第九十八話
風もないのにイオリのもさもさとした梢が揺れ動き、さざなみのようにざわめく。ひどい家鳴りにも似た音を響かせながら、無数の枝が人の腕のように動き出した。全ての枝の先端が私へと向けられていく。枝の先端に青白い光が浮かび、バチバチと爆ぜながらひとつの巨大な雷球を織り上げていく。
城を貫くほどの大樹であるイオリと、十歳ほどの子供の体に縮んだ私。それぞれの体に蓄えられる魔力の量はまったく違う。いくらバクは魔法に長けている種族といっても、こんな巨大なやつの放つ攻撃魔法として喰らえばひとたまりもない。
現にイオリが軽々放った雷撃ひとつで、私の手は簡単に黒焦げになってしまった。
右手の治癒が間に合わない。大量の夢を一気に取り出してイオリを黙らせる方法は無理だ。
イオリが織り上げる雷撃魔法のせいで静電気が発生して、髪がふわりと広がる。
だが、焦りはしない。
こちらには魔法を無効化できるバクのローブがある。魔法で封鎖されている場所にもそれを無効化して入り込めるバクの必需品は、対魔法用防具としても優秀だった。これさえあればイオリが放つ高威力の魔法も防げるし、異変に気づいたラッテが駆けつける前には身も隠せる。私は安全だ。たぶん。
そう思って隠れようとしていたのだが。
「エル!」
そんな声と共に、小さな影がフードを被ろうとした私の前に飛び出してきた。
イオリが巨大な雷球を放つ。
フードさえ被ってしまえば私は無事でいられるが、そんな私の前に飛び出してきて障壁魔法を示す白い光の膜を作り出しているのは、燐光を振りまく赤い髪をした少女。戦闘魔法云々の前にたまねぎの皮がどこまでかすら分かっていない未熟な料理番を務めている、世にも珍しいハーフセイレーンの娘クーアだった。
クーアがこの場で放出している魔力など、イオリに比べたら無に等しい。障壁魔法はその程度によって光の強さや見た目の厚みが変わるものだが、クーアが展開しているものはもう見るからに薄っぺらくて、ちょっとつついただけで貫通できそうだ。迫りくる巨大な雷球を受け止められるわけがない。障壁魔法の光ごとぺちっと潰されておしまいだ。
クーアの体を後ろから抱きかかえるようにして、彼女が前に伸ばしている手に私の手を重ね、真っ白な光の膜を展開しているその魔力に私の魔力を絡ませる。利き手の治癒が間に合っていないので使える魔法の威力は低いと自分でよく分かっていたが、クーアを見捨てて自分だけ助かるなどできなかった。
間一髪、厚みを増した障壁魔法が雷球を受け止める。しかし安心はできない。じりじり押し込まれている。このままでは二人揃って黒焦げだ。
「きみは戦闘魔法が使えないはずじゃなかったのか!」
「キールが風除けにって教えてくれたの!」
その使い方は思いつかなかった。たしかに強風でフードがめくれてしまったら命の危機が待っているクーアには、強風を防げるこの魔法がぴったりだ。だから極薄の障壁魔法とはいえ、使えるのか。
今までクーアが送ってくれた手紙には一切書かれていなかったが、もしかしたらとても弱い効果しか得られないから、恥ずかしくて書けなかったのかもしれない。威力はどうあれ新しい魔法を使えるようになったのは喜ばしいことなのだから、教えてくれてもよかったのに。
まあクーアがこの魔法を使えても、そこに私が加勢しても、戦況は変わらないのだが。
巨大な体に蓄えた魔力を惜しげもなく使ってきたイオリ。
対するは、子供の姿のクーアと私。しかも私は利き手を負傷している。
逃げるが勝ちというやつだ。
「クーア、私が合図したらその魔法を消してしゃがんでくれ」
「えっ? でもそれじゃあ」
「きみもこんなところで死にたくはないだろう? それ、今だ!」
合図とともに、私はバクのローブのフードを被った。マントのようにローブを勢いよく広げて、体を縮こまらせたクーアに覆い被さる。
バクのローブを貫通する魔法があるなんて話、聞いた覚えがない。もっとゆっくり思い返せばもしかしたら古い記憶の遺産が見つかるかもしれないが、少なくとも私はそう信じ、今まで暮らしてきた。
だからこのローブの中に隠れてしまえば、二人とも生き残れる。
ローブの中、二人で体をぎゅっと固くする。イオリの雷球が着弾したようで、地面が大きく震えた。轟く雷鳴が、耳の奥で残響となる。
ばたばたと石畳の上を駆けてくる足音が聞こえたのでフードを少し持ち上げて外を覗けば、ラッテがメイド服の裾を翻して大股で駆けてくる姿が見えた。彼女の主人であるイオリがこれだけ暴れたのだから、騒ぎに気づいて駆けつけてもおかしくない。
心配を満面に浮かべたラッテはイオリに駆け寄り、無事を確かめ――ると思いきや、イオリには目もくれずに先ほど見た大きな鍵を取り出し、ドアの向こうに消えていった。ドアの向こうが非常に気になるが、利き手の治癒が済んでいない今は分が悪い。
それよりクーアと逃げるなら、今のうちだ。
「クーア、ゆっくり立ち上がって。そう、私にぴったりつくんだ。絶対にローブから体を出さないでくれ」
そっとクーアに耳打ちして、二人でその場を離れる。さっさと走って逃げてしまいたいが、戻ってきたラッテに逃げる姿を見られても拙い。
クーアが私に従ってくれたおかげで、私たち二人は速やかに逃走を開始できた。大人用に仕立てたローブは、小さな私たちをしっかり隠してくれる。
使用人たちの部屋が近くなってくると、廊下に人だかりができていた。イオリが暴れた物音で、部屋から使用人たちが出てきたらしい。イオリが生えている庭をよく見ようと、廊下の手すりから体を乗り出している。
使用人たちの反応は単純作業をさせるような使い魔には見えない。私やクーアと同じで、魔法で子供の姿にされた者たちで間違いない気がした。
ちょうどいい。ここで皆に混ざってしまおう。ラッテがどうするのかも気になる。
脱いだバクのローブを丸めて抱え、クーアと人だかりに紛れ込む。
「おう、エルクラート。すっげえ音だったな」
私に声をかけてきたギヴンは騒ぎで興奮したようで、目がきらきらしていた。
「ギヴン、何事だ?」
「さあ」
ギヴンは嘘をつかないから、本当に知らないのだ。
人の中に隠れるようにしながら庭を見ていたら、ラッテが姿を現した。人だかりに気づいて、こちらに向かって声を張り上げてくる。
「皆、怪我はない? なんでもなかったから、部屋に戻って」
そんな声を聞きながらラッテのそばを見ていて、それを見つけてしまった。
イオリのそばの地面に、雷球が着弾したと思しき巨大な焦げ跡がついている。
軽くえぐれてぶすぶすと黒く細い煙を上げる焦げ跡の中に、ぽつんとひとつ点を打ったかのように綺麗な地面があった。
私とクーアが縮こまっていた場所だ。不自然なそれに、ラッテは気づくだろうか。
ラッテに声をかけられたことで、皆おとなしく部屋に戻り始めた。目立つ行動をしてラッテに注目されるのも嫌で、クーアと共に人の流れに乗る。
「クーア、もう少し一緒にいてくれ」
肩を並べて歩くクーアの手を、そっと握る。いつの間にか自分のフードを被り直した彼女は、私の方を見て小さく頷いてくれた。
自室に戻り、床に放ったままのひざかけを机に置いて、バクのローブをクローゼットにしまう。
「あたしの部屋より広いのね」
ベッドに腰かけたクーアは、珍しそうに室内をきょろきょろと見回していた。
「そのようだな。もっとも、広くとも本の一冊もないのだからただ暇なだけだが」
片付けを手早く終えて、クーアの隣に座る。
「クーア、今夜のきみは私に誘われて、夕食の片付けが終わった後はここで二人の時間を過ごしていた。そういうことにしてくれ」
「ラッテさん対策?」
「そうだ」
「どんな話してた設定にする?」
ついさっき肝を冷やしたというのに、クーアは無邪気にそんなことを言い出した。弾んだ声からは、強がっているなんて気配はこれっぽっちも感じられない。
「まずはあたしの旅の思い出よね。それから、あたしがいない間のあなたの暮らしぶり。それと、うーん、なんにしよう。エル、あたしに伝えたいことはない?」
「特段ないよ。きみと出会う前と同じで、穏やかな日常を過ごしていたからな」
ちょっと社会的に殺されかけたり、馬に喰われかけたり、海でキス魔に出会ったりしたが、それは別に話さなくてもいい気がする。むしろ一番最後は絶対に話せない。そういう話をうっかりした結果悲惨な結末に終わった者たちの悪夢を仕事でさんざん食べてきたから、よく知っている。
「ええー、じゃあ……愛の言葉、とか」
自分で言ったくせに、クーアは「きゃー」なんて甲高い声を上げて恥ずかしがりながら私の肩をひとつ叩いた。楽しそうでなによりだ。
更なる盛り上がりを見せようとしたクーアに水を差す音が響く。私の部屋のドアをノックする音だ。ドアを開ければ、若干顔に険しさが残ったままのラッテが立っている。
「エルクラート……と、クーアですか? なぜ二人で部屋に?」
「なぜもなにも、恋人同士が二人きりの時間を過ごしていけないというルールはあるまい? きみこそこんな時間に無粋だな」
相変わらず声変わり前の声なので、自分でも背伸びした子供のような発言に聞こえる。ラッテはというと、ちびっこ二人がいちゃついているという光景を微笑ましいとでも思ったのか半笑いだ。失礼な。こっちは体が小さくても本来は大人だぞ。
「先ほどの騒ぎで怪我でもしていないかと思いましたが、心配はいらなかったようですね。夜更かししないように気をつけて、よい夜を」
「きみもな」
半笑いを浮かべて肩をぷるぷる震わせているラッテは、他の使用人たちの様子も確認しにいくようだ。彼女の部屋とは反対方向へ歩いていった。
まさかイオリがあそこまで元気いっぱいだとは、考えもしなかった。おかげで騒ぎになって、新入りの私がラッテに睨まれている。
ベッドに戻ると、クーアが声をかけてきた。
「エル、これからどうするの?」
「ラッテが警戒している。ひとまず『いい子』にして、なんでもないふりをしてくれ。できたら明日、また書斎に茶を持ってきてくれると助かる」
「分かった」
この状況だというのに、フードから覗くクーアの口元は微笑んでいた。前々から思っていたが、度胸がある。心臓に悪いものが苦手な私としては呆れかけるほどに。




