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偽りの聖女を断罪するのは私――前世の記憶を武器に王宮の闇を静かに暴く  作者: 渚月(なづき)


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第3話 聖女の裾に隠れた数字

王宮に来て十日。私はようやく、日常の流れを掴みはじめていた。


会計院の仕事は地味だ。各部署から届く伝票を確認し、台帳に転記し、月次の集計を行う。同僚は三人。全員がトーマスの部下で、私に対しては友好的でも敵対的でもなく、ただ静かに仕事をしている。挨拶は丁寧だが、それ以上の会話はない。王宮とはそういう場所なのだと、少しずつ理解し始めていた。


カイは毎朝、会計院の前に立っている。私が出勤すると無言でうなずき、退勤まで壁際にいる。昼食のときだけ、少し離れた席に座る。不思議なもので、最初は緊張していたその存在に、もう慣れ始めていた。


奇妙な日常だった。


ただ、のんびりしている余裕はない。公式帳簿と個別報告の差額——金貨三千枚の出処を突き止めるには、どの部署の数字が水増しされているかを特定しなければならない。


十日かけて、絞り込みができた。


差額の八割は、ある一つの項目に集中している。「聖女慈善事業運営費」。


聖女セレナが主導する孤児院への寄付、貧民街への食糧配給、地方への救済物資。名目はいずれも美しい。誰も異を唱えにくい、完璧な建前だ。しかし、配給の記録と支出の記録を突き合わせると、辻褄が合わない。


例えば、先月の貧民街への食糧配給。公式記録では小麦百袋が配られたとある。だが、下町で花を売っていた私は知っている。実際に届いたのは五十袋がいいところだった。配給の日、広場に並ぶ人々の列は長かったが、一人あたりの分量は少なく、不満の声が上がっていた。


残りの五十袋分の金は、どこへ消えたのか。


ここで前世の知識が役に立つ。架空取引を見抜くには、物の流れと金の流れの両方を追えばいい。片方だけなら偽装できるが、両方を完璧に合わせるのは難しい。必ずどこかに綻びが出る。前世の上司が口酸っぱく言っていた言葉だ。


私はトーマスに許可をもらい、物資の受領書の原本を閲覧した。


案の定、受領書の筆跡と、配給報告書の筆跡が違っていた。受領書は現場の担当者が書いたもので、インクの種類も紙質も報告書と異なる。受領書のインクは安価な鉄インクで、紙は薄手の再生紙。一方、報告書は上質な紙に、高級な青インクが使われている。


つまり、配給報告書は別の場所で、別の人間が書いている。現場ではなく、王宮の中で。


「トーマス様。この報告書の作成者を確認できますか」


「それは侍従長オルガの管轄だ。聖女の事業に関する書類は、すべてオルガを通して王妃のもとへ上がる」


やはりオルガ。王妃の右腕と呼ばれる侍従長。痩せぎすの女性で、常に帳簿か書類を抱えて王宮を歩いている姿を何度か見かけた。すれ違うとき、こちらを一瞥する目は冷たい。


(……直接聞きに行くわけにはいかない。まだ手札が足りない)


焦りを押し殺し、次の手を考える。前世で学んだのは、相手が強いときほど迂回することの大切さだった。正面突破は最後の手段だ。


その日の昼、食堂で隣に座ったのはナタリアという侍女だった。そばかすの多い丸顔で、よく笑う。座るなり、私の前に焼き菓子を一つ置いた。


「あなたが新しい会計院の人ね。みんな噂してるわ。下町から来たのに、ものすごく帳簿が読めるって」


「噂は早いですね」


「王宮ですもの。壁も床も天井も、全部耳がついてるのよ」


冗談めかして言っているが、半分は本気だろう。ナタリアの目は笑っているが、その奥には王宮で生き延びてきた人間特有の鋭さがあった。


ナタリアは声を落とした。


「ねえ、聖女様の慈善事業のこと、調べてるの?」


直球だった。身構えたが、ナタリアの目に悪意はない。むしろ、何かを伝えたそうにしている。唇の端が、言葉を探すように動いていた。


「どうしてそう思うのですか」


「だって、あなたの机の上に、配給報告書の束があったもの。掃除のときに見えたの。あの書類、普通は会計院に来ないのよ」


観察力のある人だ。同時に、掃除という名目で部屋の中を見ている人間がいるということでもある。ナタリア自身がそうなのか、あるいは別の誰かが見ているのを、ナタリアが知っているのか。


「少しだけ、教えてもらえますか。聖女様の慈善事業は、実際にはどのように運営されているのですか」


ナタリアは周囲をちらりと見て、ぱんを千切りながら答えた。千切り方が細かい。緊張しているのだと思った。


「聖女様は月に一度、貧民街を訪問して祈りを捧げるの。白いドレスを着て、聖印を掲げて。民は跪いて、感謝を述べる。配給はそのときに行われるけど、実務は全部オルガ様が仕切ってる。聖女様は……正直、数字のことはわからないと思う。祈りと微笑みが仕事よ」


「寄付金は?」


「フォーゲル伯爵が最大の後援者よ。他にも貴族が何人か。毎年、聖女感謝祭のときに寄付の額が発表されて、貴族たちは競うように金を出す。でもね——」


ナタリアの声がさらに小さくなった。周囲の席を気にしている。


「去年、孤児院の院長が寄付の額について問い合わせたら、翌月には別の人に替えられたの。理由は『運営方針の相違』。でもみんな知ってるわ。口を塞がれたのよ。前の院長は今、地方の小さな村で暮らしてるって聞いた」


背筋が冷たくなった。口封じ。養父と同じだ。不都合な人間を、もっともらしい理由で消していく。



会計院に戻ると、カイが壁際に立っていた。いつもと同じ場所、同じ姿勢。腕を組み、背を壁につけて。


ただ今日は、少しだけ雰囲気が違った。視線がこちらに向いている時間が、いつもより長い。


「食堂で、侍女と話していたな」


「はい」


「王宮では、誰が誰と話したか、すぐに伝わる。気をつけろ」


忠告だった。監視者の発言としては、不自然なほど親切な。この人は、本当に私を監視するためだけにここにいるのだろうか。


「あなたは、王妃殿下に報告するのですか。私が何を調べているか」


カイは少し間を置いた。窓の外を一瞬見てから、こちらに視線を戻した。


「俺の任務は、君の身辺警護だ。調査内容を報告する命令は受けていない」


微妙な言い回しだった。命令されていないからしない、という意味と、命令されればする、という意味の両方が含まれている。この人は嘘をつかない代わりに、言葉を選ぶ人間だ。


「ありがとうございます、カイ殿」


「殿はいらない」


それだけ言って、カイは視線を窓の外に向けた。


帳簿に戻る。金の流れは見えてきた。次に必要なのは、物の流れの証拠だ。


配給物資がどこで仕入れられ、どこに保管され、実際にいくつ届けられたのか。その現場を、自分の目で確かめなければならない。帳簿の上の数字だけでは、相手に言い逃れの余地を与えてしまう。


机の上に、ナタリアが置いていった焼き菓子がひとつ。その下に、小さなメモが挟まっていた。


「次の配給日は、来週の水曜。場所は南門広場」


私は焼き菓子を口に入れ、メモを帳簿のあいだに挟んだ。素朴な甘さが口に広がる。


来週、南門広場へ行く。そこで見たものが、仮説を証拠に変えるはずだ。


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