始まり
あぁ、駄目だ。
男神──イザナギノミコトは、目の前で自身の姿を映す瞳を見て悟った。その言葉が口からこぼれ落ちなかったのは、相手への父としての理性か、はたまた黄泉比良坂を走り回った末に、最愛の人と真に別れを告げた心身にくる疲れからか。恐らくは後者なのだろう。
イザナギは、目の前の神を創り出した当人であるが故に、彼女の本質を理解した。そうして悟った。
この子では人間を任せられない。
イザナギの胸の内を知ってか知らずか、先程創られたばかりの神──ツクヨミノミコトはじっと父を見遣る。
そんな二柱の状態を、ツクヨミよりも少し先に創り出された女神──アマテラスオオミカミが見守る。
彼女の陽の光は、イザナギの心境とは真逆の暖かさと心地よさをその場にもたらしていた。
*
イザナミノミコトを連れ戻そうと黄泉の国へ赴き、彼女の顔に泥を塗って怒らせた挙句、当初の目的である『イザナミを連れ帰る』ことに失敗した。
黄泉の国から逃げ帰ってきたイザナギは、死者の国を逃げ回った末に身体に付着した気のする穢れを洗い流そうと考えた。
杖を投げ、帯を払いとり、装飾品を半ばむしり取る様にし、服を投げ捨て。
そのようにして十二柱の神は産まれた。これはイザナギの意図しないことであった。
水をくぐると二柱の神が産まれた。これも意図しないものであった。
まだまだ、何をしても、逆にぼうっと突っ立っていても神は産まれた。全て意図しないことであった。
彼らは生まれながらにして成体であり、騒ぎ立てると何処かへ行ってしまった。イザナギはそれをぼんやりと眺めて、次に自分の身体を撫で付ける緩やかな水の流れを見る。
本当に疲れたのだ。イザナミと国を造った。イザナミと神を創った。──イザナミはいなくなったが、自分一人でも神を創り出せてしまった。
まるで、最初から彼女は要らなかったのだと言われたかの様な気がして、余計に気疲れしてしまった。
もう、国を任せるのは次の世代に任せてしまってもいいのかもしれない。
遠くの方で見える、先程創り出した神を見てイザナギはそう考えた。
「高天原の神々を統治する神。そしてこの地に残り、人間を統治する神。この二柱を最後に創って、終いにしよう。俺は隠居だ」
イザナギはこの二柱を、先の意図せず創り出した神々とは違って、はっきりと、強い意志を持って創ることにした。
まず初めに、流水を手に取って左目に当てがった。
黄泉の国のことは一切考えず、イザナミのことは一切合切忘れてしまって、ひたすらに願いを込める。
高天原にいる神々を導くに相応しい人格を。
厳しさを。
優しさを。
カリスマ性を。
そして、神々と人々を包む温かさを。
そうして創り出されたのが天照である。
イザナギは目の前で産まれた美しい女神を見て、満足げに一つ頷いた。
次に、この地に残り人間を導く神を創らねばならない。
先ほどと同じ様に流水を手に取り、それを右目に当てがった。
さて、どの様に願いを込めて創ろうか。
『──、───。』
ふと、イザナギの頭にノイズが走る。それに見ないふりをして、彼は水に浸した右目を見開く。
『この私─、恥を──せて!』
『あの──、追いかけ──』
完璧であれ!!!!
完璧であれ!!!!
完璧であれ!!!!
人間はまだ未熟だから、何もかもを教えてやれる程、手本になれる程に完璧であればいい!!!!
頭の中で反芻する声に対抗する様に、イザナギは脳内で叫び倒した。言葉の通り、これから創る神に願いを込めるというよりも、頭の中に響き渡る妻の声をかき消す為に。
だが、一度思い出せば連鎖するかのようにイザナミとの思い出が蘇っていく。
*
どうにも自分の身体のつくりに疑問を持っていたこと。
イザナミと二柱で国を造り、神を創ったこと。
最初のうちは、失敗もあったこと。
その度に、互いに慰め合ったものだ。
だが徐々に子が増えていき、いつの間にか人間も疎に生まれていた。
自分達が造りあげた国が、少しずつ賑やかになって本当に嬉しかった。
だというのに、たった一柱の神──ヒノカグツチを産み出したことで、彼女が死んでしまうとは思いもしなかった。
本当にイザナミを愛していたのだ。愛していたから、彼女との別れに心が酷く引き裂かれそうだった。黄泉の国まで迎えに行った結果、約束を守らず彼女を激昂させたのが心残りだった。
想像以上に、イザナギは心身ともに消耗した。
────。
『愛しい貴方。待っていてと言ったのに、どうして待っていてくれなかったの』
──あぁ。
今頭の中に響いているのは、黄泉比良坂と現世へ交わる道を、大きな岩で塞いだ後のイザナミの声だ。
『貴方にだけは、変わり果てた姿を見られたくなかったのに』
『……』
『何も言わないつもり?』
その声には、かつての慈愛に満ちた声などではなかった。ただただ、岩を隔てた向こうにいる男神が、憎くて憎くて仕方がないという声色だった。
『いいわ。こんな仕打ちを私にするのならば、貴方の国の民を一日に千人殺してやる!』
『……ならば俺は、一日に千五百の産屋を建ててやる』
イザナギの声に覇気はなかった。彼はその言葉を最後にその場を後にした。
*
伊弉諾の頭の中に伊奘冉の言葉が反芻する。その度に、彼女との思い出が脳裏をよぎる。楽しい思い出も、辛い思い出も全て。
最早、神を創っている最中なのだということさえ忘れていた。ただひたすらに、二柱で過ごした日々を思い出していた。それに一喜一憂して、余計に疲れていた。
「もし、」
喉の奥から声が漏れた。
「感情なんてものが俺になければ……、こんなにも苦しく思うことがなかったのだろうか……」
感情がなければ、イザナミを愛することもなかった。
感情がなければ、イザナミとの別れに心を病むこともなく、迎えにも行かなかった。
感情がなければ、黄泉の国まで迎えに行ったとて、イザナミに会いたいがあまり彼女の言いつけを破り、恥をかかせることもなかった。
感情がなければ、彼女との絶縁にここまで疲弊しなかった。
どれだけの時間、そう考えていたのか。
視線を前へ向けると、アマテラスに続く二柱目の神が完成していた。
「あ、」
待て、待て待て待て待て。
俺、こいつを創る時、何を考えながら創っていた!?
深く考えずとも分かる。イザナギは目の前の神を創った張本人なのだから、彼女の在り方がなんとなくでも分かってしまう。
ツクヨミは間違いなく完璧な存在だろう。性能的にも知能的にも、なんら申し分ない。
ただ一つ、致命的な点を挙げるのならば、感情という機関が備わっていない。
あぁ、駄目だ。この子では人間を任せられない。
ツクヨミの瞳は確かに目の前の男神を映してはいるが、その実なんら映っていないのと同然だった。その瞳を見て、イザナギはそう悟ったのだ。
人間は未熟だが、馬鹿ではない。ツクヨミがどれだけ無感情な面を繕おうとも、いずれ違和感には気付かれる。人間を愛せない神は、今の段階で人間を教え導く側となるのに早すぎる。
イザナギはほんの一瞬だけ顔を顰めた。
彼の頭を悩ませたのはそれだけではなかった。ツクヨミを創り出す時に、イザナミのことを考えすぎたせいだろうか。目の前で表情一つ動かさないツクヨミは、一目見た瞬間に「イザナミ」と声をかけそうになるほど彼女に似ていて美しかった。
しかしそうしなかったのは、単に目の前の神とイザナミでは、表情のつくりが全く異なるからである。
*
イザナギは切り替えて、本来創る予定の無かった三柱目の神を創り上げることにした。そっと身体にぶつかる流水を手に取る。
すぐそばでイザナミに似た子が自分を見ているのかと思うと、どうにも手が震えてしまった。
ツクヨミを創り出した時の反省を踏まえ、願いを込めていく。
人間に共感できるように、神よりも人間らしく感情豊かに。
人間を愛せるように。
他人を思いやれるように。
守れるように、強くあれ。
そうして創り出されたのが、イザナギの目の前に立つ男神──タケハヤスサノオノミコトである。
なんの因果か、今度は自分そっくりに産まれた男神を見て、イザナギは溜息をついた。
「アマテラス。お前は高天原を統治しろ」
「はい」
「スサノオ。お前はこの地に残り、蒼の海原を治めるのだ」
「……」
「ツクヨミ。お前は……、お前は夜之食国を──夜を支配する神となれ」
「承知しました」
イザナギは不器用な男であった。
アマテラスを創り出す際は大成功を収め、その油断からツクヨミを創り出す際に余計な邪念が混じってしまった。
そして一気に溢れ出た疲労から、スサノオの神としての器と人間に寄った感情の豊かさがどう作用するかに気がつくこともなかった。
ツクヨミの感情の欠陥とスサノオの人間らしい感情の豊かさ。
これが後に、大きな事件を引き起こすきっかけになるとも知れず、イザナギは一仕事終えた顔をしてその場を去っていった。




