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偽りの聖女を断罪するのは私――前世の記憶を武器に王宮の闇を静かに暴く  作者: 渚月(なづき)


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第6話 毒味役の沈黙と小さな証拠

異変は、翌週に起きた。


月曜の早朝、会計院に出勤すると、帳簿棚の配置が変わっていた。微かな違い。普段使っている三年分の支出台帳の一冊が、別の段に移されている。棚の埃の跡を見れば、最近動かされたことは明らかだ。


(……誰かが、夜のうちに入った)


私は帳簿を手に取り、重さを確かめた。ページの厚みに違和感はない。抜かれた形跡はなさそうだ。ただし、読まれた可能性は高い。


カイに目配せすると、彼も気づいていたらしい。小さくうなずいた。出勤したときから壁際に立ち、棚を確認していたのだろう。


帳簿を開いて確認する。中身は一見、変わっていない。だが、前世で鍛えた目が違和感を捉えた。


頁の端に、かすかな折り跡がある。私が挟んでおいた付箋の位置が、二頁ずれている。付箋の上下も逆だ。私は付箋を糊面が左に来るように挟む癖がある。今は右にある。


誰かが帳簿を確認した。私がどこまで調べているかを探りに来たのだ。


「トーマス様。今後、重要な資料は会計院の外に保管させてください」


「心当たりがあるのだね」


「帳簿が触られています。私の調査範囲を探られました」


トーマスは眉をひそめたが、驚いた様子はなかった。これまでにも同じことがあったのだろう。


「私の書庫の鍵を渡そう。東棟の地下にある。知っているのは私だけだ」


古い真鍮の鍵を受け取った。ずっしりと重い。以後は重要な記録の写しをそこに保管することにした。原本と写しを別々の場所に保管する。前世でも、これが基本だった。


その日の午後、思わぬ人物が会計院を訪ねてきた。


「失礼します。王太子アルベルト殿下より、会計院への視察の申し入れです」


侍従が告げた言葉に、トーマスと顔を見合わせた。


王太子が会計院を視察する。前例のないことだ。この地味な部署に、王位継承者が足を運ぶ理由がない。少なくとも、公式には。


翌日、アルベルトは一人で来た。護衛も侍従も連れず、飾り気のない服装で。


端正な顔立ちだが、目の下に薄い隈がある。どこか疲れた印象を与える青年だった。肩書の重さに見合わない、線の細さがある。それは弱さではなく、考えすぎる人間特有の消耗だった。


「座っていてくれ。形式的な視察ではない」


アルベルトは窓際に立ち、外を眺めた。中庭の噴水が見える。長い沈黙があった。風が窓の隙間を通り、かすかに音を立てた。


「……会計院が、聖女の慈善事業に疑念を持っていると聞いた」


単刀直入だった。誰から聞いたのか。王妃か、あるいは別の経路か。


トーマスが答えた。


「殿下。疑念ではなく、数字の不一致を確認しております。これは通常の監査業務の範囲内です」


「わかっている」


アルベルトが振り返った。その目は、迷いを含んでいた。知っていて見ないふりをしてきたことの重さが、その瞳の奥に沈んでいた。


「母上は……この王宮を守ろうとしている。そのやり方が正しいかどうかは、私にはまだ判断できない」


正直な人だと思った。同時に、この人はまだ動けないのだとも。母を敵に回す決断を下すには、まだ何かが足りない。


「殿下。私たちは事実を積み上げるだけです。判断なさるのは殿下です」


私の言葉に、アルベルトは少し目を見開いた。


「……君がリーネか。なるほど」


何を納得したのかはわからない。アルベルトはそれだけ言って、会計院を去った。去り際に一度だけ振り返り、棚に並ぶ帳簿の列を見渡した。何かを確かめるように。



アルベルトの訪問から三日後。事態は急転した。


聖女セレナの侍女が一人、突然辞職した。理由は「家庭の事情」とされていたが、ナタリアの情報では違った。


「あの侍女、聖女様の食事の毒味役だったの。辞めたんじゃなくて、辞めさせられたのよ」


ナタリアが昼食の席で声を潜めた。いつもの明るさが、少し翳っている。


「なぜ?」


「わからない。でも、辞める前の晩に、オルガ様の部屋に呼ばれていたわ。長いこと出てこなかったって、同僚の侍女が言ってた」


毒味役が排除された。不自然だ。毒味役は聖女の身の安全を守る重要な役職だ。それを突然辞めさせるには、相応の理由がある。


その翌日、聖女セレナが体調不良で公務を休んだ。三日続けて。


流れが見えてきた。セレナが何かを知っていて、口を開こうとしている。それを封じるために、周囲の人間を入れ替えている。信頼できる人間を遠ざけ、孤立させる。王妃の手口だ。


「カイ。聖女の侍女が辞めた件、騎士団には報告が来ていますか」


「来ている。だが、理由は『家庭の事情』とだけだ。騎士団は人事には介入しない」


「その侍女に話を聞くことはできますか」


カイが少し考えた。顎に手を当て、視線を壁に向けている。


「王宮を出た者に接触するのは、騎士団の管轄外だ。だが——」


カイは壁から背を離し、初めて私のほうを真っすぐ見た。黒い瞳に光が映っている。


「個人としてなら、できる」


その目に、決意が見えた。監視者から協力者へ。カイの中で何かが変わった瞬間だった。この人は、自分の意思で一線を越えようとしている。


思えば、最初に会ったときから、この人は他の騎士とは違っていた。命令に従いながらも、自分の目で見て、自分の頭で考える人間だった。壁際に立っていたのは、ただ監視するためではなく、何が起きているのかを理解しようとしていたのだと、今ならわかる。


「ありがとう、カイ」


「礼はいい。ただ、これは俺自身がやりたいことだ。騎士として、見て見ぬふりはしたくない」


声は静かだったが、揺るがなかった。


カイは翌日の非番を使って動いた。騎士の正装を脱ぎ、目立たない服に着替えて、元侍女の住む下町の宿を訪ねたという。


三日後、カイが報告を持ってきた。辞めた侍女から聞き取った内容を、簡潔にまとめたものだった。几帳面な字だ。騎士にしては珍しい。一つ一つの証言に、日時と状況が添えられている。聞き取りの基本を心得ている人間の記録だった。


侍女によれば、聖女セレナは最近になって慈善事業の実態に疑問を持ち始めていた。配給量と報告書の差異に気づき、オルガに問い詰めたらしい。孤児院を訪問したとき、子どもたちが思ったより痩せていたのがきっかけだという。その直後に、侍女の入れ替えが始まった。


さらに重要な情報があった。


「この侍女は、オルガの私室で見たものがあると言っていた。帳簿だ。公式のものとは別の、もう一冊の帳簿。表紙が赤い」


赤い帳簿。裏帳簿だ。


それがあれば、すべての不正の流れが一冊で証明できる。表の帳簿との差異を一目で示せる。しかし、オルガの私室から持ち出す手段がない。


「カイ。今の段階では、あの帳簿に手を出すべきではありません」


「わかっている。だが、いずれ必要になる」


「ええ。だから今は、他の証拠を固めます。あの帳簿に頼らなくても成立する状態を作ってから、最後の一手にします」


カイは小さくうなずいた。


「君のやり方は、回りくどいが堅実だ」


「会計士は地味が身上ですから」


ほんの少し、カイの口元が動いた。笑った、のかもしれない。この人の笑顔は、見逃すと気づかないほど微かだ。でも、確かにあった。


「前にも聞いたが、会計士というのは、前の世界の言葉か」


「……聞いていたんですか」


「壁際にいると、よく聞こえる」


少しだけ気まずかった。前世の記憶のことを、カイにどこまで話すべきか。迷ったが、この人になら話してもいいと思った。


「ええ。前の世界で、私はそういう仕事をしていました。帳簿を調べて、不正を見つける仕事です」


「この世界でも同じことをしている」


「そうですね。どうやら、二つの世界をまたいでも、やることは変わらないみたいです」


カイは小さくうなずいた。追及もしなければ、驚きもしない。ただ受け止めた。その淡白さが、不思議と心地よかった。


帰り道、カイが並んで歩いた。前でも後ろでもなく、隣に。


秋の夕暮れは早い。回廊に差し込む光が橙色に染まっていた。二人の影が、石畳の上に並んで伸びている。


その距離が縮まったことに、胸の奥が少しだけ温かくなったのは、きっと気のせいではない。


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