第九十二話
ギヴンと私の扱いの差に思わず不満を口にしかけたが、ぐっと我慢する。この程度でぎゃあぎゃあ騒ぐなんてみっともない。そんな気持ちは私にもある。
洗っていた大きな鍋を水で流し終えると、ギヴンは湯を沸かし始めた。
コボルトは身体能力が高い反面、魔法はあまり得意ではない。その生活スタイルは人間によく似ている。大昔は二足歩行の犬というのがしっくりくる姿だったが、人間に近い生活スタイルに合わせて進化した姿は、今では人間に犬の耳と尻尾が生えていると形容するのがちょうどいいものになっていた。魔法に頼る生活を選んで猫らしい姿に進化したケット・シーとは逆だ。
それでもコボルトご自慢の匂いに敏感なつやつやした犬鼻は顔の真ん中にきちんとあるから、犬っぽい生き物だったんだなあと感じられた。
ギヴンも現代的なコボルトの外見だ。私と同じ服装の彼には、さっぱり短く切られた髪と同じ茶色の垂れ耳と、ふさふさした尻尾が生えている。
なんて触り心地のよさそうな尻尾なんだ。もし仲良くなる機会があるなら、ぜひとも触らせて欲しい。
「中に入ってこいよ、エルクラート。いいもんがあるからさ」
「なんだ?」
彼が作った朝食は、ぺろりとたいらげてしまった。そうであるからには今更警戒する必要もないので、呼ばれるまま厨房に入る。
大きな棚の奥に手を突っ込んでいたギヴンが出してきたのは、
「ふっふっふ、ラッテさんには絶対内緒だぞ? 昨日こっそり作っておいたんだ」
皿にこんもりと盛られた、骨の形をした一口大のクッキーだった。コボルトは狩猟生活をしていた頃の名残か、骨の意匠を特に好む。
「これはいいものだな」
「だろう? 食おうぜ」
得意げな顔をするギヴン。彼のふさふさとした茶色の尻尾は、ぶんぶん揺れていた。
「ギヴンさんはね、こうやってこっそりお菓子を作ってくれるのよ」
私の隣に来たクーアが、弾んだ声で教えてくれる。
ははあ。さてはクーアのやつ、ギヴンの作る菓子につられて懐いたな。
それでも彼女の行動を咎める気は起きない。もしこの人付き合いの末にクーアが私ではなくギヴンと共に歩みたいと考えるようになっても、それは彼女が考え、自ら選んだ道だ。私が文句を言うものではない。
少しだけ、そうほんの少しだけ、寂しいなという思い出になるだけだ。
ギヴンが淹れてくれたハーブティーとお手製のクッキーで、ささやかなティータイムを過ごす。スツールはキッチンに二つしかないようで、ギヴンはそれを私とクーアに薦めてくれた。歩き回ってちょっと疲れていたので、ありがたく腰掛ける。
「まさかあなたもここに来るとはね」
一番最初にクッキーへと手を伸ばしながら、クーアが言う。
「なんだ、知り合いか?」
「そんなところよ」
ギヴンの問いに、クーアは言葉を濁した。私との関係をギヴンに隠しておきたいなにかがあるのか、それとも、もしかして、非常に彼女らしからぬ話ではるが、恥ずかしがっているのか。真相は分からない。しかしクーアが話したくないことをわざわざ口にする理由も必要もなかったから、追及はしなかった。
それよりも訊かねばならぬことがある。
「クーア、いつからここにいるんだ?」
「いつからって、えっと……」
私の問いに対するクーアの言葉は、非常に歯切れが悪かった。
「あれ、いつからだっけ」
「キールはどうした?」
「キール? キールって、え?」
クーアが頭を抱え出す。おいおい、しっかりしてくれ。
「キールと一緒だったんじゃないのか?」
「キールと? あ、うん。一緒だった、気がするけど……」
軽く混乱しているようなクーアに、それ以上なにか訊くのをやめる。どうも様子がおかしい。今のクーアからなにか訊き出そうとしても、彼女の更なる混乱を招くだけだ。
流れを変えようと、私はギヴンに話を振ってみた。
「ギヴンはこの城で働いて長いのか?」
質素な白いティーカップを手にギヴンへ問えば、彼も彼でうーんと唸りながら首を傾げた。
「どうなんだろうなあ」
「自分のことだろう?」
「そうなんだけどさ、いつからここにいるのかいまいち分からないんだよ」
骨型クッキーをぽいっと口に放り込み、更にギヴンが唸る。ややあって彼は口を開いてくれたが、やはりその答えはぱっとしなかった。
「うん、やっぱりよく分かんねえなあ。思い出せねえや。でも体が仕事を覚えて勝手に動くって感じだから、長いんじゃねえの?」
「ふむ。では大先輩だな」
「おうよ。分かんねんことがあったら、どんどん訊いてくれていいぜ。俺が知ってたら教えてやるよ」
ギヴンが笑う。元気いっぱいといったその微笑みから、彼はいいやつだと感じ取れる。間違いない。コボルトは嘘や裏表のある行動を嫌う素直な性格の種族だ。私に笑顔を向けてくれるギヴンからも、そんな雰囲気が溢れていた。
「だったら教えて欲しいのだが、この城の姫様というのはどういう人なんだ?」
ラッテが口にしていた城主のイオリについては、この際どうでもいい。城にいるようだが、手記を持っていたラッテとすらまともに話せぬような相手は、無視で構わないと思う。
「うーん、分かんねえ」
ギヴンは即答だった。それでも知っていることは少しでも教えてくれようとする気があるようで、香ばしい匂いのハーブティーを一口飲んでから、言葉を続けてくれる。
「姫様の食事は毎食ラッテさんが厨房まで取りに来るんだけどさ、ちょっと変わってるんだよな」
「というと?」
「水だけなんだよ」
「……水だけ?」
それは食事といえるのか。いや、もしかしたらなにか特別なものを『水』と呼んでいるのかもしれない。
「おう。まあるいガラスの器に汲んで、たっぷり陽の光もしくは月光に当てた水。それだけなんだ」
ギヴンが教えてくれた姫様の食事は、本当に水だけだった。
太陽や月が放出している魔力を水に宿す簡単な方法として、ギヴンがしているものは正しい。だがそれで水に宿る魔力は、ごく微量なものだ。
つまり姫様の食事は、ほぼほぼ単なる常温の水である。
そんなもので腹を膨らませて栄養を充分に摂取できる種族の話など、私の記憶の遺産には存在しなかった。
それにラッテの話によれば、姫様とやらは病気のはずだ。病人に与えるものが水だけなんて治るものも治らない。
というか、速やかに死ぬ。
「他に用意するものはないのか? たとえば薬とか」
「いいや、水だけだよ」
ギヴンの言葉はあっさりとしたものだった。姫様の為に用意する食事がそれだけということに、疑念すら抱いていない。
いよいよこの城と使用人たちに歪なものを感じ始めていた私の前で、ギヴンが「そういえば」と口を開いた。
「最近は普通の食事も一人前作るよ。でもそれは姫様の分じゃなく、姫様のそばに仕えてるやつが食う分って聞いたぜ」
おそらくそれはキールのことだ。キールがちゃんと食事を与えられていると知り、安堵する。もしもキールまで水しかもらえていないのだとしたら、今すぐ手荒な手段でラッテを問い詰めているところだった。子供の体相応の力しかない私でさえ、ラッテは魔力的に頼った。おそらく真正面から戦えばいい勝負くらいには持ち込める。
もっとも、なるべく穏便に済ませたいのでそういった事態は避けたいが。荒々しい方法は心身共にとても疲れるから、好きではないのだ。
「ギヴン、姫様の部屋を知らないか? 姫様のそばに仕えているのは、私の友人なんだ」
「残念だけど、俺は知らないな。二人の食事については、全部この厨房でラッテさんに渡すからさ。食べ終わった食器も、ラッテさんが回収してくるよ」
「そうか……」
掃除を担当している使用人ならなにか知っているかもしれないが、あまり色々な者に声をかけてラッテに訝しがられるのは動きにくくなる可能性があるので、避けたい。ラッテ自身が大して強くないのだとしても、なにかしら魔道具を使って私の行動を制限してくる場合だって考えられるのだから、私が目的を達成するまではなるべくラッテに『いい子』と思われていた方がいい。
あとでラッテの後をつけてみるか。
幸いバクのローブは手元にある。あれさえ羽織っていたら、ラッテに感づかれることもない。
私が仕事をサボっているとばれない範囲で、つけてみよう。
さすがにずっとぶらぶらしているわけにもいかないので、ティーカップが空になったタイミングで立ち上がる。ギヴンが用意してくれたハーブティーのおかわりは、書斎に持って帰ることにした。
「そうだクーア」
「……なあに?」
やけにおとなしいと思いきや、クーアの声は元気がない。もしかして私か彼女に投げた問いについて、ずっと悩んでいたのか?
「今夜きみの部屋に行ってもいいか? 久しぶりに会ったんだ。少し話がしたい」
「いいわよ。じゃあ、夜九時に部屋で待ってる」
力のない声ではあったが、クーアは私の申し出を断りはしなかった。自室の目印も教えてくれたので、渋々応じてくれたという雰囲気でもない。そんなクーアの態度にほっとしたことで、私は暫く会わないうちに彼女に飽きられてしまったのではという心配を無意識に抱え込んでいたと気づいた。
約束を交わして、書斎へと戻る。本当は紅茶がよかったなあと思いながら、ギヴンがブレンドしたというハーブティーをお供に適性のない仕事へととりかかった。
散歩はまあまあいい気分転換になったのか、ラッテが昼食だと呼びに来るまでに作業は二ページ進んだ。思っていたより簡単だ。この魔法を手記にかけた術者のイオリは、子供の私より少しばかり魔法の能力が低いようだ。これなら、慣れてきたらもう少し早く進められるかもしれない。
ここの城主である魔術師といっても、イオリは大したことはなさそうだ。そう思いつつ、私はイオリの手記を閉じた。




