荒凪 後半
結果的に葦原中国に残れと言い渡されたのは、ツクヨミではなくスサノオだった。彼は目の前が真っ暗になる錯覚を起こした。何せ、葦原中国を任されると思っていたツクヨミでなく、自分が──自分だけがこの地上に残ることになったからだ。
それでは一柱残ったツクヨミはどこを任されたかというと、夜の世界──即ちアマテラスと同じく天を治めることになったのだ。
あぁ、そうかと彼は右の拳を強く握った。強く握りすぎて、指を伝って血がポタポタと滴り落ちる。すると瞬時に右手をどこからか発生した水が覆い被さり、それが消えるまでの数秒の間に右手の傷は癒えていた。
あぁ、そう。なるほど。そんなに姉二柱は出来が良かったか。この地に残すには惜しいほど、まだ未熟な人間を相手にさせるには惜しいほど。
しかしスサノオには、右手の傷が瞬時に癒えたことなど些事であった。そもそも、傷を負ったことなど気付いていないのかもしれない。
創られた時、目の前の男を見た瞬間にスサノオの内を渦巻いていた感情やその他の感情が、再びぐるぐると胸の内を回る。
私の様なおまけを創って姉の代わりにこの地に残すほどには、姉二柱は──こいつは、
そうしてスサノオは傍に立つ母そっくりな神を見た。
そんなに優秀か。私なんかよりも。急遽私を創って、こいつに天を治めさせようと思うほどに!
スサノオは創られた時、目の前の父に怒りを覚えながらも、なんだかんだ自分には誇りを持っていた。国を造り、一目見れば尊いものだと分かる神を二柱も創って、その上でイザナギは自分まで創ったから。きっと自分には大役が任せられるのだろうと、そう心のどこかで信じていた。
蓋を開けて見れば、ツクヨミが天を治めることのできる様にと創られた、その場凌ぎ後釜のようなものだった、と。スサノオはそう思った。
思い上がっていた自分が酷く恥ずかしく思えて、下を向いた。父がまだ浸かっている綺麗な流水と、そこに映る自分の姿が見える。吐き気がしそうだった。スサノオの姿は、イザナギと瓜二つだった。
何の因果かツクヨミが母と似た様に、スサノオも大嫌いな父と似ていた。
ツクヨミが天を治めることのできる様にと創られた、その場凌ぎ後釜のようなもの。所謂、出来損ない。
それが、この世に生まれて数分もしない間にスサノオが付けた自己評価だった。だが、その認識はイザナギと大きく食い違っている。
イザナギは、ツクヨミでは葦原中国で人間を任せられないと判断したからスサノオを創り出したのだ。何故肝心のスサノオがそれを判らず、あまつさえ自分を出来損ないも同然だと思っているのか。
前述した通り、彼らは創られて目を開くまでに『世界の在り方』と父であるイザナギが誕生してから、今この瞬間までの経験が頭の中に流れ込む。しかし、肝心のイザナギがその時々で何を思っていたのか、どう考えていたかまでは分からないのだ。
せいぜい分かることはと言えば、三柱が創られた時に込められた願いだけである。
“人間に共感できるように、神よりも人間らしく感情豊かに。
人間を愛せるように。
他人を思いやれるように。
守れるように、強くあれ。”
そのイザナギの願いが、スサノオの頭の中で反芻する。
気が付くと、姉達と父はもうその場にいなかった。
「薄情な奴ら。別れの言葉も掛けねぇとか。こんなでも、一応は家族なんだろ、私達は」
そう小さく呟いた言葉は、スサノオ以外の誰の耳に入ることもなく消えていった。
*
“人間に共感できるように、神よりも人間らしく感情豊かに”
「くそ面倒なモン創り込みやがって。おかげでさっきから気持ち悪くて仕方ねぇ」
“人間を愛せるように”
「だぁれが愛すかあんなへなちょこ共。むしろ嫌ってやる!」
“他人を思いやれるように”
「やだね。母上のこと考えてやれず、さも『自分は被害者です〜』みたいな顔してたやつがなに言ってやがる」
“守れるように、強くあれ”
「守るとかは面倒だからしないけど、強くはなってやる。あいつら全員見返せるくらい、強くなって……」
これらは人間で言うところの『反抗期』──さらに精神的な年齢を鑑みて分かりやすく言ってしまえば『イヤイヤ期』であった。
親から言われたことを嫌だ嫌だと言って突っぱね、反抗する。これは、人間と同じ感情量を与えられたスサノオだからこその、あまり嬉しくない特権である。
スサノオは一人になってから、ひたすらぶつぶつと呟きながらあちこちを歩き回っていた。
彷徨い始めた当初は、本当に、割と真面目に『人間はともかくとして、海だけならなんとか治めてやるかな〜』という心算でいたのだ。
しかし、父を思い出して怒りを浮かべれば海が荒れ、姉達を妬めば海が荒れ、母を想い憂いを帯びればこれまた海が荒れ、酷い時には嵐が起こる。
ゲンナリした。何とか波を鎮めようとしても上手くいかず、どうやらこの勝手に巻き起こる神術は己の感情と深く結びついているらしいと思い至っても、どう制御すればいいのかわからない。だから人間と同等の感情量を与えたイザナギに怒りや恨みを抱く。そして感情を抑えることができるほど、創られたばかりのスサノオの精神は、自分に与えられた感情量に振り回されているのもあって大人ではない。それ故に負のループから永遠に抜け出せない。
もうお手上げだった。これに加えスサノオの心をポッキリと負ってしまったのは、他にも何柱かは海を治める神がいるという事実と、『よく思い返せば、私別に人間のこと任されてなかったな。海のことだけしか言及されてない』という気づきだった。
こんなに上手くできずに悩んでいるのに、家族であるはずの父は様子すら見に来ず、姉二柱もスサノオの様子を気にかける事はない。
あ、もうなんかどうでもいいや。
スサノオは立ち止まったその海辺に留まることにした。海と反対側には木々があり、どうやらそのさらに奥には小さな村があるらしい。人の気配を幾らか感じ取って、舌打ちを一つしてその場にドカリと腰を下ろす。
こうしてこの海辺に留まるより以前と同じく感情に振り回され、神術を無意識のうちに発動し、疲れ切って海辺に横たわったスサノオは、もう数日動けずにいた。否、動く気力がなかったと言うのが正しいのかもしれない。
このまま少し寝てしまおうか、とスサノオは瞼を閉じた。
*
夢を見た。
夢の中には父がいて、母がいて、姉二柱がいる。あり得ないはずの光景が目の前にある。
父は言った。「流石は俺の子だ。お前にここを任せて正解だった」と。
母は嬉しそうに私を抱きしめる。
姉二柱も、よくやっていると言って頭を撫でてくれる。
あり得ないのだ。
何故って、現実では母はこの場にいてはおかしいし、私は父に言われた事を何も出来ていないのだから褒められる事はない。姉二柱も私を気にする様子なんてないのだから。
あり得ないのだが、私はこれが欲しかった。夢で見ているこの光景が、欲しかったのだ。だって仕方がない。
私はきっと憧れてしまったのだ。創られて、この世界の在り方を知った時に。父と母が互いに向ける穏やかな顔の記憶を見た時に。
夢の中の、暖かな家族という理想が、私はきっと欲しかった。
だから夢にまで見て、目が覚めると虚しくなって、また一層、何もかもがどうでもよく思えてしまうのだ。




