが食べるのをやめ、小皿をテーブルへ下ろした。突然何を言い出すのか? という顔をしている。


「僕との結婚を、もう一度考えてほしいんだ」


 私は持っていた皿をテーブルへ戻した。エミリアの目の前で、私に復縁を求めるなんて、なんて常識外れなのだろう。


「お断りします」

「最後まで聞いてくれ。僕たちは長い付き合いだろう。一時の行き違いで、何もかも終わりにしてしまうのは惜しいと思わないか」

「あなたがエミリアさんと結婚したいとおっしゃったので、私たちは婚約を解消したのですよ」

「そのときは、そう思った。でも、離れてみて分かったんだ。君と前のように話せなくなるのが、こんなに寂しいとは思わなかった。エミリアとのことは、気の迷いだ」


 話しながら、彼は椅子を少し前へ動かす。


「この前だって、君は公爵とばかり話していた。僕が知らない予定を二人で決めていて。その時に分ったんだ、君が遠くへ行って、もう会えなくなるなんて耐えられない」

「私はフィリップ様と結婚したいのです。こちらで暮らすつもりはありません」


 エミリアがユリアンの袖を引いた。


「私は、どうなるのでしょうか?」


 彼はそこで、やっと彼女の方を見た。


「エミリア、君はいったん実家へ戻ってくれ。お父上には僕から話す。君が困らないようにするよ」

「何のお話をなさるの。私を妻にすると、父にも言ったでしょう」

「今後のために、落ち着いて話す必要があるんだ。わかってくれ」


 彼女は涙ぐんで掴んでいた袖を離した。ユリアンは私へ向き直る。


「クララも、公爵に事情を話してほしい。婚約したばかりなら、まだ取り消せるだろう。君も、出会ったばかりの公爵より、僕の方がいいだろう?」


 フィリップ様は口を挟まずにいてくれた。

 私はユリアンに答えた。


「取り消しません」

「君は意地を張っているんじゃないのか。別れようと言われたら、腹も立つだろうけど。本当は、僕のことが好きなんだろ」

「私のフィリップ様への気持ちが、嘘だとでも!?」


 ユリアンからすぐに返事はない。

 私は彼を好きだった。夕食のあとで少し歩こうと誘ってくれれば嬉しかったし、結婚の話が具体的になるにつれ、彼の帰宅を待つ生活を楽しみにもしていた。

 その彼が別の人と婚約したいと言った日に、何もかも平気で捨てられたわけではない。


「あなたとの結婚を楽しみにしていました。だから、悲しかったです。でも、今、あなたとの結婚を望んでなどいません」


 言うと、ユリアンは私からフィリップ様へ目を移した。


「公爵夫人になれるから?」


「ユリアン」


 父が横から言った。私は父に、大丈夫と告げた。

 腹が立った。彼が何も知らないまま、私が爵位目当てで結婚するのだと決めつけたことに。


「あなたが公爵だったとしても、結婚しません。謝ってくださっても、同じです。フィリップ様が好きですし、あなたの妻にはなりたくありません」


 ユリアンは私を見つめたが、私は言い直さなかった。

 フィリップ様が姿勢を正した。


「私からもお答えします。クララとの婚約は解消しません」

「あなたと知り合うずっと前から、僕たちは婚約していたんですよ!!」

「長いお付き合いだったことは承知しています。ですが、あなたは結婚を断ったのでしょう。私は、取りやめるつもりはありません」


 エミリアがユリアンへ向き直った。


「私も、戻りますとは申し上げていません」


 彼女はユリアンをまっすぐ見た。エミリアが、泣きながら口を開く。


「私の前では、クララ様とのことはもう終わった、これからは私だけだと。今度は、私を捨てるのですか?」

「エミリア、だから、順番に話そうと――」

「もうやめなさい」


 ロート侯爵が遮った。

 ユリアンは口を閉じた。侯爵は続ける。


「ガーデンパーティーでも、客として来たクララ嬢に用事を押しつけた。断られたあとまで頼み続けるなと注意したはずだ」

「今回は、用事とは違います。僕は結婚の話を」

「だからこそだ。エミリア嬢の許しも得ず、クララ嬢が公爵との婚約を解消するとも言っていないのに、お前一人で話を進めている。自分が望めば、誰とでも約束を取り消せると思っているのか」


 ユリアンがエミリアの顔を窺っても、彼女は目を合わせなかった。

 侯爵は椅子から立ち上がった。


「お前を、この家の後継者から外す」


 ユリアンは父親を見上げたまま、動かなかった。


「父上。それは、今、決めることですか」

「家を継ぐ者の約束は、家の信用にも関わる。お前にこの家を任せることはできない」

「僕は長男です」

「誰に継がせるかを決めるのは、当主である私だ」


 ユリアンが立ち上がった。腰掛けていた椅子を背後へ押し、こちらに一歩近づく。


「クララ。父上に話してくれないか。僕は君とやり直したかっただけなんだ。このままじゃ」


 私は膝のナプキンをテーブルへ置いた。


「私が、申し上げることは何もありません」


 フィリップ様に帰りたいと伝えると、彼が立った。差し出された手を取り、椅子から立ち上がる。父が侯爵へ挨拶するのを待って、私も頭を下げた。

 玄関まで来ると、父が先に馬車を呼ぶ。フィリップ様は私と並んで待ち、私が玄関の段差を下りる間も、手を離さずにいてくれた。

 私達は、白楡館を出た。


◇


 ロート侯爵が我が家へいらしたとき、私は旅に持っていく本を選んでいた。

 父と客間でお迎えすると、侯爵は茶会のことを詫び、息子の処遇が決まったので、出立前に伝えておきたいと言った。


「家は、以前から仕事を学ばせていた甥に継がせます。ユリアンには、最低限の生活費だけを渡すことにしました」


「今後も侯爵家の者として、社交界に残すおつもりですか?」


 父の問いに、侯爵は首を横に振った。


「後継者として招かれた席には出させません。家の金で好きなものを買うことも、やめさせます。別の爵位や領地を用意するつもりはありません」


 私はお茶を一口飲んだ。侯爵は運ばれたお茶に手をつけず、話を続けた。


「エミリア嬢は一度実家へ戻りました。ただ、ユリアンが一方的に言い出した通りに、黙って別れたわけではありません」


 彼女はユリアンに、本当に自分と結婚したいなら店で働き、父に認めてもらってほしいと告げたそうだ。

 そこで初めて、ユリアンはケラー家を訪ねて、彼女と父親に謝ったという。


「昨日からケラー家の持っている店に出ています。仕事は何も分からないので、教わるところからですが」


 エミリアは、父にユリアンを特別扱いするなと言ったらしい。侯爵も同席して、それを聞いたという。


「結婚できるかどうかは、これからです。ユリアンがどう暮らしていくか、見ていこうと思います」


 ユリアンは欲しいものは家の金で買い、面倒な用事は使用人に任せて暮らしてきた。これからは、自分で働いて稼いでいくことになる。



 侯爵が帰ると、私は部屋へ戻った。

 旅行記の一冊を持っていく本の束へ重ねた。船着き場の挿絵をフィリップ様と話した本だから、向こうでも読み返したい。

 侍女がドレスをしまう箱の蓋を持って、もう閉めてもよいかと聞いた。

 私は頷いて、旅の日に着る服を選びだした。


◇


 国境を越え、エストラーヴェの道を進んだ先で、馬車の窓に湖が見えた。

 私はフィリップ様の腕に触れた。


「あれですか」

「ええ。リュセーヌです」


 湖を見下ろす坂の途中で馬車を止めてもらい、私たちは降りた。岸沿いに家が並び、屋根の向こうに明るい水面が広がっている。港から出ていく船が小さく見えた。

 私は傍らの彼と顔を見合わせた。ずっと見たかった湖だ。彼とここまで来られたのが嬉しくて、しばらく景色を眺めていた。


 街に着いて初めて湖畔へ出た日は、途中で雨になった。

 私たちは屋根のある船着き場へ駆け込んだ。


 濡れた靴で隣に立っていると、舟が屋根の下に着き、乗り降りする人で辺りが賑やかになった。私たちは道を空けるため、端へ寄る。彼が私の肩に触れたまま乗る人を見送る間、私は雨の湖を眺めていた。


◇


 数か月後、街の礼拝堂で私はフィリップ様と結婚した。

 父と腕を組んで歩く先で、礼服の上着に小さな花を留めた彼が待っている。いつもなら私がそばへ行けば話しかけてくるのに、その日はドレス姿の私を見て、しばらく黙っていた。

 私は父の腕から手を離し、フィリップ様が差し出した手を取った。父が小さく咳払いをする。


「待たせたかな」

「いいえ。綺麗で、何を言おうとしたか忘れました」


 父が少しだけ目を細める。私はフィリップ様の隣で誓いの言葉を聞き、自分の番を待った。

 自分の番には、彼の顔を見て答えた。


 式と披露宴が終わり、二人で屋敷へ戻る頃には、湖が夕日を映していた。

 その光が差す私たちの部屋で、フィリップ様が上着を脱いで椅子へ掛ける間に、私は窓を開ける。

 窓の外には、湖に沿って歩く人が見えた。明日の朝には、私たちもあそこを歩いているだろう。


「明日は、早く起きられるかしら」

「明日はゆっくり寝ていてもいいのでは」

「でも、朝の湖を、あなたと見たいんです」


 彼は窓辺へ来て、私の隣に立った。


「では、起きられた方が起こすことにしよう。どこまで歩きたい?」

「船着き場まで。まだ静かな時間に」

「分かりました」


 私は窓を閉め、彼へ向き直った。


 フィリップ様が笑って私の手を取る。指を絡めて握り返すと、彼はそのまま私をそばへ引き寄せ、キスを落とした。

 明日のために早く寝るつもりだったことは、今は言わずにおいた。



完。

お読みいただきありがとうございます(^^♪

星で評価いただけると嬉しいです。

モチベーションになります。


「婚約破棄されましたが、最強のお兄様がただでは済ませません」

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「 潰れた定食屋のオッサン、ダンジョンで定食屋を再開したら料理にバフが付いていた。激重S級ダンジョン配信者アイドルが毎日入り浸るし、たまに休むと勝手に客が曇って困る」

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― 新着の感想 ―
ユリアンが糞野郎すぎるー! クララとフィリップが短い期間で急速に仲が進展している様に胸キュンしているところに 今カノと同席の場で「婚姻を戻さないか?」とか何様やねんコイツほんま‥ 今の感情だけで生きて…
クララが幸せになれてよかったです。個人的には出てくる親御さんたちがまともなところがとてもよかったです。ストレスなく、楽しめました。 嫡男の思考のおかしさが、「婚姻」や「爵位を継ぐ」前に発覚したことは、…
Thank you.
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