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偽りの聖女を断罪するのは私――前世の記憶を武器に王宮の闇を静かに暴く  作者: 渚月(なづき)


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10/10

第10話 最後に数えたもの

上奏の日は、よく晴れていた。


雲一つない空が、王宮の尖塔の向こうに広がっている。深呼吸をすると、冷たい空気が肺を満たした。秋が深まっている。


王宮の大広間。国王、王太子、主要な貴族と高官が列席する場に、私は立っていた。借り物のドレスではなく、会計院の正装だ。地味な紺色の上衣に、胸元には監査官補佐の紋章。ナタリアが襟元を整えてくれた。


正面に国王。白髪の温和な老人で、表情はほとんど動かない。その隣にアルベルト。昨日とは別人のような、引き締まった顔をしている。決意を固めた人間の目だ。


そして——王妃ヴィクトリアは、最前列に座っていた。微笑みを浮かべて。完璧な銀髪、完璧な装い、完璧な微笑み。


最後の最後まで、この人は仮面を外さない。


「それでは、会計院臨時監査官補佐リーネより、報告を行います」


トーマスの声で、私は前に出た。


足が重い。だが止まらない。前世で何度も報告の壇上に立った。あのときと同じだ。感情を脇に置いて、事実だけを語る。


報告書を手に、一頁ずつ説明した。数字と事実だけを、淡々と。


公式帳簿と個別報告の差額。三年間の推移。金貨にして総額約一万枚の不一致。配給の実数と報告書の乖離。品目ごとの比較表。フォーゲル伯爵の不当な納入価格。市場価格との差を示すグラフ。街道管理局の通行記録が示す実際の輸送量。そして、証人の証言。


広間が静まり返った。咳一つ聞こえない。


私の声だけが、大理石の壁に反響している。


説明を終えたとき、最初に口を開いたのはフォーゲル伯爵だった。椅子から勢いよく立ち上がり、顔を赤くしている。


「これは会計院の越権行為だ。臨時補佐に過ぎない小娘の報告を、この場で取り上げるなど——」


「伯爵」


アルベルトの声が、静かに遮った。


「報告の内容に反論があるなら、数字で示してください。立場への攻撃は不要です」


伯爵が口を閉じた。数字では反論できない。そのことを、伯爵自身が一番よく知っている。


次に立ったのはオルガだった。声は冷静だが、帳簿を持つ手が微かに震えている。


「この報告には重大な誤りがあります。聖女慈善事業の会計は、通常の監査対象外です。したがって——」


「侍従長」


今度は私が答えた。


「報告書の中で、聖女慈善事業の内部会計には一切触れておりません。指摘しているのは、王宮の公式歳出記録と、フォーゲル伯爵領との通常取引における価格の異常です。これは通常の監査範囲内です」


オルガが言葉に詰まった。そう。私は最初から、聖女の事業そのものには手を出していない。公開された記録だけで、不正の構造を示したのだ。表玄関には入らず、裏口からたどり着いた。


沈黙の中、ヴィクトリアが立ち上がった。


広間の全員の目が、王妃に集まった。衣擦れの音さえ止んだ。


「リーネ。あなたの報告は見事だったわ」


意外な言葉だった。微笑みを浮かべている。だが、その微笑みの質が違う。余裕ではなく、覚悟の微笑みだ。


「でも一つ、あなたの報告書に欠けているものがある」


ヴィクトリアが微笑んだ。いつもの完璧な微笑み。


「この仕組みを作ったのは、私ではないの」


広間にざわめきが走った。


「三十年前、この慈善事業の会計構造を設計したのは、当時の会計院長よ。私はそれを引き継いだに過ぎない」


視線がトーマスに向いた。


トーマスの顔から血の気が引いた。


「三十年前……それは」


「ええ。あなたの前任者。そしてその前任者の指導を受けたのは、トーマス、あなた自身でしょう?」


ヴィクトリアの攻撃は、巧みだった。不正の責任を分散させ、自分だけの問題ではないと示す。同時にトーマスを共犯者に仕立て、報告の信頼性を揺るがす。


広間が混乱しかけた、そのとき。


「発言をお許しください」


静かな声が響いた。聖女セレナだった。


白いドレスで列席していたセレナが、立ち上がった。顔は青ざめていたが、目は真っすぐ前を向いていた。もう泣いていなかった。


「王妃殿下の仰ることは、半分は正しいです。この仕組みは昔からあった。でも——」


セレナの声が、一瞬震えた。だが、持ち直した。拳を握り、息を吸い、続けた。


「それを拡大し、私の名前を使って寄付金を集め、その大半を私的に流用したのは、ここ五年のことです。そして五年前、この仕組みの隠蔽のために罪を着せられた花商人がいます」


広間が凍りついた。


「私は、その証拠を持っています」


セレナがドレスの袖から、一冊の帳簿を取り出した。赤い表紙。


広間に息を飲む音が響いた。


「これはオルガ侍従長の私室にあった裏帳簿です。昨夜、私自身の手で持ち出しました」


オルガの顔が、真っ白になった。


セレナが帳簿を開いた。


「ここに、過去五年間のすべての記録があります。慈善基金からの流用額、王妃の私的財庫への送金記録、フォーゲル伯爵への利益供与の明細。すべて、オルガ侍従長の筆跡で記されています」


物証が揃った。


私の報告書が示した状況証拠と、セレナが持ち出した物証。二つが揃えば、否認は不可能だ。


セレナの目から涙がこぼれた。でも、声は止まらなかった。


「私は聖女として、民の前で祈りを捧げてきました。でもその祈りの裏で、民のお金が盗まれていた。それを知りながら黙っていたことを、ここで告白します」


聖女の仮面が、砕けた瞬間だった。


けれどその顔は、仮面の下にあったどの表情よりも、人間らしかった。


ヴィクトリアの微笑みが消えた。初めて見る、素の表情。怒りでも悲しみでもなく、ただの疲労だった。


アルベルトが立った。


「父上。事実の確認には時間を要しますが、王太子として一つだけ進言いたします」


国王を見据えた。もう窓の外は見ていない。


「聖女慈善事業の会計を、本日付で会計院の正式監査対象に加えること。そして監査の結果が出るまで、関係者の異動および処分を凍結すること」


国王は長い沈黙の後、うなずいた。


決まった。



大広間を出た後のことは、あまり覚えていない。


気がつくと、会計院の自分の机の前に座っていた。足が勝手にここに来たらしい。馴染んだ椅子のぐらつきが、妙に安心する。


カイが紅茶を持ってきてくれた。トーマスの淹れ方とは違う、少し渋い味だった。でも、温かい。


「飲め」


「……ありがとう」


手がまだ震えている。でも、さっきまでの怒りの震えとは違った。何かが終わった後の、脱力に似た震えだ。


トーマスが向かいに座っていた。眼鏡を外して、目頭を押さえている。


「リーネ。王妃の言ったことは事実だ。三十年前の仕組みを知っていて、私は黙っていた。動けなかったのではない。動かなかったのだ。その責任は取る」


「トーマス様。あなたが私を呼んでくれなければ、ここには立てませんでした」


「だからこそ、だよ。せめて最後に、正しいことをしたかった」


トーマスは眼鏡をかけ直した。レンズが濡れていた。


数日後、正式な監査の結果が出た。赤い帳簿の記録と、私の報告書の数字が完全に一致した。


王妃ヴィクトリアは全権を剥奪され、離宮での蟄居処分。フォーゲル伯爵は爵位の一部を返上し、不当利益の全額返還を命じられた。オルガは職を解かれた。


トーマスは自ら辞表を提出した。三十年の沈黙の代償として。去り際に、丸眼鏡を外して私に差し出した。


「これは……」


「形見だよ。次の会計院長に受け継ぎなさい」


「私が?」


「冗談だ。しかし、そう遠い話でもない」


トーマスは笑った。初めて見る、屈託のない笑顔だった。


聖女セレナは聖女の位を自ら返上し、孤児院の運営に専念すると宣言した。今度こそ、自分の手で。


「リーネさん。帳簿の読み方を教えていただけますか。もう、数字から逃げたくないの」


セレナの目は晴れていた。仮面を脱いだ顔は、思ったよりずっと幼くて、でも強かった。


そして私には、アルベルトから正式な辞令が届いた。王宮会計院、正監査官。臨時ではない。


養父の冤罪は公式に認定され、没収された財産の返還が決まった。


養父の墓に報告に行った。小さな墓石の前にしゃがみ、花を供えた。下町で売っていたのと同じ、白い小花だ。


「終わったよ」


声が震えた。泣いてもいいと思った。ここでは、誰も見ていない。


ひとしきり泣いた後、立ち上がった。目を拭い、空を見上げた。


全てが終わったわけではない。制度の改革はこれからだし、失われた時間は戻らない。養父は帰ってこない。


でも、養父の帳面に嘘がなかったことを、王宮の全員が知った。


それだけで十分だった。


夕方、会計院の窓から外を眺めていたら、カイが隣に立った。外套を羽織っていない。あの外套は、まだ私の椅子にかかっている。


「これからも、護衛は必要か」


「もう監視の必要はないのでは?」


「監視じゃない。最初から」


振り向くと、カイは窓の外を見ていた。耳の先が赤い。


「……最初から、ですか」


「最初からだ」


それ以上は言わなかった。私も聞かなかった。


ただ、窓辺に並んで立つ二人の影が、夕日で一つに重なっていた。


私はこの王宮で、たくさんの数字を数えた。差額、金貨の枚数、配給の袋数、通行記録、証拠の数。前世から数え続けてきた。数字が私の武器で、盾で、言葉だった。


でも最後に数えたのは、数字ではなかった。


信じてくれた人の数。隣にいてくれた人の温度。握られた手の記憶。養父の帳面の、真っ直ぐな数字。


花売り娘が最後に数えたのは、自分がもう一人ではないという、ただそれだけの確かさだった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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