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偽りの聖女を断罪するのは私――前世の記憶を武器に王宮の闇を静かに暴く  作者: 渚月(なづき)


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第2話 王宮の帳面は三冊ある

王宮の門をくぐった瞬間、空気が変わった。


花の香りの代わりに、蝋燭と羊皮紙のにおいがする。背筋を伸ばし、渡された通行証を胸に、私は石畳の回廊を歩いた。


足音がやけに響く。下町の土の道とは違う、硬い石の反響。肩にかけた布鞄の中には、養父の残した帳面が一冊だけ入っている。お守りのようなものだ。


会計院は、王宮の東棟にある。華やかな正殿から離れた、日当たりの悪い一角だ。壁の装飾もなく、通路は狭い。権力の中心から意図的に遠ざけられた場所だと、一目でわかった。


「リーネだね」


扉の向こうで待っていたのは、丸眼鏡の老紳士だった。白髪を丁寧に撫でつけ、穏やかに微笑んでいる。会計院長トーマス。手紙の差出人その人だ。


「ようこそ。茶でも淹れよう」


案内された部屋は狭い。壁一面に帳簿が積まれ、棚には年代ごとにくすんだ背表紙が並んでいる。窓際の小さな机が私の席らしかった。机の脚は少しぐらつき、天板には前任者が残したインクの染みがある。


トーマスは紅茶を注ぎながら、静かに言った。


「君の養父、マルクスの帳面を見たことがある。あれほど正確な記録をつける花商人を、私は他に知らない」


手が止まった。養父の名を、ここで聞くとは思わなかった。紅茶の湯気が、視界をわずかにぼやけさせる。


「彼の横領は冤罪だと、私は考えている。だが証拠がない。いや、証拠は王宮のどこかにあるはずだ。ただ、私の立場では動けない」


トーマスの目が、丸眼鏡の奥で細くなった。そこには長い年月の重みがあった。知っていて動けなかった人間の、静かな悔恨が。


「だから君を呼んだ」


心臓が早鐘を打っている。けれど声は、不思議と落ち着いていた。前世で不正を見つけたとき、上司に報告するとき、いつもこうだった。緊張の先にある、妙な静けさ。


「何から始めればいいですか」


「まず、帳簿を読みなさい。過去三年分の支出記録がここにある。読めば、おかしな点に気づくだろう」


トーマスが棚から帳簿の束を下ろした。腕に抱えきれないほどの量だった。ずしりとした重さが、これから向き合う問題の大きさを物語っている。


「もう一つ。ここでの君の立場は、臨時の補佐に過ぎない。正式な監査官ではない。つまり、権限には限りがある。できることとできないことの線引きを、常に意識しなさい」


権限の制約。それは前世でも同じだった。外部監査には閲覧できない書類がある。内部告発にはリスクがある。だからこそ、手順を守り、証拠を積み上げる。


「一つだけ約束してくれるかね。何を見つけても、すぐには動くな。この王宮では拙速が命取りになる」


「わかりました」


「よろしい。では、始めなさい」


トーマスは自分の席に戻り、何事もなかったように自分の仕事を始めた。まるで今の会話がなかったかのように。この人は、長い年月をそうやって過ごしてきたのだろう。知りながら、待ちながら。



三日かけて、帳簿を読み込んだ。


睡眠は最低限にした。目が疲れれば窓の外の木の枝を眺め、また数字の列に戻る。前世の知識が、ここで活きる。複式簿記の概念はこの世界にはないが、入金と出金の対応関係を追えば、矛盾は見えてくる。


まず気づいたのは、帳簿が三系統あることだった。


一つ目は公式の歳入歳出記録。これは公開されているもので、数字は美しく整っている。美しすぎるほどに。前世でも、完璧すぎる帳簿ほど疑わしいものはなかった。


二つ目は各部署が提出する個別の支出報告。こちらは書式がばらばらで、担当者の筆跡も字の癖もそのまま残っている。インクの色も紙の質も統一されていない。生々しい現場の記録だ。


そして三つ目。聖女セレナの慈善事業に関する特別会計。これだけは会計院を通さず、王妃直轄の管理になっていた。閲覧には特別な許可が必要で、私の権限では手が届かない。


問題は、一つ目と二つ目の数字が合わないことだ。


個別報告を合算すると、公式記録より支出が少ない。つまり、公式記録のどこかに、実際には存在しない支出が紛れ込んでいる。


差額は、年間でおよそ金貨三千枚。少なくない額だ。下町であれば、百人以上の家族が一年暮らせる。


花を売っていた頃、金貨一枚がどれほどの重みを持つか知っている。花束十束分。パン百個分。子どもの靴、三足分。それが三千枚。途方もない額だ。


さらに気になるのは、養父の「横領」が発覚した時期と、この差額が急増した時期が重なっていることだった。五年前を境に、差額がほぼ倍に膨れ上がっている。それ以前にも差額はあったが、年間千五百枚程度で推移していた。養父が排除された年から、一気に三千枚に跳ね上がった。


(……誰かが、養父に罪を被せて、別の不正を隠した? しかも、隠すだけでなく、不正の規模を拡大した?)


仮説が浮かんだ。養父の排除は、不正の発覚を恐れたのではなく、不正を拡大するための布石だったのではないか。帳簿の辻褄が合わなくなったとき、「横領犯がいたから」という説明があれば、過去の差額もすべて養父のせいにできる。


仮説が浮かんだ。だが、まだ推測にすぎない。証拠が要る。


指先が、無意識に机を叩いていた。こつ、こつ、と小さなリズム。前世からの癖だ。数字に違和感を見つけると、必ずこうなる。


帳簿を閉じたとき、背後に気配を感じた。振り返ると、長身の黒髪の男が扉に寄りかかっていた。


騎士の制服。腰には剣。表情は読めない。影のように静かに立っている。


「騎士団副長、カイだ。今日から君の護衛につく」


護衛。いや、監視だろう。新参の監査官補佐に、騎士団の副長が護衛につくなど、明らかに不自然だ。格が合わない。これは親切ではなく、牽制だ。


「誰の命令ですか」


「王妃殿下」


やはり。王妃ヴィクトリアは、私の存在をもう知っている。会計院に新人が入っただけで動くということは、この場所がよほど敏感な場所だということだ。


カイは無言で部屋に入り、壁際に立った。腕を組み、背を壁につけている。こちらを見ているが、干渉するつもりはないらしい。


「好きにしてくれ。俺は邪魔をしない」


嘘か本当か、今はわからない。


ただ、その声に敵意はなかった。少なくとも表面上は。声は低いが穏やかで、命令口調ではない。騎士団の副長という肩書からは想像しにくい、落ち着いた口調だった。


私は帳簿に視線を戻した。まずは数字だ。人を信じるかどうかは、数字を確かめてからでいい。


机の端に、トーマスが置いていった紅茶がまだ温かかった。一口飲んで、次の帳簿を開いた。


金貨三千枚の行方を追う。それが、私の最初の仕事になる。


扉の外で、誰かの足音がした。来たときより少し急いだ、小さな靴音。聞き耳を立てるように立ち止まり、そしてすぐに去っていった。


(……この王宮では、壁にも耳がある)


カイが、ちらりとこちらを見た。気づいたらしい。だが何も言わない。


私も、何も言わなかった。


この場所で生き残るには、余計な言葉は要らない。数字と、沈黙。それが今の私の武器だ。


だが会計院の帳簿だけでは足りない。聖女の特別会計——あの三冊目の帳簿を見なければ、全容は掴めない。


問題は、それが王妃直轄であること。


つまり、王宮で最も手を出してはいけない場所に、答えがある。


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