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エルクラートさんちの夢喰日記  作者: Akira Clementi
第十二章 日常

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第八十六話

「ああこら、だめだ。きみの体には毒だよ」


 夕食を食べに来た金の小鹿亭のカウンターで、ふくよかな老猫をぐいっと押しとどめる。マルセルがつまみにと出してくれた豆アジのエスカベッシュに反応して寄ってきたのだ。

 普通なら猫が嫌いそうなビネガーの香りが漂っているのだが、この老猫にとっては些細な問題らしい。そこに魚があると理解して、私の手をどうにかしてかいくぐって食べようと体をぐねんぐねんさせて抵抗する。


 だが私とて根負けして食べさせるわけにはいかない。マルセルが作ったこのエスカベッシュには、レモンが絞られている。猫にとっては毒なのだから、甘やかして一口なんてやるわけにはいかないのだ。


「ウウウ……」


 珍しく老猫が唸る。


「そう言うな。意地悪でやらんわけではない。きみを思えばこそだ」


 言ったところで老猫に私の気持ちなど理解してもらえるわけもないのだが、つい人を相手にしているときのように言葉にしてしまう。


 ゆっくり食べたかったのだが、仕方ない。

 老猫の為に心を鬼にして、豆アジだけさっさと食べてしまう。


 ああ……野菜だけになってしまった……。野菜も美味しくないわけではないが、メインの豆アジがなくなってしまった悲しみは野菜ではごまかしきれない。


 目の前で獲物を喰らい尽くされた老猫はというと、「信じられない」とばかりに大きく見開いた目で私を見つめてきた。私だって豆アジがなくなって悲しいんだ。そんな目で見ないでくれ。


 お互い傷つくだけ傷ついてこの場はお開き、とはならない。


「エスカベッシュ美味しかったですか?」


 私が注文した一皿を手に、マルセルがカウンター奥の厨房から戻ってきた。いい匂いをさせている皿に気づいて、老猫の顔がキリッとひきしまる。


「美味すぎて狙われっぱなしだったよ。おかげで豆アジだけ先になくなってしまった」

「それはそれは。相変わらず仲がいいですねえ」


 私とマルセルが話す間も、老猫の視線はマルセルが持つ皿へと注がれている。しかしマルセルが自分の飼い主だと老猫は理解しているようで、飛びついたりする様子はない。私のそばにじっと座り、皿がカウンターに置かれるのをただひたすらじっと待っている。


 だがそんなに待たれても、一口もやる気はない。


 これは猫の体に合わせて作られたものではない。酒に合うよう作られているから塩辛い上にニンニクだのなんだの入っているもの、一口だってやれない。危険すぎる。


 マルセルが私の前に置いた皿を見て、老猫が「なあう」と太い抗議の声を上げた。


 ああそうだ。そのとおりだ。今日頼んだのはきみの好きな魚ではない。


 アサリの白ワイン蒸しだ。


 ふふん、私がいつも魚を注文すると思ったか。つまみが豆アジだったから、一旦魚以外をクッションに注文したのだ。


「ほら、魚ではなく貝だぞ。きみが欲しいのは魚だろう? ここにはないと分かったら、おとなしく……待て! だめだ!」


 白ワイン蒸しに顔を突っ込もうとした老猫を慌てて捕まえる。貝は絶対にいけない。しかも酒で蒸してるんだぞ。私は猫殺しにはなりたくないので、絶対に食べさせるわけにはいかない。


 「自分、貝いけます。食べさせてください」とばかりに暴れる老猫を抱いたまま、アサリの白ワイン蒸しに口をつける。大粒のアサリは身離れもよく、ぷりぷりとした食感がなんとも美味い。白ワインの爽やかな香りが、肉厚の身の旨味を引き出していた。


 ああ、今夜も来てよかった。


「んなあおう!」

「うわっ!」

「あっ、こら!」


 老猫が暴れた拍子に私が持っていたフォークが吹っ飛んで、マルセルが声をあげる。きらりと弧を描いたフォークは、カウンターの上に転がった。


「おいおい、おまえのテーブルマナーではフォークは投げるもんなのか?」


 私にそんなことを言うやつは、そう多くはない。

 声のする方を見ると、シモンズが立っていた。よれたシャツにべっ甲眼鏡という、いつもの彼らしい服装をしている。


「仕事上がりか?」

「ああ。今日は嫁さんが友達と飲みに行っててな。そんなら俺もって夜の街に繰り出したってわけだ」

「夕食の手間をかけさせないとは、妻想いだな」

「そうだろう?」


 私の隣に腰かけながら、シモンズが得意げな顔をする。配偶者を大切にするのは当然だとは思ったが、別にシモンズがドヤ顔でなにか悪事を働いているわけではないので、そのままにしておく。


「俺が猫の扱いの手本を見せてやる。マスター、サバの水煮くれ」

「あ、すみません。今日は作ってないんです」


 ドヤ顔のシモンズによる注文は、新しいフォークを用意してくれたマルセルによってあっさり却下された。


「私が言うのもなんですけどね、こいつ最近太ってきたような気がして。妻と相談して、おやつを減らすことにしたんですよ」


 ころんと丸いフォルムのマルセルが、自分のお腹を撫でながら笑う。もしかして老猫がいつもよりがつがつしているのは、おやつを減らされたせいか?


「それよりシモンズさん、今日はなんにしますか? 白なら美味いやつ仕入れてますよ」

「おっいいな。じゃあそれをもらうよ」

「ありがとうございます」


 マルセルがてきぱき動き回って、あっという間にシモンズの前に白ワインとつまみである豆アジのエスカベッシュが並ぶ。


 老猫は豆アジの再登場にやる気が再燃したようで、さっさと私の腕から抜け出してシモンズの方へと移動した。だがシモンズもさっきマルセルから老猫のおやつ事情を聞いたからか一口もやらない。まあそうか。それにそもそもそのエスカベッシュは、レモンがかかっているから猫にやれるわけがない。


「そういやエルクラート。おまえさん、ピケを見つけてくれたんだってな」


 ワインを一口味わってから、シモンズが口を開く。


「夢の中に出てきた人がリヴァイアサンから助けてくれたって、校内で話題になってるぞ」

「まあ、リヴァイアサンなど滅多に出会わないからな。私も今回初めて本物を見たよ。いい経験になった」

「それよりも、よくピケが生きてると思って探してくれたなって話だよ。ピケの幽霊の話はココ先生から聞いただろ? あのとおり皆生存を絶望視していたからな。それが五体満足で帰ってきたんだ。奇跡だって大騒ぎだったんだからな」


 ああ、そのことか。


「ココ先生に会っていなかったら、ピケの生き霊を気にも留めなかったさ。ピケが助かったのは、ココ先生のおかげというところが大きい」


 放り出すのも気が引けて結局海の中まで行ったものの、それをするに至った理由はココ先生からピケの生き霊について頼まれたからだ。あれがなかったら、私は再来店したピケをただの幽霊だと思ってなにも調べはしなかった。


「そうそう、ココ先生な、学校に姿を現したびしょ濡れのピケを見たらもう号泣してなあ。まあ、泣いたのはココ先生だけじゃないんだが」

「シモンズ、きみもか?」

「ちょっとばかりうるっときたね」


 シモンズの『ちょっと』は、『とても』や『たっぷり』という意味だ。なるほど、大泣きしたのか。


 それにしてもピケは皆から愛されているな。たしかにあの素直な性格で愛嬌があるのだから、好かれて当たり前か。私もピケには好意的な印象を抱いている。


「お待たせしました。どうぞ」


 厨房に引っ込んでいたマルセルが、にこにこと皿を運んできた。シモンズの注文品だ。


「イシダイのカルパッチョです」


 シモンズの前に皿が置かれた瞬間、花びらのように並んだ透明感のある白身に老猫が飛びついた。普段はまったく見せない猫らしい素早さを活かし、切り身を一枚咥えてカウンターを飛び降り、だだだーっと走り去る。


 あいつ走れたのか。


「あ! おい! 俺のイシダイ!」


 猛ダッシュする老猫と叫ぶシモンズの様子から、店内にいたなじみの客たちはなにが起きたか察したらしい。どっと笑いが起こる。


「なるほど。猫の扱い方の参考にさせてもらうよ」

「いやこれはだな……ああもう! なんでだよ!」


 見事にやられたシモンズを見ながら思う。


 老猫のダイエットは、絶対に成功しない。

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