第9話 数字が語る王宮の嘘
残り五日。
すべての証拠を一つの報告書にまとめる作業に入った。
前世で何度も書いた内部監査報告書の形式を借り、この世界の慣例に合わせて整えた。事実の列挙、数値の比較、証言の要約。感情を排し、数字だけで語る。感情は報告書に入れない。それが前世の鉄則だった。
書きながら、何度も手が止まった。養父のことを書く段になると、指が震える。冤罪の経緯を客観的に記述するのは、思った以上に苦しかった。でも、書く。感情ではなく事実で語る。それが養父を救う唯一の方法だ。
トーマスが横から助言を加え、カイが人の出入りを見張った。ナタリアが茶を淹れてくれた。ナタリアの淹れる茶は、トーマスのものとも、カイの渋い茶とも違う。少し甘い。
小さな部隊だった。でも、信頼できる人がいる。それだけで、手が止まらずにいられた。
報告書が完成したのは、残り三日の夜だった。
蝋燭の灯りの下で、最後の一文を書き終えた。全三十二頁。この世界の羊皮紙に、前世の監査報告書の精密さを注ぎ込んだ。数字の根拠、証言の裏付け、推計の前提条件。どこから突かれても崩れない構成にした。
インクが乾くのを待つ間、窓の外を見た。星が出ている。こんなに星を見たのは、久しぶりだった。前世では、締め切り前の夜にオフィスの窓から見た都会の空に、星は見えなかった。
カイが黙って横に立っていた。最後まで付き合ってくれたのだ。
「終わりました」
「読んでいいか」
「どうぞ」
カイが報告書を手に取り、一頁ずつ読んだ。読む速度は遅いが、丁寧だ。理解しようとしている。
読み終えて、カイは静かに言った。
「俺には数字のことは半分しかわからん。だが、これが正しいことだということはわかる」
それで十分だった。
翌日の朝、カイが動いた。騎士団副長の権限で、王太子との面談を申請した。理由は「王宮の安全に関わる報告」。形式上、騎士団の業務として通る名目だ。
アルベルトは、すぐに応じた。
面談は、王太子の私室で行われた。アルベルト、トーマス、私、カイ。四人だけの部屋。窓が大きく、中庭の木々が見える。静かな部屋だった。
「報告書を拝見したい」
アルベルトの声は落ち着いていたが、手元に緊張が見えた。椅子のひじ掛けを握る指に、力が入っている。
私は報告書を差し出した。アルベルトは一頁一頁、丁寧に読んだ。長い時間だった。部屋には紙をめくる音だけが響いていた。
すべてを読み終えたとき、アルベルトは窓の外を見た。いつもの癖だ。長い沈黙の後に、短く答える。
「……これは事実なのだな」
「はい。すべて記録と証言に基づいています」
「母上が……国庫の金を私的に流用していたと」
アルベルトの声が、かすかに揺れた。母と呼んだ。王妃ではなく、母と。
トーマスが口を開いた。
「殿下。これは王妃お一人の問題ではありません。侍従長オルガ、フォーゲル伯爵、そして構造としての聖女慈善事業。制度の欠陥が不正を可能にしています。特定の個人を罰するだけでは、同じことが繰り返されます」
「わかっている」
アルベルトは目を閉じた。長い息を吐いた。
「母上を愛している。それは今も変わらない。だが——」
目を開けた。瞳の中の迷いが、消えていた。窓の外ではなく、私たちを見ていた。
「国を守ることと、母を守ることは、両立しない。そうだな」
誰も答えなかった。答える必要がなかった。この場にいる四人全員が、同じ答えを知っていた。
アルベルトは報告書を机の上に置いた。丁寧に、しかし迷いなく。
「三日後に国王への上奏を行う。大広間で、主要な貴族と高官の前で。その場に、リーネ、君も同席しなさい。証拠の説明ができるのは君だけだ」
「はい」
「王妃は必ず反論する。それも、巧みに。あの方は弁舌にも長けている。数字ではなく、人の心を揺さぶる言葉で反撃してくるだろう。備えておけ」
アルベルトの忠告は的確だった。この人は母を知り尽くしている。だからこそ苦しんできた。
アルベルトが立ち上がった。
「トーマス殿。長年、沈黙を守り続けたことを、責める気はない。だが、もう沈黙の時は終わりだ」
トーマスは深く頭を下げた。眼鏡の奥の目が、光っていた。
◇
面談を終えて会計院に戻る途中、事件が起きた。
回廊の角を曲がったところで、オルガが待ち構えていた。
「リーネ様。少しよろしいですか」
声は丁寧だったが、目が据わっていた。いつもの冷静さの奥に、焦りがある。背後に、二人の衛兵が立っている。
「王妃殿下が、お会いになりたいと」
カイが一歩前に出た。肩が広がり、通路を半分塞ぐ。
「俺の許可なく、監査官補佐を連行することはできない。騎士団の規定だ」
「連行ではありません。ご招待です」
「では断る。監査官補佐は業務中だ」
オルガの目が細くなった。衛兵が一歩前に出る。空気が張り詰めた。
「騎士団副長ともあろう方が、王妃の招待を拒否なさるのですか」
カイの手が、腰の剣の柄に触れた。触れただけだ。だが衛兵が一瞬、足を止めた。
「カイ。大丈夫です。行きます」
「リーネ」
「三日後の上奏まで、何も変わりません。大丈夫」
カイの顎が強張った。だが、私の目を見て、わずかにうなずいた。
「すぐに戻れ」
「ええ」
オルガに導かれて王妃の執務室に入った。
ヴィクトリアが椅子に座っていた。いつもの微笑みはなかった。銀髪が少し乱れている。初めて見る、不完全な王妃の姿だった。
「リーネ。あなたは賢い子だと思っていたのに」
声が冷たかった。今までの柔らかさは消え、地金が出ている。
「王太子に何を吹き込んだの」
「事実をお伝えしただけです」
「事実ね」
ヴィクトリアが立ち上がった。
「この王宮を三十年支えてきたのは私よ。国王は飾り、王太子は未熟。実務を回してきたのは、この私。そのために必要な資金を確保して、何が悪いの」
声に怒りが混じっていた。同時に、どこか悲痛でもあった。この人は本気でそう信じている。自分が必要だと。自分がいなければ王宮は回らないと。
「王妃殿下。あなたの功績を否定するつもりはありません。ですが、そのために養父は罪を着せられ、命を落としました」
「あなたの養父? ああ、あの花商人。残念だったけれど、あれは必要な措置だった。帳簿の辻褄を合わせるために、誰かの名前が必要だったの」
悪びれもなく言った。養父の命が、帳簿の辻褄。一人の人間の人生が、数字の帳尻合わせ。
怒りが腹の底から湧いた。視界が赤くなりかけた。だが、叫ばなかった。拳を膝の上で握りしめ、呼吸を整えた。吸って、吐いて。数を数えた。一、二、三。前世で覚えた、感情を制御する方法。
「王妃殿下。三日後に国王への上奏が行われます。それまでに、ご自身の立場を整理されることをお勧めします」
ヴィクトリアの目が見開かれた。私がここまで踏み込むとは思っていなかったのだろう。
「……あなたを排除する手段は、まだある」
「ありません。証拠は複数の場所に分散保管されています。私一人を排除しても、上奏は止まりません」
沈黙が落ちた。
ヴィクトリアの顔から、初めて余裕が消えた。完璧な微笑みが、ただの疲れた女性の顔になった。
「出なさい」
低い声だった。私は一礼して部屋を出た。
廊下でカイが待っていた。壁に背をつけ、腕を組み、扉を睨んでいた。
私の顔を見て、一歩近づいた。
「無事か」
「無事です」
「手が震えている」
言われて初めて気づいた。確かに震えていた。膝も少し笑っている。
カイが、何も言わずに私の手を取った。大きな手だった。剣を握る手が、驚くほど温かかった。
数秒で離した。でも、その温度が残った。指の感覚が、しばらくじんわりとしていた。
「あと三日だ」
「ええ。あと三日」
二人で歩き出した。隣り合って、同じ速さで。
その歩幅が揃っていることに、二人とも何も言わなかった。




