第九十六話
手記を手に取り、隣に移動してきたクーアと肩を並べて最初のページに目を通す。
そこに書かれていた内容は、個人の日記だった。日記を書いて最後に暗号魔術をかけるのは、よくある話だ。
日記の日付は、今から八十年ほど前。それだけの時間が経過しているからには、今のイオリはよぼよぼの老人かもしれない。もしイオリが老人とすれば、寝たきりでラッテの手厚い介護を受けているとも考えられる。魔術師はあれもこれも魔法に頼るから、体が老いてくると運動不足がたたってわりと早めに寝たきりになる者が多い。ラッテがイオリはあまり話ができないと言っていたのも、イオリの痴呆が進んでいるからという可能性もありうる。
そんなイオリが記したものを一ページ読んだクーアの感想は、
「うわあ……」
という、ドン引きした声だった。正常な倫理観が備わった者なら、クーアと同じ感想を抱くと思う。私だってクーアと同じくらいドン引きしている。
日記の一ページ目に嬉々として書かれていたのは、イオリが意中のウンディーネを捕まえたという話だった。
水路だらけのこの城は、そのウンディーネと暮らす為に研究を重ねて完成させたそれは大きな魔道具だった。
そんなむちゃくちゃな。ウンディーネが人工物の中で暮らしていけるわけがない。
ウンディーネは外見こそ人型をしているが、それは本当に外皮だけだ。中身はほぼ水で満たされていて、水風船のような体の精霊である。人と同じ食事はできない。
「エル、ウンディーネってこの城があれば捕まえておけるの?」
「いや、無理だ」
クーアの疑問には、悩むことなく返事ができた。
「ウンディーネという精霊の食事は、自然の中に満ちる魔力だ。大自然の清流で生まれ、そこで水に浸ったまま暮らしている。そうしていると水が体内を循環するから、その水から魔力を摂取して生きているんだ。たしかにこの城の中心には大木が生えているし水路も巡らせているが、この程度でウンディーネが生きられるわけがない。あいつらは水しか口にしないが、摂取する魔力の量でいえば大食らいの部類だ」
「でもこのウンディーネが、ラッテさんの言うお姫様よね?」
「おそらくな。さすがにウンディーネをさらってきて閉じ込めるような場所に、他の者と暮らしはしないはずだ」
日記の内容を人に見られたがらないからには、ウンディーネを拉致監禁しているなんて他人に知られたくないはずだ。それでも歓喜の興奮は抑えられずに、習慣としていた日記に綴っていたと考えられる。
出だしからド変態のイオリの日記は、まだまだ続いている。
次ページから書かれていたのは、イオリが『リヴィー』と名づけたウンディーネの観察日記だった。
ウンディーネは個々の名前を持たないし、意思というものが希薄だからコミュニケーションらしいものも取れない。どんなにイオリがリヴィーを好いていたとしても、できることといえば観察くらいである。
だが一応それ以外にも、日記から判明したものはあった。
イオリの日記に書かれていることには、イオリがリヴィーと暮らしていた(と本人が書いている)頃、この城ではイオリの使い魔が使用人として働いていたそうだ。使い魔ならよほどおしゃべりな性格のものを作り出さないかぎり、主人の恥をよそで口外しないから安心して身の回りの世話を任せられる。
「この使用人って、ギヴンさんたちのことかな」
素朴な質問をするクーアの声は、もうイオリの日記にドン引きしている様子はなかった。
「あれだけの人数の使い魔を作るだけの根気がイオリにあれば、その可能性はある。使い魔の食事はそれを作った術者の魔力が一般的だが、自分で食事をして魔力を補うように作れば大勢作ったとしても術者の負担にはならないからな。まあ、食事で魔力を補うタイプはそれだけ体を細かく作る必要があるから、作るのは難しいが」
日記の解読作業をした感じだとイオリの魔法の能力は私より低そうではあるが、ラッテの話を信じるならこの城を造るような魔術師だ。複雑な使い魔の作り方を知っていてもおかしくはない。
作れるかどうかは、別だが。
それこそ料理みたいなものである。作り方を知ったところで、全ての料理を完璧に作れるわけではない。
「しかし、もしギヴンたちを作ったのがイオリとすれば疑問も残る」
私の言葉に、クーアが首を傾げた。
「ギヴンだけコボルトタイプで作った意味が分からん。ウンディーネ……リヴィーだったか、そいつの護衛をさせているのならまだしも、ギヴンの仕事は料理番だ。コボルトは特別手先が器用というわけでもないから、わざわざ料理番をさせる為に使い魔をコボルトタイプにする意味がないな」
「たしかに。……エル、他のページは? もっと読んでみましょうよ」
「まだ未解読だ。これを解読して自由の身になるのと、この魔術空間の脱出方法を知ってキールを連れて逃げるのと、どっちが先に……ん?」
日記の残りのページを適当にぱらぱらさせていたら、白紙のページに行き当たった。よくチェックしてみれば、記入されているページは全体の三分の一程度しかない。
「よかったなクーア。途中までしか書かれていないから、解読作業が早く終わりそうだぞ」
「やったあ! お茶のおかわりならいくらでも運ぶから、エル頑張って!」
「そのお茶はきみが淹れてくれるのか?」
「ううん、ギヴンさん。お茶が欲しいって言うと、淹れてくれるの」
クーアの料理番としての重要度は低そうだ。
ご機嫌のクーアが去った書斎で、ギヴンが淹れてくれたハーブティーをお供に最後のページの解読作業にとりかかる。内容を読んだせいで、日記帳の途中で終わっている理由がとても気になってしまった。
さすがにイオリが書くのに飽きたからという理由ではないと思うが、なぜこんな早いうちに日記が終わっているんだ。
クーアとも話したが、ラッテが『姫様』と呼ぶのはイオリが捕まえたウンディーネのリヴィーで間違いないはずだ。この城はリヴィーの為に立てたのだから、そう考えるのが自然である。
ウンディーネがかかる病気というと水質汚染が原因のものが真っ先に思い浮かぶが、リヴィーに関しては違うと分かる。
自然にどっぷり浸かって一日中魔力を摂取しなければならないリヴィーを、こんな人工物の中に閉じ込めたんだ。単純に食料となる魔力が足りず、体調を崩したのだ。生き物でいえば、飢餓状態に近い。
この最後にページにリヴィーを解放したと書かれていたら、私もすっきりした気分でここからの脱出に集中できるのだが。
日記の最後のページにかけられていた暗号魔術は、少しばかり強固だった。最後のページだから気合を入れてかけたのかもしれない。いよいよただ単にイオリが気分で書かなくなったという選択肢が消滅する。
イオリがかけた魔法は少々手強かったものの、それでも根本では昨日今日と私が相手にしてきたものと変わらなかったから、少々時間をとられはしたが無事に解けた。
なにが書かれているのかと多少興奮しながら見たそこに書かれていたのは、たった三行の文だ。
『リヴィー、私がきみのドリアードになろう。
私たちは永遠にひとつになるんだ。
愛しているよ、リヴィー』
軽い吐き気がした。
リヴィーが生きたまま元いた川に帰っていったという話も、死という形ではあるがイオリから解放されたという話も、そんなものは存在していなかった。
最後の最後まで、イオリは己の一方的な感情を満足させる為だけにリヴィーを犠牲にしたんだ。
それにしても、ドリアードになるとはどういうことだ。
まさか。
ラッテは、イオリとはあまり話ができないと言っていた。
もしもイオリの体が、私たちのような人型ではなく、樹木に宿る精霊ドリアードになっているのだとしたら。
城の中央を貫く大樹に抱き始めた嫌な想像を、ノックが遮断する。時計を見ればもう昼だった。
「食堂に姿がなかったので迎えに来ました。仕事熱心はけっこうですが、きちんと食事をしないと体が持ちませんよ」
入室してきたラッテが微笑む。食事のたびに呼びに来そうだと思っていたので、彼女が先に食堂へ向かっていたのは意外だ。
「ラッテ、ひとついいか」
「どうしました?」
「きみは、イオリがこの城を造った理由を知っているか?」
「ええ、もちろんです」
ほわほわとした甘く柔らかな声のラッテは、まるで主人の偉業を誇るかのように言葉を紡ぐ。
「姫様の病気を治す為。その為に、イオリ様はこの城を造られました」
ラッテの言葉は、イオリの日記に記されていた話とは少し違う。まるでそれは、リヴィーが飢餓状態になった後、イオリがこの魔術空間にこもろうと決めた頃から仕えているのだと語っているようだった。




