第5話 偽りの慈善と消えた寄付金
王妃の執務室は、正殿の最上階にあった。
白い大理石の回廊を歩きながら、呼吸を整える。吸って、吐いて。足音のリズムに合わせて。前世で大事な会議の前にやっていた、自分なりのルーティンだ。カイが半歩後ろについている。護衛として同行するのが、ここでは自然だった。
回廊の窓から差し込む光が、磨き上げられた床に反射している。ここは王宮の中でも特別な区画だ。壁の装飾も、敷かれた絨毯も、空気さえも違う。
扉を開けたのはオルガだった。痩せぎすの女性が帳簿を抱えたまま、値踏みするように私を見る。その目は帳簿の数字を読むときと同じだ。冷静に、正確に、価値を測っている。
「お待ちしていました。どうぞ」
執務室に入ると、窓際に王妃ヴィクトリアが立っていた。銀髪を高く結い上げ、深い紫のドレスを纏っている。振り返った顔には、穏やかな微笑み。完璧に整えられた表情だ。一切の隙がない。
「あなたがリーネね。噂は聞いているわ。とても優秀だと」
声はやわらかい。だが、目が笑っていなかった。唇は弧を描いているのに、瞳の奥は凍っている。この人は微笑みを武器にする人間だ。
「ありがとうございます、王妃殿下」
「座って。堅くならないで。ただの確認よ」
促されて椅子に座った。オルガが王妃の隣に控える。二対一。席の配置からして、こちらを萎縮させる作りだ。
「会計院での仕事には慣れた?」
「はい。帳簿の確認と転記が主な業務です」
「それは結構。ただ、ひとつ気になることがあってね」
王妃の微笑みが、わずかに深くなった。唇の端が、ほんの少し上がる。
「あなた、街道管理局に通行記録の閲覧申請を出したそうね。監査官補佐の権限内ではあるけれど、少し範囲が広すぎるのではないかしら」
来た。想定通り。この質問が来ることは読んでいた。
「申し訳ありません。帳簿の照合作業で、輸送量の整合性を確認する必要があり、通行記録が最も正確な外部資料と判断いたしました」
嘘ではない。ただ、目的は伏せている。表面上は業務の範囲内の話にとどめる。
「そう。勤勉なのね」
王妃はオルガに目配せした。視線だけで会話が成立している。長い主従関係がそうさせるのだろう。オルガが一歩前に出る。
「リーネ様。今後の業務範囲について確認させてください。会計院の臨時監査は、通常の歳入歳出に限定されます。聖女様の慈善事業は王妃殿下の直轄管理であり、監査対象には含まれません」
明確な牽制だった。壁を建てて、ここから先には入るなと告げている。
「承知しました。業務範囲内で対応いたします」
頭を下げた。ここで反論する意味はない。相手に手の内を見せるだけだ。従順に見せて、別の道を探す。
王妃が立ち上がった。
「期待しているわ、リーネ。この王宮には有能な人材が必要なの。くれぐれも、余計な苦労をしないようにね」
最後の一言は、忠告ではなく警告だった。声の温度が、最後だけ下がった。
◇
執務室を出て、回廊を歩く。カイが静かに隣を歩いていた。互いに無言のまま、しばらく歩いた。窓から差し込む光が、回廊の柱に影を作っている。
「王妃は、君を気に入ったように見えた」
「そうですか」
「同時に、警戒もしている。あの方は、有能な人間を取り込むか、排除するかの二択しかない。中間はない」
それは、なかなか的確な分析だった。長く仕えた人間ならではの観察だ。
「カイは王妃をよく知っているのですね」
「騎士団は王妃の管轄だ。長く仕えていれば、わかることもある」
カイの声に、かすかな苦さが混じった。気づかないふりをした。この人にも、王宮の中で飲み込んできたものがあるのだろう。
会計院に戻ると、トーマスが待っていた。紅茶は二杯分。一杯は私のために。湯気が立っているから、私が戻る時間を見計らって淹れてくれたのだ。
「どうだった」
「聖女の慈善事業には手を出すなと言われました」
「予想通りだな」
「ですが、別の方法があります」
トーマスの眉が上がった。紅茶を持つ手が止まる。
「王妃は聖女の慈善事業への監査を禁じました。しかし、フォーゲル伯爵の領地との取引記録は、通常の歳入歳出に含まれます。伯爵の領地から王宮への納入価格が市場価格と乖離していれば、それは聖女の事業とは無関係に、不正取引として指摘できます」
間接的に、同じ答えにたどり着く。表玄関が塞がれたなら、裏口から入ればいい。前世で何度も使った手法だ。監査対象を直接調べられないなら、周辺の取引から攻める。
トーマスは紅茶を一口飲み、眼鏡の奥で目を細めた。
「君は、思った以上にやるな」
「前の世界で、上司に鍛えられましたので」
言ってから、しまったと思った。が、トーマスは追及しなかった。
「面白い言い方をする子だ」
それだけ言って、紅茶を飲み干した。深くは聞かない。それがトーマスの優しさだった。
翌日から、フォーゲル伯爵の領地との取引記録を洗い始めた。小麦、干し肉、布地、木材。あらゆる品目の納入価格を、周辺の市場価格と比較する。市場価格は下町にいた頃の記憶と、街道沿いの商人ギルドが公表している相場表を照合して算出した。
結果は明白だった。
伯爵領からの納入価格は、市場平均の一・五倍から二倍。一部の品目は三倍近い。木材に至っては、近隣の領地からの納入価格の四倍だった。
しかも、その高値の納入分の大半が、聖女の慈善事業名目で処理されている。つまり、「慈善のため」という美名のもとに、伯爵に市場価格の倍以上の金が流れている。
寄付をして善人の顔をしながら、その何倍もの利益を王宮から吸い上げる。見事な仕組みだった。投資と回収のサイクルが完璧に組まれている。
そしてこの仕組みを知っているのは、王妃、オルガ、フォーゲル伯爵。そして——
「聖女セレナ様は、この構造をご存知なのでしょうか」
隣でナタリアが声を潜めた。昼食の席で、私がさりげなく尋ねたのだ。
「聖女様は……数字には関わらないの。祈りと訪問が仕事。でもね」
ナタリアの声がさらに小さくなった。ぱんを千切る手が止まっている。
「最近、聖女様がオルガ様とよく言い争っているのを見たわ。内容は聞こえなかったけど、聖女様が泣いていた。それも一度じゃない。ここ数週間で三度は見てる」
セレナは共犯者なのか、それとも利用されているだけなのか。それによって、この問題の性質が変わってくる。
今の段階では判断できない。だが、一つだけ確実なことがある。
王妃はすでに動いている。次の手を打ってくるのは、時間の問題だ。
その夜、会計院を出ると、廊下にフォーゲル伯爵がいた。恰幅のいい中年の男が、上等な服に身を包み、私を見た。金の刺繍が施されたベストに、磨き上げられた革靴。一目で金持ちとわかる出で立ちだ。
一瞬、目が合った。伯爵は私の胸元の通行証を見て、にこりと笑った。
「ああ、会計院の方ですか。ご苦労なことですね」
声は親しげだった。が、笑顔の奥にある計算が、一瞬で読み取れた。相手の肩書を確認してから態度を決める人間の目だ。通行証に書かれた「臨時補佐」の文字を見て、安心したのだろう。格下だと。
「ハインリヒ・フォーゲル伯爵とお見受けします。恐れ入ります」
「いやいや。王宮の会計を支えてくださる方々には、いつも感謝しておりますよ」
社交辞令を交わして、伯爵は去った。廊下に残ったのは、上等な香水の残り香だけだった。
カイが小声で言った。
「あの男が伯爵か。君のことを確かめに来たな」
「ええ。街道管理局への申請が、伯爵にも伝わったのでしょう」
包囲網が狭まっている。しかし同時に、相手が動けば動くほど、証拠は増える。焦りは相手のほうが大きいはずだ。
帰り道、カイが半歩前を歩いた。いつもは後ろなのに。
「前を歩いて、どうしたのですか」
「暗いからだ」
それだけ。けれど、その背中は少し安心する距離にあった。




