11月 スギ先輩の距離チカ寒さ対策♡
十一月。
雪が降り始める季節は花粉の気配が薄いぶん、僕は少しだけ安心してしまう。
——だから油断する。
花粉だけを警戒して、寒さを甘く見たのだ。
◆◆◆◆◆
その朝、僕はマフラーを忘れていた。
手袋はしているのに、首元だけが無防備で、冷たい空気がそこから容赦なく入り込む。
息を吸うたび喉が痛くて、僕は肩をすくめながら登校していた。
ふわり。
白いものが頬に触れた。
雪だ。
まだ粉みたいに軽くて、空気に溶けるみたいに落ちてくる。
僕は立ち止まって見上げてしまう。
綺麗だ、と思った瞬間、首筋に冷えが刺さって、思わず「さむぅ……」と声が震えながら漏れた。
「なにそれ。 症太郎くん、かわいすぎ♡」
背後から、春みたいに甘い声。
振り向く前から分かった。
スギ先輩だ。
先輩は制服の上にコートを羽織り、淡い色のマフラーをゆったり巻いていた。
雪の白の中で、彼女だけがあたたかい色を持っているみたいに見える。
先輩は僕の首元を見て、にやりと笑った。
「マフラーしてないの? 花粉だけ対策してて、寒さ対策してないなんて……甘い甘い♡」
「わ、忘れただけです……」
「ふふ。 言い訳も甘い♡」
そう言いながら、先輩は自分のマフラーの端をするりとほどいた。
その動きがやけに慣れていて、僕は一瞬で見とれてしまう。
柔らかい毛糸が揺れて、先輩の指先がそこを滑るたび、雪の冷たさとは違う熱が胸の奥に生まれた。
「ほら、こっち向いて!」
先輩が僕の前に回り込み、首元にマフラーを巻き直す。
距離が近い。
先輩の息が白くなって、僕の頬にかかりそうな距離。
指が喉のすぐ下を通るたび、僕は息を止めてしまう。
「……っ」
「息、止めないの。 ほら、余計に寒くなっちゃうよ?」
先輩は笑いながら巻き終えると、満足そうに僕の胸元をぽん、と整えた。
それだけで終わるはずだった。
終わるはずなのに。
先輩は、巻いたマフラーの内側を指でつまんで持ち上げた。
「……いただきっ♡」
「え?」
次の瞬間、スギ先輩は自分の頬を、僕のマフラーの中へ滑り込ませた。
——え。
えええっ!?
僕の頬に、先輩の頬が入ってきた。
布一枚越しじゃない。
布の内側で、温度が直接混ざり合う。
「ふたりだと、あったかいね♪」
先輩が、平然と言う。
雪空のした、ふたり。
まるで恋人みたいな距離で頬を重ね合わせ合う。
僕は何も言えない。
こういう突然の近さに耐性がない。
そして僕たちは、そのまま歩き出してしまった。
雪が落ちる道を、ふたりで、ひとつのマフラーの中に頬を寄せたまま。
傍から見たらどう見ても恋人同士だ。
というか、恋人でもここまで近いのは反則じゃないか。
頬が触れる。
じんわり生温かい。
耳元で布が擦れる音がして、そのすぐ隣で、先輩の呼吸が聞こえる。
僕の心臓が早くなる。
止めたいのに止まらない。
むしろ、先輩の温度が近いほど、鼓動が暴れる。
——だめだ、聞かれたくない。
でも、この距離で隠せるわけがなかった。
「……くすくすくすっ♡」
先輩が笑った。マフラーの中で。
頬が震える。
「ドキドキしてるんだ♡ かわいい♪」
聞かれてしまった。
その事実に、さらに動悸が早くなっていく。
「してないです……っ」
「してる。 だって、音がするんだもん♡」
先輩が肌を寄せて、わざと耳を頬にくっつけた。
さらに近く。
僕は限界まで赤くなる。
「や、やめてください……!」
「やだ。 だっておもしろいもん♪」
先輩はそう言って笑ったあと、急に——するりと、マフラーから離れた。
「あっ……」
温度が離れて、冷たい空気が一気に戻ってくる。
さっきまでの甘い密着が嘘みたいに、世界が寒い。
僕は思わず先輩を見た。
先輩は少し離れた場所で、雪の中、余裕たっぷりに微笑んでいる。
「今更ドキドキしたって、もう遅い♡――」
そう言いながら、先輩は僕の胸元のマフラーの端を摘まんだ。
房状になった飾り——フリンジの部分。
先輩はそれを、僕の口元に押し当てた。
「んむふっ……!?」
フサフサしているマフラーのフリンジ部分が唇に触れる。
くすぐったくて、でも柔らかくて、息が止まった。
そのまま何をするのかと思っていたら。
先輩が、近づいてくる。
ピンクでプリっとした柔らかそうな唇が、フリンジ越しに見える。
毛糸の房が揺れて、先輩の口元を隠したり見せたりする。
下手をすれば、布越しに唇同士が触れてしまう距離。
そして——
フリンジ越しに、先輩の唇が僕の口元へ重なった。
「んむっ!?」
僕の思考が止まる。
雪の音が、そして僕の意識が、遠のいてゆく――
「んふふっ♪」
隔たるのは、たった一枚のウール。
でもその向こうから、確かな熱が伝わってくる。
柔らかく押される感触。
布越しなのに、温度だけが直接触れるみたいで、僕の膝がふるえた。
「……っ」
声が出ない。
出したら崩れる。
僕は必死に息を止めるのに、鼓動だけが暴れて、体の内側で鳴り続ける。
やがてその一枚の隔たり越しに唇に熱が伝わってきた頃、先輩は、ゆっくりと唇を離した。
一抹の名残惜しさを覚えつつ、そのやわらかい感触は離れていく。
そして離れた瞬間に寒さが戻るはずなのに、僕の唇は熱くなっていた。
「くすくすくすっ。 ドキドキした?」
先輩が、悪い顔で聞いてくる。
僕は頷くしかない。
頷いたら負けなのに、こんなの、勝てるわけがない。
「……した、かも……」
「したんだ♡」
先輩はそう言って、フリンジを指先で揺らし、また僕の唇に軽く触れさせた。
くすぐったいことをしてごまかしているのか、それともただのお茶目なのか、僕は測りかねていた。
「くすくすくすっ♡」
雪が降る。
白い世界の中で、先輩の唇だけがやけに鮮やかで。
僕はまた心臓の音を聞かれてしまいそうで、ただ必死に息を整えた。
先輩は一歩だけ近づき、最後に耳元で囁いた。
「……続きは、またね♡ 症太郎くん♪」
それは、さっきの続きがいつか来るということなのだろうか?
主語がないその言葉が、今日いちばんズルかった。




