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偽りの聖女を断罪するのは私――前世の記憶を武器に王宮の闇を静かに暴く  作者: 渚月(なづき)


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第8話 裏切りの代償と差し出された手

残り二十日を切った日、最初の裏切りが起きた。


ナタリアが姿を消した。


朝の食堂にいない。昼もいない。侍女仲間に聞いても、「今日は非番だ」と言われるだけだった。表情が硬い。知っていて言えないのだろう。


しかし、ナタリアのシフトは把握している。今日は勤務日だ。彼女は几帳面な人間で、無断で休むことはない。


嫌な予感が走った。胃のあたりがきゅっと縮む。


カイに頼んで確認すると、ナタリアは昨夜、オルガに呼び出されていた。そして今朝、「実家の事情」で急遽休暇を取ったことになっている。


毒味役の侍女と同じだ。口封じ。


「ナタリアが危ない」


「居場所を探る。少し時間をくれ」


カイが動いた。騎士団の情報網を使い、その日のうちにナタリアの所在を突き止めた。王宮の敷地内、使われていない離れの一室に「静養」という名目で隔離されていた。窓のない部屋だという。


カイが離れに向かい、私は会計院で待った。


待つことしかできない時間は、何もしていないのに一番疲れる。帳簿を開いても文字が頭に入らない。指先が机を叩く。こつ、こつ、こつ。リズムが乱れている。


トーマスが紅茶を淹れてくれた。だが、飲む気になれなかった。


ナタリアの笑顔が浮かぶ。食堂で焼き菓子を分けてくれた日。掃除をしながら独り言のように情報を教えてくれた日。彼女は、この王宮で最初に笑顔を向けてくれた人だった。


窓の外を見る。中庭の木が風に揺れている。時間が、ひどく遅い。


一時間後、カイがナタリアを連れて戻ってきた。ナタリアの顔は青ざめていたが、怪我はなかった。髪が乱れ、目が腫れている。泣いたのだろう。服の袖口が汚れている。窓のない部屋の様子が目に浮かんだ。


「ごめんなさい、リーネ。捕まっちゃった」


「何があったの」


「オルガ様に呼ばれて、あなたに何を話したか全部聞かれたの。知らないって言ったけど、信じてもらえなくて。しばらく休めって言われて、あの部屋に入れられた」


ナタリアは唇を噛んだ。いつもの明るさが消えている。


「でもね、ひとつだけ見ちゃったの。オルガ様の部屋に連れて行かれたとき、机の上に赤い帳簿があった。開いてあって、数字が見えた」


赤い帳簿。裏帳簿。カイが元侍女から聞いたものと一致する。


「何が書いてあったか、覚えてる?」


「全部はわからない。でも、一頁だけ。上の行に『セレナ慈善基金』、その横に金額。下の行に『ヴィクトリア私的財庫』って書いてあった。金額は……すごく大きかった。金貨の数が四桁だったのは覚えてる」


息が止まった。


聖女の慈善事業の資金が、王妃の私的な財庫に流れている。これは横領だ。しかも国庫からの資金を、個人の財産に付け替えている。


「ナタリア。今の話を、証言してくれますか。いつか、正式な場で」


ナタリアは怯えた目をしていた。当然だ。王妃に逆らうことの意味を、彼女は身をもって知った。窓のない部屋に閉じ込められ、誰にも知られないまま消える恐怖を味わった。


だが、しばらくして、小さくうなずいた。


「……うん。だって、あの孤児院の子どもたちに届くはずのお金でしょ。あの子たちは何も悪いことしてない。黙ってられない」


ナタリアの手が震えていた。私はその手を握った。小さくて、冷たい手だった。


「ありがとう。必ず守るから」


トーマスがナタリアを会計院で匿うことを決めた。名目は「臨時の書記補佐」。会計院長の権限で、他部署からの干渉を一時的に遮断できる。小さな砦だが、今はこれが精一杯の防壁だ。



残り十五日。証拠はかなり揃ってきた。


一、公式帳簿と個別報告の差額データ。三年分の推移を表にまとめた。

二、配給現場での実数と報告書の不一致。私とカイの目視による確認記録。

三、フォーゲル伯爵の納入価格と市場価格の乖離。品目ごとの比較表。

四、街道管理局の通行記録から割り出した実際の輸送量。報告書との差異を算出。

五、辞めさせられた侍女の証言。カイの聞き取り記録。

六、ナタリアの証言(赤い帳簿の目撃)。


足りないのは、決定的な物証。赤い帳簿そのもの、あるいはそれに匹敵する公式文書だ。証言と状況証拠だけでは、王妃のような相手には通じない。否認されれば終わりだ。


そしてもうひとつ。これらの証拠を提出する先が必要だった。会計院は王妃の上奏で打ち切られる。通常の報告経路は塞がれている。


前世であれば、監査委員会に報告すればいい。だがこの世界には、そんな機関はない。権力の監視機構が存在しない。権力者を裁けるのは、より上位の権力者だけだ。


「殿下しかいない」


トーマスが言った。王太子アルベルト。国王に次ぐ権限を持ち、かつ王妃の実子でもある唯一の存在。


「殿下は動いてくれるでしょうか」


「わからない。だが、あの方は目を逸らす人ではない。逸らせなくなれば、動く。問題は、その覚悟を固める材料を渡せるかどうかだ」


あの視察の日、アルベルトは迷っていた。母を愛する息子と、国を憂う王太子の間で。しかし、事実を突きつけられたとき、この人は逃げないだろう。窓の外を見て長く黙り、そして短く答える。そういう人だ。


残り十日。報告書をまとめる時間を考えると、猶予はほとんどない。


その夜、帰り道でカイが立ち止まった。


「リーネ」


名前を呼ばれたのは、はじめてだった。これまでずっと「君」だった。その一言で、空気が変わった。


「何ですか」


「俺の外套、まだ持っているか。雨の日に貸したやつ」


「洗って返そうと思っていたのですが、まだ……」


「いい。持っていてくれ」


唐突な申し出に、意味を掴みかねた。


「外套が……要らないのですか?」


「要るから渡すんだ」


意味がわからなかった。いや、わかりたくなかっただけかもしれない。心臓が跳ねた。


カイは私のほうを見ず、回廊の先を見ていた。耳の先が赤い。


「寒い日が増える。会計院は冷える」


ただそれだけ言って、歩き出した。


私はその背中を見て、胸に手を当てた。心臓が、帳簿の数字を数えるときとは違う速さで動いていた。


(……ずるい人)


外套を抱きしめるように腕を組み、カイの後を追った。


その距離が、少しだけ近くなっていた。


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