第7話 聖女の仮面にひびが入る夜
転機は、王宮の夜会で訪れた。
秋の収穫祭に合わせた夜会。貴族と高官が集まる社交の場だ。本来、会計院の臨時補佐が招かれる場ではない。身分が違いすぎる。
だが、招待状が届いた。差出人は王太子アルベルト。
「殿下の意図は読めないが、行くべきだ」
トーマスの判断に従い、私は借り物のドレスで夜会に出た。ナタリアが朝から張り切って、髪を整えてくれた。普段は低い位置でひとつに結んでいるだけの栗色の髪を、少しだけ巻いて、肩に流してくれた。鏡の中の自分が少し別人に見えた。
「綺麗よ。騎士様が驚くわ」
「からかわないでください」
「からかってないわよ。事実を言ってるだけ」
ナタリアがにっと笑った。
会場の大広間は、蝋燭の灯りと花の香りで満ちていた。天井から吊るされたシャンデリアが何十本もの蝋燭を灯し、金色の光が広間全体を包んでいる。身分の高い人々の間を、私は壁沿いに歩いた。場違いだという自覚はある。だが、場違いだからこそ見えるものがある。
カイが護衛として隣にいた。騎士の正装は普段の制服と違い、黒い上着に銀の装飾が施されている。襟元の留め具が蝋燭の光を反射して、小さく光った。すれ違う女性たちの視線が、カイに集まっていた。
「注目されていますよ」
「慣れている。気にするな」
素っ気ないが、耳の先がわずかに赤い。気にしていないわけではないらしい。この人の感情は、いつも耳に出る。
夜会の主役は聖女セレナだった。金髪に白いドレス、胸元に聖印。壇上で祝福の祈りを捧げる姿は、確かに美しかった。蝋燭の光が金髪を透かし、まるで光をまとっているように見える。民が跪くのもわかる美しさだ。
だが近くで見ると、その目に疲労の色がある。笑顔は完璧だが、指先が微かに震えていた。聖印を掲げる手に、力が入りすぎている。
壇上から降りたセレナの近くに、オルガが寄り添った。何かを耳打ちしている。セレナの表情が一瞬、強張った。頬の筋肉がぴくりと動き、すぐに微笑みに戻る。
(……聖女は、檻の中にいる)
そう感じた。華やかな衣装と敬意に包まれた、美しい檻。王妃が作り、オルガが管理し、民の信仰が施錠する檻だ。
夜会の半ば、予想外のことが起きた。
セレナが、私のところに歩いてきたのだ。
「あなたが会計院のリーネさん?」
声は穏やかだったが、近くで見ると目の縁が赤い。泣いた跡だ。化粧で隠そうとしているが、この距離では見える。
「はい。お目にかかれて光栄です、聖女様」
「少しだけ、お話しできますか」
周囲の目がある。貴族たちの視線が、こちらに集まりかけている。会計院の補佐と聖女が言葉を交わすこと自体が、この場では異常事態だ。セレナもそれをわかっているはずだ。それでも近づいてきた。追い詰められた人間の行動だ。理性より先に、足が動いたのだろう。
オルガが広間の向こうからこちらを見ている。動き出すまで、時間がない。
「テラスの花が見事です。ご一緒にいかがですか」
テラスに出ると、夜風が冷たかった。秋の風だ。庭に植えられた薔薇が、夜露に濡れて光っている。カイが扉の内側で見張りに立ってくれた。
セレナは欄干に手をかけ、庭を見下ろした。白い手が、石の欄干を握っている。爪に力が入っていた。
「私、知っているの。慈善事業のお金が、ちゃんと届いていないこと」
直球だった。計算ではなく、追い詰められた人間の吐露だった。声が微かに震えている。
「オルガに聞いたの。配給の量が違うって。そしたら、知らなくていいことだと言われた。私の仕事は祈ることだと」
セレナの声が震えた。
「先月、孤児院を訪ねたとき、子どもたちが痩せていた。去年はもう少しふくよかだったはずなのに。あれを見て、おかしいと思ったの」
「それで、オルガに?」
「ええ。そうしたら、配給の管理はあなたの仕事ではないと。余計なことを聞くなと。あのオルガが、声を荒げたのよ。初めてだった」
セレナの目から、涙がこぼれそうになった。必死にこらえている。
「私は聖女よ。民のために祈り、民のために慈善を行う。でも、その慈善がまやかしだったら、私は何のためにいるの。私の祈りは、嘘の上に立っていたの?」
答えに窮した。この人は、共犯者ではなかった。利用されていた。そして今、その事実に気づいて壊れかけている。
「聖女様。あなたが知っていることを、いつか正式に話していただくときが来るかもしれません」
「王妃様に逆らうということ? 私は——」
セレナの目に恐怖が浮かんだ。全身が小さく震えている。
「今すぐではありません。準備が整うまで、今は何も変えないでください。ただ——」
私はセレナの手に、そっと自分の手を重ねた。冷たい手だった。震えが伝わってくる。
「あなたが見たものを、覚えていてください。それだけで十分です」
セレナの目から、涙が一筋こぼれた。すぐに拭い、微笑みを作った。完璧な聖女の微笑み。でも、その裏に人間がいることを、私はもう知っている。
テラスから戻ると、広間の空気が変わっていた。
王妃ヴィクトリアが、こちらを見ていた。微笑みを浮かべたまま。だが、その目には明確な怒りがあった。銀色の瞳が、蝋燭の光を受けて冷たく光っている。
セレナと話したことが、もう伝わっている。この広間には、王妃の目が至るところにある。
カイが小声で言った。
「まずいな。王妃が動く」
「わかっています」
覚悟の上だ。もう引き返せる段階ではない。
翌日、会計院に出勤すると、トーマスの顔色が悪かった。眼鏡の奥の目が疲れている。一晩眠れなかったのだろう。
「リーネ。悪い知らせだ」
「何があったのですか」
「会計院の臨時監査が、来月で打ち切りになる。王妃の上奏で、国王の承認が下りた。つまり、君の任期はあと三十日だ」
三十日。証拠の積み上げが終わる前に、会計院から追い出される。
王妃の手は速い。セレナとの接触で、本気で排除に動いたのだ。穏やかな警告の段階は終わった。
(……やはり、夜会で動いたのは早すぎたか)
いや、違う。セレナのほうから来たのだ。あの人は限界だった。いずれ誰かに話さなければ壊れていた。それが私でよかったのだと思うしかない。
問題は、ここからどうするかだ。三十日。前世の感覚で言えば、ひと月もない。だが、前世でも繁忙期は毎月のように来た。限られた時間で最大の結果を出す方法は、体が覚えている。
しかし、トーマスの目は諦めていなかった。
「三十日あれば、できることはある。そうだろう?」
「はい。十分です」
嘘だった。十分ではない。だが、足りないなら、足りるようにするだけだ。前世でも、期限が足りないプロジェクトは山ほどあった。そのたびに、優先順位を組み替え、最も効果的な順序で動いた。
帰り道、カイが黙って歩いていた。いつもの隣の距離。
「三十日で足りるのか」
「正直に言えば、厳しいです」
「なら手伝う。騎士団副長の権限で、いくつか動ける」
「いいのですか。王妃に逆らうことになりますよ」
カイが立ち止まった。私も立ち止まる。
「俺は騎士だ。民を守る。それがすべてだ」
夕暮れの回廊で、カイの横顔に橙色の光が差していた。その表情は、初めて会ったときの無表情とは違っていた。
静かだが、確かな覚悟がそこにあった。
(……この人となら、戦える)
そう思った瞬間、胸の奥で何かが動いた。恋という名前をつけるには早すぎたかもしれない。でも、確かに。
「カイ。ありがとう」
「礼はいい」
いつもの返事。でも今日は、少しだけ声が温かかった。




