6月 スギ先輩の映画館デート大作戦♡
六月。
梅雨で外の花粉は少ないはずなのに、僕はまだ安心できない。
ヨモギ先輩の言葉が刺さっているからだ。
——季節が去ったら終わり、なんて思うのは甘い。
順番に来る。
ずっと来る。
そんな僕を待っていたのはスギ先輩だった。
「チケット二枚もらったんだけど、一緒に行く相手いなくてさ」
そう言ってはにかむ先輩は、その笑顔だけ見ても到底『相手がいない人』だとは思えなかった。
少なくとも僕は、その笑顔に負けてここに来てしまったのだから。
◆◆◆◆◆
映画館の前。
雨上がりのアスファルトが街灯を反射して、そこだけ妙にきらきらして見える。
そのきらきらの中で、スギ先輩は傘を閉じながら僕を見つけ、にやりと笑った。
「ねえ症太郎くん。 室内だからって油断してない?」
スギ先輩は僕が室内に入ってマスクを外したことを注意してきた。
「えっ、外じゃないのに……?」
僕が震えると、先輩はその反応が面白いみたいに目を細める。
そして当然のように、僕の腕に自分の腕を絡めた。
――近い。
距離が近いだけで、僕の心臓は簡単にうるさくなる。
僕が弱いからだ。
「くすくすくすっ。 今にわかるよ♪ ほら、入ろ♡」
暗いロビー。
ポップコーンの甘い匂い。
チケットの半券を切る音。
普通ならデートだ。
デートに決まってる。
でも僕の頭の中は、花粉のこととバクバクと高鳴っている心臓のことでいっぱいだった。
席に座ると、スギ先輩は僕の春物コートの襟を指先でつん、と弾いた。
「これ、払ってないね」
「し、しまってたんで……」
普段は制服で、私服で外に出ることなんてないことを、悟られてしまったのだろうか。
それともスギ先輩は、服に付着している花粉でも見えているのだろうか?
「ほらココ♡ 春の残り香が、残ってる」
先輩はわざと甘い言い方をして、僕の耳に息を落とす。
「……かわいい♪」
そして先輩は、僕の手の上に自分の手を重ねた。
ただ置いただけなのに、指が触れ合いそうで、僕は息が止まる。
逃げたい。
けど、逃げたくない。
スクリーンが光り、先輩の横顔が青白く浮かぶ。
その輪郭が綺麗で、僕は見とれてしまう。
映画の内容より先に、先輩のまつ毛の影を覚えてしまいそうだった。
するとスギ先輩がこちらを向いた。
暗闇の中で、先輩の瞳だけが光る。
そして——唇が、ゆっくり近づいてくる。
映画の音に紛れる距離。
僕は受け身で弱いから、逃げたいのに動けない。
キスされる――と理解した瞬間、頭の中が真っ白になった。
……なのに、鼻の奥がむずむずした。
コートに残った微粒子が、暖房の風で舞ったのかもしれない。
僕は必死に堪えようとして、逆に失敗する。
「……へっ、くちょむちょん!」
自分でも何そのくしゃみ、と思う変な音が出た。
スギ先輩が一拍止まり、次の瞬間、肩を震わせて笑った。
「ぷっ……なにそれ。 かわいすぎ♡ ……今の、録音したい」
「ご、ごめんなさい……」
僕は真っ赤になって、顔を隠したくてティッシュを探す。
先輩は笑いながらティッシュを握らせ、さらに近づいてきた。
「ほら、ちゃんと拭いて。 私が見てるから」
「見ないでください……余計焦ります……」
「焦る顔もかわいいよ、症太郎くん」
見られると本当に焦って、鼻水が落ちそうになる。
僕は慌ててマスクをつける。
映画どころじゃなかった。
先輩は諦めたふりをしながら、僕のマスクの縁を指先でなぞった。
なぞる、というより、整える。
耳の紐をそっと直して、頬に沿わせて、隙間を塞ぐみたいに。
その指が、頬に触れるか触れないかの距離で止まる。
「……ねえ」
先輩の声が、さっきより低い。
ふざけてる時の声じゃない。
「今更マスクしても、もう遅い♡」
その言葉のあと、先輩は少し笑った。
先輩は僕の手を取り、今度は指先まできちんと重ねた。
そう、それは恋人繋ぎと呼ばれる――
「……んむっ!?」
僕の返事を待たずに、先輩はほんの少しだけ距離を詰め、僕のマスク越しにキスを落とした。
そのやわらかそうな感触は味わえず、ただの布越しなのに、熱い。
僕の全身が固まる。
「……今の、ずるくないですか……」
「くすくすくすっ♡」
先輩は笑って、また画面の方を向いた。
何事もなかったみたいに。
でも、僕の手は握られたまま。
指は離れない。
スクリーンの光がまた揺れて、雨の匂いが少し遠くなる。
僕は映画の内容をひとつも覚えていない。
覚えているのは、マスク越しのキスの熱だけだった。




