5月 和菓子屋看板娘ヨモギ先輩の雨宿り接待♡
雨が降ると花粉が落ちるから僕は安心する。
だから五月は勝った気になってしまう。
しかし、僕はいつものように負けていた。
◆◆◆◆◆
「はぁ……傘を忘れるなんて」
雨だから対策しなくていいと思っていた僕を背後から刺すように、雨は無常にも僕を濡らしていく。
「うふふ、そういうところが甘いわねぇ、症太郎くん♡」
「よ、ヨモギ先輩っ!?」
そこにいたのは、和服姿の、ヨモギ先輩だった。
和菓子屋の看板の下、薄い藤色の傘をくるくる回しながら、僕の顔を覗き込む。
「それに『もう花粉の季節は終わった』とでも、思ってるのかしら?」
僕は反射で目を逸らす。
見つめられると、花粉じゃない理由で息が詰まるから。
「で、でも……もう春は終わったんじゃ……」
と言いかけると、先輩は笑って首を振った。
「甘い甘い♡ スギの季節が去ったら、今度はヒノキの季節なんだから。 それが去ったら、夏のイネ科のカモガヤ。 順番に来るの♡」
僕は知らない単語に怯えた。
「い、イネ科って……夏にもあるんですか!?」
「あるわ。 ほら、今日は雨で表に出てないだけ」
先輩は僕の袖をつまんで店内へ導いた。
和菓子屋は木の匂いがして、雨音が心臓の音を増幅させる。
席に着くと、先輩はほうじ茶を置き、指先で僕の手首をそっと触った。
「冷えてる。 ほら、手出して」
僕が差し出すと、先輩は指を絡めるように握る。
握り方が優しすぎて、僕は抵抗できない。
「今更『今日は雨で花粉が少ないから平気』って思っても、もう遅いのよ♡」
落ち着いたその囁きが近い。
顔も近い。
「ふふっ、油断しているその顔、かわいい♡」
僕は緊張のせいなのか花粉のせいなのか、喉が渇いて「は、はい」としか言えなかった。
先輩は微笑んで僕の指を一本ずつ包むみたいに撫でる。
「来年は早く来られる? 今度は予防をして、私とちゃんと話して欲しいな♡」
僕は憧れの先輩と手を繋いだことにうなずくしかできずにいた。
和服姿が大和撫子のようで、一度訪れた客からは憧れを抱いてしまう。
僕も、そんな例に漏れずにいた。
ここで「好きです」なんて言えたら、きっと何かが変わる。
でも僕には、そんな勇気がなかった。
きっと、断られるのが分かり切っているから。
言葉を探した瞬間、入口で店員が傘を乾かす送風機を回した。
外気が吸い込まれ、僕の喉に見えない粒が刺さる。
「……あ……っ」
声が掠れた。
先輩はすぐ気づく。
「来ちゃった? ほら、無理しないの」
僕は返事を言葉で返したくて、無理に発声した。
すると喉が爆発した。
「ごほっ、ごほっ!」
せっかくの甘い雰囲気が、咳で粉々になる。
先輩は背中をさすりながら、耳元でさらに甘く言う。
「咳が止まるまで、ここにいていいわよ」
きっと営業スマイルなのだろうけれど、そんな優しそうな目で気を遣われると、興奮して咳が止まらなくなってしまいそうだ。
僕は涙目で謝る。
「ごめんなさい……せっかく……」
先輩は首を振る。
「謝らないで。 そうやって弱いところ、別に嫌いじゃないもの♡」
僕の胸が熱くなるのに、喉は冷えていく。
先輩はハンカチを当てて「ほら、落ち着いて。 呼吸、いっしょに」とゆっくり数を数える。
「すーーっ」
「さーん♡、にーい♡、いーち♡」
ヨモギ先輩のハンカチからはほんのりビターでメントールのような香りがして、なんだか落ち着くようだった。
「はーーっ」
「ぜろっ♡ ほら、止んだ♪」
僕は数えるたびに先輩の指の温度とそのいい香りを意識させられ、咳は落ち着いたが、心はドキドキしてしまった。
◆◆◆◆◆
ようやく咳が収まり和菓子屋から出ると、雨は止みかけていた。
先輩は立ち上がり、傘を差しながら言う。
「ほら、私が傘を持っているから、途中まで送るわ」
僕は「はい…」と小さく返す。
先輩は頬に息がかかる距離で囁いた。
「ほら、ちゃんと濡れないように、肩を寄せて、手を繋いで?」
「は……はっくち!」
僕は返事をしようとしたのに、鼻がむずっとして小さなくしゃみが漏れた。
「うふふっ♡」
先輩はくすっと笑う。
その優しさが、僕にだけ向いたらいいのに。
隣で傘を持って笑みを浮かべるヨモギ先輩の佇まいを、特等席でただ見ながら歩く帰り道。
先輩の手はずっと離れないままで、僕は雨の音のようにずっと鼓動が早くなるのを止められなかった。




