婚約破棄された地味な司書令嬢、神殿の禁書に触れたら冷酷公爵に「君だけが俺を救える」と溺愛されました
「君との婚約は破棄する」
エドワードの声が、王宮の庭園に響いた。
春の陽射しが降り注ぐ午後。薔薇のアーチの下で、私は三年間尽くした婚約者からその言葉を聞いた。
——ああ、やっぱり。
不思議と、驚きはなかった。
「君では釣り合わないんだ。分かるだろう?」
エドワードは困ったように眉を下げる。その仕草さえ計算されているように見えるのは、私の僻みだろうか。
「……はい」
私は俯いたまま答えた。丸眼鏡の奥で、視線を落とす。インクの染みがついた自分の指先が視界に入った。
三年間。
彼の好みに合わせて読書の話を控えた。
彼の社交に付き合って、苦手な夜会にも出席した。
彼の機嫌を損ねないよう、いつも一歩引いて——
「エドワード様!」
甘い声が割り込んできた。
振り返れば、陽光を溶かしたような金髪を揺らして、一人の令嬢が駆けてくる。社交界の華、フローラ・ベルモンド嬢。
「あら、司書さん。まだこの場にいらしたの? 空気に溶け込みすぎて気づきませんでしたわ」
——知っていたのだ。今日、この場で婚約破棄が告げられることを。
「ねえ司書さん。三年間もエドワード様のお傍にいて、一度も気づかなかったの? 彼が本当に見ていたのは誰だったか」
私は——何も言えなかった。
「……私には、本だけあればいいから」
呟くように言って、私は踵を返した。
「最後まで地味で退屈な女ね。泣きもしないの?」
足を止める。振り返らずに、私は答えた。
「……涙は、大切なもののために使います」
それだけ言って、歩き出す。
——三年間で、私は『泣くほど大切なもの』が何かすら分からなくなっていた。
***
王宮図書館の閉架書庫。埃っぽい空気と、古い紙の匂い。私が最も落ち着ける場所。
「リーシャ」
厳しい声に振り返ると、主任司書のマグダ先生が立っていた。
「……婚約破棄のこと、聞きました」
「もう広まっているんですね」
「あの馬鹿息子が」
マグダ先生が吐き捨てるように言う。
「三年間、あなたがどれだけ尽くしていたか。私は見ていました。本を愛する子が、読書の話を封じていた。それがどれほど辛かったか、分からないとでも?」
胸の奥が、じくりと痛んだ。
「リーシャ。本は人を裏切らない。だが、本だけが全てでもない」
マグダ先生の声が、少しだけ柔らかくなる。
「今夜は、好きなだけここにいなさい。鍵は預けておきます」
その背中を見送りながら、私はようやく気づいた。目尻が、少しだけ濡れていることに。
***
深夜。
書架の間を歩きながら、ぼんやりと考えていた。
ふと、視界の端に何かが光った。
書架の奥。普段は閉ざされている扉——禁書庫。
扉が、わずかに開いていた。
(入っては駄目だ)
頭では分かっている。でも、足が動いていた。
——どうせ失うものなんて、もう何もない。
禁書庫の中は、想像していたより遥かに広かった。その中で、一冊の本が目に留まった。書架の最奥に置かれた黒い書物。
——呼ばれている。
気づいた時には、手を伸ばしていた。
触れた瞬間、衝撃が走った。
『——待っていた。千年、待っていた』
男の声だった。低く、冷たく、けれどどこか切実な。
視界が白く染まり、灼熱感が左胸から鎖骨にかけて広がっていく。
崩れ落ちそうになりながら、私は服の合わせ目をかき開けた。
見下ろした自分の胸に、銀色に輝く文様が浮かんでいた。古代文字。見たこともない紋様。
「——見つけた」
背後から、声がした。
振り返る。
禁書庫の入り口に、一人の男が立っていた。
漆黒の髪。凍てついた湖のような深い紺碧の瞳。社交界で「氷の公爵」と恐れられる男——クロード・ヴァルシュタイン公爵。
彼が一歩、近づいてくる。私は後退ろうとしたが、書架に背がぶつかって動けない。
「逃げるな」
低い声が響く。命令ではない。懇願に近い響きがあった。
彼の左手が伸びてきた。私の肩に触れ——
触れられた瞬間、私の胸の紋様が淡く輝いた。同時に、彼の左胸からも同じ光が漏れる。
「対になっている……」
私が呟くと、彼が頷いた。その氷の瞳に、かすかな熱が宿る。
「お前が、千年待った『解呪者』か」
彼の声は、震えていた。
***
「これは千年前に封じられた呪いだ。俺は八歳の時にこれを受け継いだ」
彼は淡々と語った。
「触れた者を凍てつかせる。それが、この呪いの効果だ」
「では今、私に触れていますが……」
「そうだ。お前には、呪いが効かない」
「……」
「二十年間、誰にも触れられなかった。母を、抱きしめようとして——俺は母を、凍傷で苦しめた」
その声には、氷よりも深い孤独が滲んでいた。
「……触れるだけで、呪いが和らぐ。お前に触れている間だけ、俺は——」
彼の瞳が、真っ直ぐに私を捉える。
「禁書に予言があった。『解呪者が現れる。対の紋様を持つ者だけが、呪いを解ける』と。そうだ。お前だけが、俺を救える」
——お前だけが。
「……解呪するには、どうすれば?」
気づけば、私は問いかけていた。
「禁書によれば——『心を通わせる』必要がある。婚約という形を取る必要がある」
「婚約……」
「偽装でいい。呪いが解けるまでの、契約だ。対価は払う。だから——俺に、触れてくれ」
その声は——懇願だった。
***
三日後。公爵邸の客間。
「——は? 従兄上が婚約?」
銀灰色の髪の青年——レオンが素っ頓狂な声を上げた。
「しかも相手が、王宮図書館の司書嬢?」
「うるさい。五秒やる。消えろ」
「いやいやいや待ってください! 二十年間誰とも婚約しなかった従兄上が!」
「五」
「リーシャ嬢、でしたっけ? あなた従兄上の何なの? 弱みでも握った?」
その瞬間、クロード公爵が動いた。
「——それ以上、彼女を侮辱するな」
低い声が、部屋の空気を凍てつかせる。
「リーシャは俺の婚約者だ。俺が選んだ。それ以上の説明が必要か」
——俺が選んだ。
エドワードは、三年間一度も、そんな言葉を言ってくれなかった。
「……参りました。ただ、一つだけ聞かせてください。従兄上に——触れられますか?」
「……はい」
レオンの目が見開かれた。
クロード公爵が黒革の手袋を外し、その左手が私の方に伸びてくる。私は迷わず、その手を取った。
紋様が淡く輝く。温かい光が、二人の繋いだ手から広がっていく。
「……本当、だ。触れて……従兄上が、誰かに触れられて……二十年だ。二十年間、ずっと……」
レオンの翠緑の瞳に、涙が滲んでいた。
「リーシャ嬢。従兄上を、よろしくお願いします」
その声には、二十年分の想いが込められていた。
***
一週間後。王宮の廊下。
「嘘でしょう……? 公爵家との婚約? あの氷の公爵と? リーシャが?」
エドワードの琥珀色の瞳が、私を捉えている。
「三日前に、正式に婚約しました」
「俺と婚約を破棄して、わずか数日で別の男と?」
「あなたに関係のないことです」
私が言い返すと、エドワードの目が見開かれた。三年間、私は一度も言い返さなかった。
「君では釣り合わない、と言ったのはあなたです。ならば私が誰と婚約しようと、あなたには関係ないはずです」
「あの女が公爵に取り入っただと……? 何か裏があるに決まっていますわ」
フローラが扇をぱちりと鳴らした。
「フローラ嬢」
冷たい声が割り込んだ。クロード公爵が立っていた。
「俺の婚約者を侮辱しているように聞こえたが。気のせいか」
「そ、それは——」
「五秒やる。消えろ」
その声は、氷よりも冷たかった。
二人の姿が消えると、公爵が私に振り返った。
「——大丈夫か」
「はい。大丈夫、です……」
「嘘をつくな。震えている」
指摘されて、初めて気づいた。自分の手が、小さく震えていることに。
「お前が自分を卑下するのは許さない。俺の『解呪者』を侮辱するな」
その声は——温かかった。
***
公爵邸の書斎。暖炉の火を眺めながら、私はソファに座っていた。
「リーシャ」
いつの間にか、公爵が目の前に立っていた。
「手を」
差し出された手を取ると、紋様が淡く輝く。
「……ああ。痛みが、消える」
「いつも、痛いのですか……?」
「紋様が疼く。常に、灼けるような——」
ふと、公爵の耳が赤くなっていることに気づいた。
「公爵様……?」
「……なんでもない」
でも、繋いだ手は離されない。
「もう少しだけ、こうしていてくれ」
その声は——懇願のように聞こえた。
「クロード」
「……え?」
「名前で呼べ。婚約者だろう」
「……クロード、様」
彼の頬が、わずかに染まった。
「……もっと傍にいろ。触れるだけで、楽になる。だから——」
「……はい」
その一言で、氷の公爵の心が、少しだけ溶けた。
***
ある夜。私は悪夢にうなされていた。
幼い頃の記憶。親戚の家をたらい回しにされた日々。居場所のなかった子供時代。
跳ね起きて、水を飲もうと部屋を出た。
書斎から光が漏れている。近づくと、クロードがデスクに突っ伏していた。
「……かあ、さま……触れ、ない……俺は……」
——悪夢を見ているのだ。私と同じように。
私は彼の傍に膝をつき、その手に触れた。紋様が淡く輝く。
「……リーシャ?」
「……悪夢を見ていたようでしたので」
やがて、彼が口を開いた。
「八歳の時だった。政敵に呪われた。母が、俺を抱きしめようとした。悲鳴が聞こえた。母の腕が、凍傷で——」
「もう、いいです。辛いことを、思い出させてしまって——」
「違う。お前に、話したかった。二十年間、誰にも言えなかった。でも——お前なら、分かるだろう。居場所のなかった痛み。お前の目には、それが宿っている」
見透かされている。この人には、隠せない。
「……私も、誰にも必要とされませんでした。本だけが、私を拒絶しなかった」
涙が、頬を伝った。三年間、エドワードに捨てられた時も泣かなかったのに——
「泣くな」
彼の手が伸びてきた。私の頬に触れ、涙を拭う。
「お前が泣くと——俺も、苦しくなる」
***
夜会の翌日から、噂が広まった。
「リーシャ・メルヴィオール司書は、公爵に取り入るために怪しげな魔術を使った」
出所は明らかだった。エドワードとフローラ。
「リーシャ」
マグダ先生の声がした。
「あなたは自分が思うより、ずっと強い子です。こんな嫌がらせに負けないでちょうだい」
そこへレオンが駆けつけてきた。
「従兄上は今、あの噂の出所を調べている。それに——今週末の王宮舞踏会。従兄上がリーシャ嬢を正式に『公爵家の婚約者』として披露するそうだ」
***
王宮舞踏会。
控室の鏡の前で、私は自分の姿を見つめていた。銀糸で刺繍された藍色のドレス。三つ編みは解かれ、眼鏡も外された。
「……誰、これ」
「あんただよ。元々美人なんだ。隠してただけで」
階段の下に、クロードが立っていた。その凍てついた紺碧の瞳が——わずかに見開かれた。
「……来たか」
「お待たせしました」
「待った甲斐があった」
彼の手が私の腰に回され、オーケストラが新しい曲を奏で始める。
「リーシャ。お前は、美しい」
「……そんな」
「事実だ。誰にも、渡さない」
その声は——呪いとは関係ない、彼自身の言葉に聞こえた。
***
舞踏会の中盤。レオンが駆け寄ってきた。
「調査の結果が出ました。例の噂の出所——証拠が揃いました」
「今夜、決着をつける」
クロードは会場の中央に歩み出た。
「彼女——リーシャ・メルヴィオールを、正式にヴァルシュタイン公爵家の婚約者として紹介する。同時に、彼女に対する悪質な噂を流布した者を——この場で糾弾する」
エドワードとフローラが、青ざめた。
「セルヴィッジ伯爵家次男、エドワード・セルヴィッジ。ベルモンド侯爵家令嬢、フローラ・ベルモンド。お前たちが流布した噂の証拠は、全て押さえてある」
「ま、待ってくれ公爵閣下! あれは誤解で——」
「誤解? 使用人を買収した証拠もある」
「嘘ですわ! 地味で退屈な女が、突然公爵家と婚約なんて——絶対に何かある!」
「フローラ嬢。お前は以前、俺に求婚したな。俺はお前を『触れるな』の一言で退けた。その屈辱を、リーシャにぶつけているのか?」
フローラの顔が、真っ赤になった。
「俺が選んだのは、リーシャだ。お前たちが何を言おうと——それは変わらない」
「……っ。リーシャ、俺が間違っていた。やり直そう」
「——お断りします」
私は静かに答えた。
「三年間、あなたに尽くしました。でもあなたは、一度も私を見てくれなかった。今さら何を言われても、心は動きません。私は——この人の傍にいたい」
***
舞踏会の翌日。公爵邸の書斎で、マグダ先生と向かい合っていた。
「真実を、話す時が来たようですね。禁書庫の鍵を、あなたに渡したのは私です」
「先生……?」
「予言の続きがあるのです。『呪いは、真実の愛で結ばれた者にしか解けない』」
——真実の愛。
私たちの婚約は、偽装だった。契約だった。でも——
「リーシャ。——少し、話がしたい」
クロードの声が、今まで聞いたことがないほど柔らかかった。
***
公爵邸の庭園。月明かりが降り注ぐ夜。
「俺は——お前を利用していた。呪いを解くために、偽装婚約を持ちかけた」
「クロード」
「だが、いつの間にか——変わっていた。お前に触れることが、呪いのためだけではなくなった。お前が泣くと、胸が苦しくなった。お前が笑うと、安堵した」
彼の瞳が、私を真っ直ぐに見つめる。
「俺は——お前を愛している、リーシャ。呪いのせいではない。お前だから。お前が、俺の傍にいてくれたから」
「……っ」
「俺の傍にいてくれ。呪いが解けても、解けなくても——」
「クロード」
私は——彼の胸に飛び込んだ。
「私も——私も、あなたを——」
彼の腕が、私を抱きしめる。
「——愛している」
その瞬間、私たちの紋様が眩い光を放った。銀色の光が、夜空に昇っていく。
——呪いが、解けていく。真実の愛によって。
***
一ヶ月後。王宮の大聖堂。
「——本日、クロード・ヴァルシュタイン公爵とリーシャ・メルヴィオール令嬢の婚姻を、ここに宣言する」
黒い正装に身を包んだクロードが、私のヴェールを上げた。
「……綺麗だ」
小さな声。私にしか聞こえない、彼だけの言葉。
「あなたも」
「誓いのキスを」
唇が重なった。温かい。彼の体温が、直に伝わってくる。
「リーシャ。お前だけが、俺に触れられた。——それは永遠に変わらない」
「……クロード」
「呪いが解けたから終わりではない。——これからが、始まりだ」
「はい。——これからも、傍にいさせてください」
「傍にいろ。離さない」
——かつて地味だと蔑まれた司書令嬢は、今日、最も愛される公爵夫人となった。
***
結婚式から三ヶ月後。ヴァルシュタイン公爵邸の図書室。
「——ここに、私専用の書架を作ってくれたんですか?」
壁一面を覆う新しい書架。王宮図書館から運び込まれた書物がぎっしりと並んでいる。
「お前が本を愛しているのは知っている。マグダ殿に相談した。お前の好みの本を選んでもらった」
「クロード……」
涙が滲んだ。エドワードは、私の読書を「退屈だ」と嫌った。でもクロードは——私の愛するものを、一緒に愛そうとしてくれている。
「気に入らなかったか?」
「違います。嬉しいんです。嬉しくて——」
「泣くな。お前が泣くと、俺は——」
「どうなるんですか?」
「……困る」
不器用な言葉。でも、その声には確かな愛情がこもっていた。
「クロード」
「なんだ」
「愛しています」
彼の耳が、赤くなった。
「……俺も。俺も——愛している」
窓から差し込む陽の光が、私たちを包む。
——私には、本だけあればいい。
かつてそう言い聞かせていた私は、もういない。
「クロード」
「なんだ」
「これからも、よろしくお願いします」
「当然だ。——一生、傍にいろ」
地味な司書令嬢と、氷の公爵。禁書から始まった運命は、真実の愛で結ばれた。
これからも——ずっと。
【完】




