第八十七話
店の窓を開ければ、秋晴れの外からはなんとも心地いい風が吹き込んできた。最近雨続きで気分が塞ぎがちだったのだが、軽やかな風につられて少しばかり浮つく。こんな日は庭のネムノキによりかかって昼寝をしたら、さぞ気持ちよかろう。
残念ながら、そうもいかないのだが。
我が家の立派なネムノキと共にこのイリュリアで暮らしていく為には、人間の役に立つ仕事をしなくてはならない。人里で暮らすからには、好き放題していられないのだ。
それでも私の店は朝から大忙しというような場所ではないので、いつものように読みかけの本をお供にロッキングチェアに腰を下ろす。こうしてのんびりしていればそのうち客の方から来てくれるのだから、ありがたい。
快晴をもう少し味わってから読書をしようと、もう一度窓の外に目をやる。
そんな私の前に、それはふわりふわりと姿を現した。
かなり大きな金色の羽根だ。そのへんを飛んでいる鳥が落とすようなものではない。
もっともっと大きな、そう、ハルピュイアの風切羽に似ている。
それが一枚、ふわりふわりと飛んでくる。
嫌な予感がした。
たまたま抜けたものが秋風に舞っている動きではない。明らかにこちらへと向かってくる。そんな不自然な動きをするもの、魔法がかけられていないわけがない。
窓に駆け寄った私が伸ばした手に、大きな金色の風切羽がふわりと乗る。どこをどう飛んできたのか羽根はあちこち焦げていて、ひどくぼろぼろだった。なにが起きたのかと見つめるそれから、久しぶりに聞く友人キールの声が聞こえてくる。
マーキングした場所にメッセージを届ける、ハルピュイア独自の魔法だ。ありったけの魔力を込められた大切な風切羽は、風に乗ってこうして飛んでくる。
キールは実家であるシンシアサーカス以外に、私のところにマーキングをしていた。
「エル、助け……場所は……」
ぼろぼろの羽根に、キールが込めた魔力はもうほとんど残っていないようだ。聞き取りにくいメッセージをせめてもう一度再生できないかと思ったが、限界を迎えた羽根はそのまま金色の光の粒となって儚く消えた。
どこにいるとか、どうして困っているのかとか、全く分からない。しかしキールがかなりのピンチであるという事実だけは、よく分かった。旅慣れたキールはたいていの問題ならば自力で解決できるので、こうやって助けを求めてくるのは非常に珍しい。
のんきに店を開けている場合ではない。
窓を閉めてカーテンを引き、入り口にも鍵をかけて家へと引っ込む。
まっすぐ寝室に向かうと、私はクローゼットから白と黒のツートンカラーのローブを取り出し、マントのように羽織った。ローブの留め具を胸元で留め、フードを被る。
これで私は、この世に存在する全ての闇と繋がっているバクの通り道を渡り歩ける。
私は代々受け継がれてきた記憶の遺産のおかげで様々な魔法は知っているものの、その中にどれだけ離れた場所にいるのかも分からないキールの居場所を特定できるようなものは存在しない。だから私がキールを探すには、バクだけが通れるこの道を通るしかなかった。
クローゼットの中に入ってドアを閉め、暗闇の中で嗅覚に意識を集中させる。キールがなにか夢を見ていてさえくれたら、どんなに離れていても私は彼のもとへ辿り着ける。子供の頃に何度もキールの夢を取り出させてもらったから、ハルピュイアの夢は良い夢も悪い夢もその匂いをしっかり覚えていた。
問題は、彼が眠っていてくれるかどうかだ。
生きとし生けるもの、眠っていればなにかしらの夢を見る。しかし今は午前中。店を開けて間もなかったから、時刻は十時をちょっとだけ過ぎたあたりである。はたしてこの時間にキールは眠っているだろうか。
いや、探し出さなければならない。
キールは他の誰でもない、私に助けを求めたのだ。
彼にはクーアの件で世話になっているが、それを抜きにしても私の大切な友人だ。絶対に見捨てるわけにはいかない。
ミントに似たハルピュイアの夢の匂いを探してみると、意外と空間に漂っていた。活発な種族だから皆忙しくしているのだろうと思ったが、昼寝をしているハルピュイアはそれなりにいるらしい。
それにしても、予想していなかった数の多さだ。あちこちでミントの匂いがしていて、キールの夢だと断定できない。
それもそうか。ハルピュイアは珍しい種族ではないから、このイリュリアにも――いや、国内のあちこちで大勢暮らしている。キールの危機だからと焦り過ぎて、そんな当たり前のことを失念していた。
じゃあ、ハルピュイアの悪夢ならどうだ。彼らはとても陽気な種族だから、滅多に悪夢を見ない。しかし助けを求めてくるような状況のキールなら、悪夢を見ている確率は高そうだ。
ハルピュイアの悪夢が放つ草むらのような青っぽい匂いを探して、深呼吸をする。
あった。
あったが、これもいくつか漂っている。当然だ。いくらほとんど悪夢を見ない性格の種族とはいっても、見るものは見る。
闇の中に漂うハルピュイアの悪夢の出処をひとつひとつ確認していくのは、かなりの手間だ。なによりこの時間では、私がこの通り道を渡り歩く為に必要な暗闇になる場所が少ない。いちいち帰還魔法でこの寝室に帰ってきていたら、そのうち魔力が尽きる。そうなれば、キールを見つけたとしてもなにもできない。
身体能力や頭脳に自信があるわけでもない私は、魔力が尽きてしまえばなんの役にも立たないのだから。
ならばクーアの夢を探すのはどうか。キールと共に旅をしていたのだから、彼女もなにかしらの危機に陥っているとは充分考えられる。ハーフセイレーンの悪夢という希少夢はそうそうあるものではないから、もし匂いが見つかればそれを辿って二人のもとへ向かえる。
チーズのようなとろみのある匂い。
ベーコンのようなずっしりとした匂い。
マスカットのような瑞々しい匂い。
様々な匂いがこの闇の中で入り乱れているのに、探し求めるものがどうしても見つからない。
何度もクローゼットの中で深く息をして匂いを探したものの、お目当ての獲物は見つけられず、私は仕方なくクローゼットを出た。焦りが募るばかりだが、見つからないものはどうしようもない。
他にできることがあるとすればただひとつ。
クーアが悪夢を見るまで待つ。
それだけだ。
気が気ではないが、なにもしていないと余計に落ち着かない。店を再度開けて普段どおり仕事をしながら、夜を待った。
クーアの悪夢は根深く、特別濃厚だ。しかし彼女はこの悪夢と共存する道を選んだ。ならば、眠りさえすればそのうち悪夢を見る。
あまり食欲のない胃袋に客から取り出した悪夢を少しばかり入れたり、読みかけの本に手をつけては何度も時計をチェックし、ついに時刻は夜十時となった。夜が早い場所にいるのならば、もう寝ているかもしれない。
我ながらそわそわと落ち着きのない動作で白と黒のツートンカラーで構成されているバクのローブを装備して、クローゼットに入った。昼間に入ったときよりももう少しだけ闇が深くなったそこで、注意深くクーアの悪夢の匂いを探す。
雑多な匂いたちの奥深くに、その匂いはあった。
果実のようでもあり、花のようでもある、かき消されてしまいそうな淡く儚い匂い。
間違いない。クーアのものだ。だが、私が記憶しているものよりも更に香りが薄い。あれほど魂を浸食していた悪夢だ。なにも手を打たずに日常を過ごしていて、忘れられるわけがないのだが。
なにが起きているか心配で仕方ないが、とにかく今は匂いがしているうちにクーアのもとへ辿り着かなければ。
うっすらとした匂いを頼りに一歩踏み出す。バクの通り道に、踏みしめられる道はない。獲物である夢の匂いだけが、私に示された道であり行く先だ。
イリュリアを脱出して旅に出たクーアがこの町にいるわけがない。私の歩く距離も、自然と長くなる。それでも実際の距離と比べると、この闇で歩く距離は格段に短くて済む。おかげで息が上がってしまう前に、私は闇を抜けられた。
到着したのは、古い石造りの部屋だった。
うん、部屋『だった』。
廃墟というやつである。荒れ果てた部屋の壁は崩れ落ち、隙間から夜空を統べる月が顔を覗かせている。地中に張り巡らされた植物の根に押されてでこぼこに盛り上がった石畳の間からは、雑草がたくましく生えていた。
クーアに視認してもらえるようにとローブのフードを脱いで、周囲を見回す。
「クーア? クーア、どこにいる。私だ、エルだ」
もしかしたらどこかの物陰で倒れているかもしれない。照明魔術の光球を手に、朽ちた家具の陰も丁寧に覗いた。物探しの魔法も範囲をめいっぱい広げて使い、あの小さな姿を探す。
どこだクーア。どこにいる。
声がはっきりと聞こえたのは、そんなときだった。
「どなたですか?」
聞き覚えのない女の声だ。ふんわりと柔らかな音で、耳に心地いい。
「名を名乗りなさい」
ふわふわとした音に似合わず、声の主はきっぱりと言い放った。
夜中の廃墟に女がいるというのも奇妙な話だが、旅人かもしれない。たまたま私を見つけたのが彼女で、近くに彼女のパーティがあるのだろう。私はそう考えた。
それに彼女が野盗の類であれば、私の名前など訊かずひと思いに襲っていると思う。
バクのローブの効果で頭しか見えていない私の姿に恐怖を抱かなければ、だが。
物探しの魔法が示す彼女と思しき者の位置は、半壊している壁の向こう側だ。彼女に動く気配もなければ、私を襲う意思もなさそうだったので、私はここに来た目的を素直に話すことにした。別に知られて困るものでもない。
「私の名前はエルクラートだ。友人を探している」
答えた直後。
目眩かと思うような軽い浮遊感があった。視界がぐにゃりと歪む。
そのまま私を包む世界ごとくしゃくしゃと丸められるような感覚に、私は飲み込まれていった。




