第九十三話
夜九時。約束したとおりの時間に、私はクーアの部屋のドアをノックした。ドアはスムーズに開かれ、クーアが中へと招き入れてくれる。部屋に入った私に、クーアは椅子を薦めてくれた。椅子は一脚しかないので、クーアはそばのベッドに腰かける。
そうか。きみは旅に出ている間に、人のもてなし方を覚えたのか。魔術空間に匿われながら無邪気に甘えてくるばかりだったクーアの成長に、軽く感動してしまう。
私がしみじみとしていたら、クーアが先に口を開いた。
「ところであなた、本当にエルなのよね?」
異性を部屋に通しておいて、なんと不用心な発言であろうか。私が偽物だったらどうするつもりだったんだ。
「疑うなら、きみが私の家で悪夢を食べて腹を下した日の話でもしようか?」
「見た目は可愛いのに、性格が最低。間違いなくエルね」
「きみも間違いなくクーアのようだな。変わらない口癖を聞いて安心したよ」
クーアが私の家にいた頃に起きた事件が、まさか私が私であるという証明になるとは。この先もクーア相手ならば、お互いを確認する為に使えるかもしれない。しっかり覚えておこう。
「昼間あなたに会えてよかったわ」
弾んだ声ではないものの、クーアが嬉しいことを言ってくれる。しかしその言葉の後に続いたのは、なんとも奇妙な話だった。
「あなたとはなるべく今夜のうちに話しておきたかったの。明日になれば、あたしはまた全てを忘れているかもしれないから」
「どういう意味だ?」
問えば、クーアがうつむいた。
「そのままの意味よ。ここに来てから、すごく忘れっぽくなってるの。どうしてここにいるのか、なんで旅をしていたのか、そういう簡単なこともひとつひとつ頑張って思い出さないといけなくなってる。あなたが言ってくれなかったら、あたしはキールのことすら思い出せなかったわ。……もちろん、あたしがボケてるわけじゃないわよ?」
「きみの料理番の腕前よりは疑っていないよ」
瞬間、クーアがこちらを見た。目元はフードで隠れていて分からないが、あの赤い輝きを灯した瞳で睨みつけているんだとすぐ分かる。
「失礼ね! あたしだってジャガイモの皮くらい剥けるようになったわよ! そりゃあ、その、タマネギはどこまで剥いたらいいのかまだよく分からないけど」
「大した料理番だ」
「うるさいわね。もういいでしょ料理番のことは」
「もういいもなにも、きみが勝手に話していただけだ。私はきみの料理番としての暮らしぶりについては、なにも訊いていないよ」
「ちょっとは気にしなさいよね!」
久しぶりに会っても、クーアはクーアだった。しょぼくれていたかと思えば、よく分からないポイントで急に怒り出す。私と話したかったと言っていたが、そんなに料理番としての生活について聞いてほしかったのか?
「とにかく!」
ベッドの布団をばふばふ叩きながら、クーアが大きな声を出す。そんなに羽ばたいたって飛べないのにどうした。
「あなたとは! 今夜のうちに話したかったの! なぜなら! あたしがまた忘れるかもしれないから!」
「その『忘れるかもしれない』とは、どういうわけだ。まずはそれについて教えてくれ」
「分かったわ」
やっとクーアが落ち着いてくれた。
「まあ、言葉のとおりなんだけどね。この城の人たちは、皆すごく忘れっぽいの。たいていのことなら、一日経てば忘れてるわ。忘れないのは自分や同僚の名前と、毎日の仕事くらいかしら。なんていうか、からくり人形みたい。同じ動きしかしないもの」
「ギヴンもか?」
「そうよ」
クーアの声には迷いがない。昼間混乱していた彼女とは大違いだ。
「ギヴンさんも、きっと明日になったらあなたが昼間した質問なんて忘れてると思う。だって毎日食事のメニューが同じなのよ? エル、今夜食べた食事を覚えてる?」
「チーズがたっぷりのシチューだ。大きめに切られた野菜が柔らかくて、美味かったな」
「そう思っていられるのも、今のうちよ。毎日食べるから、記憶がしっかりしていたらじきに飽きるわ」
そんなクーアの話を聞いて、私はひとつの疑問が浮かんだ。ギヴンは私にクッキーを見せてくれたとき、「昨日こっそり作っておいた」と言っていた。けれどもクーアの話を信じると、ギヴンはイレギュラーな行動には出ない。
では、あのクッキーはなぜ用意されていたんだ?
「クーア、ギヴンのクッキーも毎日作られているのか?」
「そうよ。毎日ラッテさんにばれないようにクッキーを焼いて、それを翌日にくれるの。それでもあのクッキーは食べ飽きない味だから、今のところ食べ続けていられるわね」
それは単にクーアがお菓子好きというだけのような気がする。いくらシチューに飽きているからといっても、食事もちゃんと食べないと健康を維持できないぞ。生きる為に必要なものは、まずは健康だ。
そんなことを考えていた私の目で、クーアの声が暗くなる。
「ギヴンさんもそんな感じなんだけど、なんか、忘れっぽくなってるのはあたしも同じみたい」
「どうやらそのようだな」
「……このまま全部忘れちゃったらどうしようって、今とても怖いの。あなたも、キールも、お父さんとお母さんも、皆を忘れて、ずーっとこの城で暮らすことになったらどうしようって」
膝の上にあったクーアの小さな両手が、ぎゅっと強く拳を握る。
「エル、怖い。大事なものが少しずつ消えていっちゃうみたいで、怖いよ。あたし、ちゃんと全部思い出せてるのかな。なにか忘れたままになってないかな」
クーアの悪夢の匂いが薄かったのは、それが原因か。
クーア自身がはっきり夢を見られなくなっているのなら、それに伴って匂いが薄くなって当然だ。彼女の両親に関する悪夢は魂を浸食するレベルの濃厚さだから普通に暮らしているぶんには消えやしないが、記憶があいまいになっているというのなら匂いが薄くなりもする。
このまま彼女の記憶が薄れていけば、夢喰いに頼らずともいつかはあの夢も見なくなる。
全て忘れてしまうからだ。
それは苦しみから解放されるという点だけでいえば、幸せだ。しかし大切な思い出まで失って幸せだと笑える者は、そういない。
クーアの隣に移動して、硬く握られて血の気を失っている手に私の手を重ねる。
「安心してくれ、クーア。私はきみを助ける為に来たんだ。きみの記憶の遺産は、私が守ろう」
そっと声をかければ、小さく震えていたクーアの手がゆっくりと開き、私の手を握り返してきた。
そんなクーアの手に、力がこもる。
私が本当にここにいるのだと確認するようなその行為に、記憶を取り戻した彼女がどれだけの不安を胸に夜を待っていたのかと切なくなった。
クーアは、キールのように私に助けを求める術を持たない。彼女のあの悪夢を私が辿ってくるのを待つ。それだけしかできないのだ。それはとても孤独で、恐ろしく、そして果てしない時間である。
旅に出したとはいえそんな時間の中にクーアを置き去りにしてしまったことが申し訳なくて、私は彼女を柔らかく抱きしめた。ぴくりと肩を震わせたクーアだったが、すぐに力の抜けた体で私によりかかってくれる。薄いシャツ越しに伝わってくる体温に、クーアという存在を感じた。
暫しくっついていたが、クーアが先に動く。
「エル、キールを探さないと。三人で逃げましょ」
私の腕に手を添えながら、クーアが呟く。どんなに不安で恐怖を抱えていようとも、クーアは仲間を思いやる強さを持っていた。そんな強さが、とても愛おしい。
「ラッテさんが厨房に持ち帰ってくるキールの食事はいつもちゃんと空になってるから、キールがこの城のどこかにいるのは間違いないわ」
「居場所の目星はついているか?」
「ううん、全然」
クーアの返事は清々しい。
それもそうか。目星がついているとしたら、そもそもクーアはキールの存在を忘れなどしなかった。行動力だけは溢れまくっているクーアのことだから、キールを助けようとあれこれやっていたはずだし、ちょっとしたことでも覚えていたはずである。
クーアの記憶力は、決して悪くない。それなのに日々の出来事や、深く刻まれているはずの大切な記憶が薄れていったのも、この城に施された細工だと考えられる。私たちを子供の姿にするくらいだ。他にもなにか仕掛けられていても不思議ではなかった。
しかしクーアの記憶に影響したのは忘却魔法とは違うはずだ。もし忘却魔法だとするのなら、こうやって思い出せる程度に記憶を残しておく理由が分からない。魔法を向ける対象の記憶を一発で綺麗さっぱり吹っ飛ばしてしまう方が、術者にとっても都合がよかろう。忘却魔術とはその為のものだ。
「キールの居場所はラッテさんの後をつけるのが確実だと思う。それをエルにお願いしたいの。あたしじゃまた忘れちゃうかもしれないから、ラッテさんが厨房にキールの食事を取りに来る時間を、あなたも覚えておいて」
私も元々そのつもりだったので、クーアに頼まれても困りはしない。こちらを見てくるクーアにしっかり頷いてみせる。クーアが教えてくれた厨房にラッテが来る時間を復唱すると、クーアはほっとしたように小さく息をついた。




