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婚約破棄された地味な司書令嬢、神殿の禁書に触れたら冷酷公爵に「君だけが俺を救える」と溺愛されました

作者: uta
掲載日:2026/05/16

「君との婚約は破棄する」


エドワードの声が、王宮の庭園に響いた。


春の陽射しが降り注ぐ午後。薔薇のアーチの下で、私は三年間尽くした婚約者からその言葉を聞いた。


——ああ、やっぱり。


不思議と、驚きはなかった。


「君では釣り合わないんだ。分かるだろう?」


エドワードは困ったように眉を下げる。その仕草さえ計算されているように見えるのは、私の僻みだろうか。


「……はい」


私は俯いたまま答えた。丸眼鏡の奥で、視線を落とす。インクの染みがついた自分の指先が視界に入った。


三年間。

彼の好みに合わせて読書の話を控えた。

彼の社交に付き合って、苦手な夜会にも出席した。

彼の機嫌を損ねないよう、いつも一歩引いて——


「エドワード様!」


甘い声が割り込んできた。


振り返れば、陽光を溶かしたような金髪を揺らして、一人の令嬢が駆けてくる。社交界の華、フローラ・ベルモンド嬢。


「あら、司書さん。まだこの場にいらしたの? 空気に溶け込みすぎて気づきませんでしたわ」


——知っていたのだ。今日、この場で婚約破棄が告げられることを。


「ねえ司書さん。三年間もエドワード様のお傍にいて、一度も気づかなかったの? 彼が本当に見ていたのは誰だったか」


私は——何も言えなかった。


「……私には、本だけあればいいから」


呟くように言って、私は踵を返した。


「最後まで地味で退屈な女ね。泣きもしないの?」


足を止める。振り返らずに、私は答えた。


「……涙は、大切なもののために使います」


それだけ言って、歩き出す。


——三年間で、私は『泣くほど大切なもの』が何かすら分からなくなっていた。



       ***



王宮図書館の閉架書庫。埃っぽい空気と、古い紙の匂い。私が最も落ち着ける場所。


「リーシャ」


厳しい声に振り返ると、主任司書のマグダ先生が立っていた。


「……婚約破棄のこと、聞きました」


「もう広まっているんですね」


「あの馬鹿息子が」


マグダ先生が吐き捨てるように言う。


「三年間、あなたがどれだけ尽くしていたか。私は見ていました。本を愛する子が、読書の話を封じていた。それがどれほど辛かったか、分からないとでも?」


胸の奥が、じくりと痛んだ。


「リーシャ。本は人を裏切らない。だが、本だけが全てでもない」


マグダ先生の声が、少しだけ柔らかくなる。


「今夜は、好きなだけここにいなさい。鍵は預けておきます」


その背中を見送りながら、私はようやく気づいた。目尻が、少しだけ濡れていることに。



       ***



深夜。


書架の間を歩きながら、ぼんやりと考えていた。


ふと、視界の端に何かが光った。


書架の奥。普段は閉ざされている扉——禁書庫。


扉が、わずかに開いていた。


(入っては駄目だ)


頭では分かっている。でも、足が動いていた。


——どうせ失うものなんて、もう何もない。


禁書庫の中は、想像していたより遥かに広かった。その中で、一冊の本が目に留まった。書架の最奥に置かれた黒い書物。


——呼ばれている。


気づいた時には、手を伸ばしていた。


触れた瞬間、衝撃が走った。


『——待っていた。千年、待っていた』


男の声だった。低く、冷たく、けれどどこか切実な。


視界が白く染まり、灼熱感が左胸から鎖骨にかけて広がっていく。


崩れ落ちそうになりながら、私は服の合わせ目をかき開けた。


見下ろした自分の胸に、銀色に輝く文様が浮かんでいた。古代文字。見たこともない紋様。


「——見つけた」


背後から、声がした。


振り返る。


禁書庫の入り口に、一人の男が立っていた。


漆黒の髪。凍てついた湖のような深い紺碧の瞳。社交界で「氷の公爵」と恐れられる男——クロード・ヴァルシュタイン公爵。


彼が一歩、近づいてくる。私は後退ろうとしたが、書架に背がぶつかって動けない。


「逃げるな」


低い声が響く。命令ではない。懇願に近い響きがあった。


彼の左手が伸びてきた。私の肩に触れ——


触れられた瞬間、私の胸の紋様が淡く輝いた。同時に、彼の左胸からも同じ光が漏れる。


「対になっている……」


私が呟くと、彼が頷いた。その氷の瞳に、かすかな熱が宿る。


「お前が、千年待った『解呪者』か」


彼の声は、震えていた。



       ***



「これは千年前に封じられた呪いだ。俺は八歳の時にこれを受け継いだ」


彼は淡々と語った。


「触れた者を凍てつかせる。それが、この呪いの効果だ」


「では今、私に触れていますが……」


「そうだ。お前には、呪いが効かない」


「……」


「二十年間、誰にも触れられなかった。母を、抱きしめようとして——俺は母を、凍傷で苦しめた」


その声には、氷よりも深い孤独が滲んでいた。


「……触れるだけで、呪いが和らぐ。お前に触れている間だけ、俺は——」


彼の瞳が、真っ直ぐに私を捉える。


「禁書に予言があった。『解呪者が現れる。対の紋様を持つ者だけが、呪いを解ける』と。そうだ。お前だけが、俺を救える」


——お前だけが。


「……解呪するには、どうすれば?」


気づけば、私は問いかけていた。


「禁書によれば——『心を通わせる』必要がある。婚約という形を取る必要がある」


「婚約……」


「偽装でいい。呪いが解けるまでの、契約だ。対価は払う。だから——俺に、触れてくれ」


その声は——懇願だった。



       ***



三日後。公爵邸の客間。


「——は? 従兄上が婚約?」


銀灰色の髪の青年——レオンが素っ頓狂な声を上げた。


「しかも相手が、王宮図書館の司書嬢?」


「うるさい。五秒やる。消えろ」


「いやいやいや待ってください! 二十年間誰とも婚約しなかった従兄上が!」


「五」


「リーシャ嬢、でしたっけ? あなた従兄上の何なの? 弱みでも握った?」


その瞬間、クロード公爵が動いた。


「——それ以上、彼女を侮辱するな」


低い声が、部屋の空気を凍てつかせる。


「リーシャは俺の婚約者だ。俺が選んだ。それ以上の説明が必要か」


——俺が選んだ。


エドワードは、三年間一度も、そんな言葉を言ってくれなかった。


「……参りました。ただ、一つだけ聞かせてください。従兄上に——触れられますか?」


「……はい」


レオンの目が見開かれた。


クロード公爵が黒革の手袋を外し、その左手が私の方に伸びてくる。私は迷わず、その手を取った。


紋様が淡く輝く。温かい光が、二人の繋いだ手から広がっていく。


「……本当、だ。触れて……従兄上が、誰かに触れられて……二十年だ。二十年間、ずっと……」


レオンの翠緑の瞳に、涙が滲んでいた。


「リーシャ嬢。従兄上を、よろしくお願いします」


その声には、二十年分の想いが込められていた。



       ***



一週間後。王宮の廊下。


「嘘でしょう……? 公爵家との婚約? あの氷の公爵と? リーシャが?」


エドワードの琥珀色の瞳が、私を捉えている。


「三日前に、正式に婚約しました」


「俺と婚約を破棄して、わずか数日で別の男と?」


「あなたに関係のないことです」


私が言い返すと、エドワードの目が見開かれた。三年間、私は一度も言い返さなかった。


「君では釣り合わない、と言ったのはあなたです。ならば私が誰と婚約しようと、あなたには関係ないはずです」


「あの女が公爵に取り入っただと……? 何か裏があるに決まっていますわ」


フローラが扇をぱちりと鳴らした。


「フローラ嬢」


冷たい声が割り込んだ。クロード公爵が立っていた。


「俺の婚約者を侮辱しているように聞こえたが。気のせいか」


「そ、それは——」


「五秒やる。消えろ」


その声は、氷よりも冷たかった。


二人の姿が消えると、公爵が私に振り返った。


「——大丈夫か」


「はい。大丈夫、です……」


「嘘をつくな。震えている」


指摘されて、初めて気づいた。自分の手が、小さく震えていることに。


「お前が自分を卑下するのは許さない。俺の『解呪者』を侮辱するな」


その声は——温かかった。



       ***



公爵邸の書斎。暖炉の火を眺めながら、私はソファに座っていた。


「リーシャ」


いつの間にか、公爵が目の前に立っていた。


「手を」


差し出された手を取ると、紋様が淡く輝く。


「……ああ。痛みが、消える」


「いつも、痛いのですか……?」


「紋様が疼く。常に、灼けるような——」


ふと、公爵の耳が赤くなっていることに気づいた。


「公爵様……?」


「……なんでもない」


でも、繋いだ手は離されない。


「もう少しだけ、こうしていてくれ」


その声は——懇願のように聞こえた。


「クロード」


「……え?」


「名前で呼べ。婚約者だろう」


「……クロード、様」


彼の頬が、わずかに染まった。


「……もっと傍にいろ。触れるだけで、楽になる。だから——」


「……はい」


その一言で、氷の公爵の心が、少しだけ溶けた。



       ***



ある夜。私は悪夢にうなされていた。


幼い頃の記憶。親戚の家をたらい回しにされた日々。居場所のなかった子供時代。


跳ね起きて、水を飲もうと部屋を出た。


書斎から光が漏れている。近づくと、クロードがデスクに突っ伏していた。


「……かあ、さま……触れ、ない……俺は……」


——悪夢を見ているのだ。私と同じように。


私は彼の傍に膝をつき、その手に触れた。紋様が淡く輝く。


「……リーシャ?」


「……悪夢を見ていたようでしたので」


やがて、彼が口を開いた。


「八歳の時だった。政敵に呪われた。母が、俺を抱きしめようとした。悲鳴が聞こえた。母の腕が、凍傷で——」


「もう、いいです。辛いことを、思い出させてしまって——」


「違う。お前に、話したかった。二十年間、誰にも言えなかった。でも——お前なら、分かるだろう。居場所のなかった痛み。お前の目には、それが宿っている」


見透かされている。この人には、隠せない。


「……私も、誰にも必要とされませんでした。本だけが、私を拒絶しなかった」


涙が、頬を伝った。三年間、エドワードに捨てられた時も泣かなかったのに——


「泣くな」


彼の手が伸びてきた。私の頬に触れ、涙を拭う。


「お前が泣くと——俺も、苦しくなる」



       ***



夜会の翌日から、噂が広まった。


「リーシャ・メルヴィオール司書は、公爵に取り入るために怪しげな魔術を使った」


出所は明らかだった。エドワードとフローラ。


「リーシャ」


マグダ先生の声がした。


「あなたは自分が思うより、ずっと強い子です。こんな嫌がらせに負けないでちょうだい」


そこへレオンが駆けつけてきた。


「従兄上は今、あの噂の出所を調べている。それに——今週末の王宮舞踏会。従兄上がリーシャ嬢を正式に『公爵家の婚約者』として披露するそうだ」



       ***



王宮舞踏会。


控室の鏡の前で、私は自分の姿を見つめていた。銀糸で刺繍された藍色のドレス。三つ編みは解かれ、眼鏡も外された。


「……誰、これ」


「あんただよ。元々美人なんだ。隠してただけで」


階段の下に、クロードが立っていた。その凍てついた紺碧の瞳が——わずかに見開かれた。


「……来たか」


「お待たせしました」


「待った甲斐があった」


彼の手が私の腰に回され、オーケストラが新しい曲を奏で始める。


「リーシャ。お前は、美しい」


「……そんな」


「事実だ。誰にも、渡さない」


その声は——呪いとは関係ない、彼自身の言葉に聞こえた。



       ***



舞踏会の中盤。レオンが駆け寄ってきた。


「調査の結果が出ました。例の噂の出所——証拠が揃いました」


「今夜、決着をつける」


クロードは会場の中央に歩み出た。


「彼女——リーシャ・メルヴィオールを、正式にヴァルシュタイン公爵家の婚約者として紹介する。同時に、彼女に対する悪質な噂を流布した者を——この場で糾弾する」


エドワードとフローラが、青ざめた。


「セルヴィッジ伯爵家次男、エドワード・セルヴィッジ。ベルモンド侯爵家令嬢、フローラ・ベルモンド。お前たちが流布した噂の証拠は、全て押さえてある」


「ま、待ってくれ公爵閣下! あれは誤解で——」


「誤解? 使用人を買収した証拠もある」


「嘘ですわ! 地味で退屈な女が、突然公爵家と婚約なんて——絶対に何かある!」


「フローラ嬢。お前は以前、俺に求婚したな。俺はお前を『触れるな』の一言で退けた。その屈辱を、リーシャにぶつけているのか?」


フローラの顔が、真っ赤になった。


「俺が選んだのは、リーシャだ。お前たちが何を言おうと——それは変わらない」


「……っ。リーシャ、俺が間違っていた。やり直そう」


「——お断りします」


私は静かに答えた。


「三年間、あなたに尽くしました。でもあなたは、一度も私を見てくれなかった。今さら何を言われても、心は動きません。私は——この人の傍にいたい」



       ***



舞踏会の翌日。公爵邸の書斎で、マグダ先生と向かい合っていた。


「真実を、話す時が来たようですね。禁書庫の鍵を、あなたに渡したのは私です」


「先生……?」


「予言の続きがあるのです。『呪いは、真実の愛で結ばれた者にしか解けない』」


——真実の愛。


私たちの婚約は、偽装だった。契約だった。でも——


「リーシャ。——少し、話がしたい」


クロードの声が、今まで聞いたことがないほど柔らかかった。



       ***



公爵邸の庭園。月明かりが降り注ぐ夜。


「俺は——お前を利用していた。呪いを解くために、偽装婚約を持ちかけた」


「クロード」


「だが、いつの間にか——変わっていた。お前に触れることが、呪いのためだけではなくなった。お前が泣くと、胸が苦しくなった。お前が笑うと、安堵した」


彼の瞳が、私を真っ直ぐに見つめる。


「俺は——お前を愛している、リーシャ。呪いのせいではない。お前だから。お前が、俺の傍にいてくれたから」


「……っ」


「俺の傍にいてくれ。呪いが解けても、解けなくても——」


「クロード」


私は——彼の胸に飛び込んだ。


「私も——私も、あなたを——」


彼の腕が、私を抱きしめる。


「——愛している」


その瞬間、私たちの紋様が眩い光を放った。銀色の光が、夜空に昇っていく。


——呪いが、解けていく。真実の愛によって。



       ***



一ヶ月後。王宮の大聖堂。


「——本日、クロード・ヴァルシュタイン公爵とリーシャ・メルヴィオール令嬢の婚姻を、ここに宣言する」


黒い正装に身を包んだクロードが、私のヴェールを上げた。


「……綺麗だ」


小さな声。私にしか聞こえない、彼だけの言葉。


「あなたも」


「誓いのキスを」


唇が重なった。温かい。彼の体温が、直に伝わってくる。


「リーシャ。お前だけが、俺に触れられた。——それは永遠に変わらない」


「……クロード」


「呪いが解けたから終わりではない。——これからが、始まりだ」


「はい。——これからも、傍にいさせてください」


「傍にいろ。離さない」


——かつて地味だと蔑まれた司書令嬢は、今日、最も愛される公爵夫人となった。



       ***



結婚式から三ヶ月後。ヴァルシュタイン公爵邸の図書室。


「——ここに、私専用の書架を作ってくれたんですか?」


壁一面を覆う新しい書架。王宮図書館から運び込まれた書物がぎっしりと並んでいる。


「お前が本を愛しているのは知っている。マグダ殿に相談した。お前の好みの本を選んでもらった」


「クロード……」


涙が滲んだ。エドワードは、私の読書を「退屈だ」と嫌った。でもクロードは——私の愛するものを、一緒に愛そうとしてくれている。


「気に入らなかったか?」


「違います。嬉しいんです。嬉しくて——」


「泣くな。お前が泣くと、俺は——」


「どうなるんですか?」


「……困る」


不器用な言葉。でも、その声には確かな愛情がこもっていた。


「クロード」


「なんだ」


「愛しています」


彼の耳が、赤くなった。


「……俺も。俺も——愛している」


窓から差し込む陽の光が、私たちを包む。


——私には、本だけあればいい。


かつてそう言い聞かせていた私は、もういない。


「クロード」


「なんだ」


「これからも、よろしくお願いします」


「当然だ。——一生、傍にいろ」


地味な司書令嬢と、氷の公爵。禁書から始まった運命は、真実の愛で結ばれた。


これからも——ずっと。



【完】

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