第八十五話
そろそろ昼になろうかという頃に店へ姿を現したのは、一週間ぶりに見るピケだった。小さな足音をさせながら店内に入ってきたピケが、ぐるりと周囲を見回してから私にぺこりとお辞儀をする。
「先日は助けていただき、ありがとうございましたなのニャ」
「もう体はいいのか?」
「はいニャ。風邪もすっかりよくなって、元気いっぱいですニャ」
風邪。そうだな、海中はとにかく体が冷えたもんな。私も海から帰ってきたあと軽い風邪なのか体がだるくて、一日寝込んでしまった。
人魚やリヴァイアサンは海中で暮らせる体をしていても、私とピケはそうもいかない。陸で暮らす者が長時間を過ごす環境としては、あまりにも過酷だった。
「助けてくれたお礼をしたいんニャけど、僕が大事にしてた藍晶石がなくなっちゃってて……」
「夢喰いの報酬にと、きみの生き霊が私にくれたからな。なくなっていて当然だ」
「ニャア。それで、代わりになりそうないいものを持ってきたのニャ。非売品ってやつニャ!」
ピケが鞄の中に手を突っ込む。中から出てきたのは、藍晶石よりももっと大きな、
「スティアアカデミー開校四百周年記念、シリアルナンバー入り『訓練船ルフトクス号』なのニャ!」
とてもよく出来たボトルシップだった。しかもボトル本体だけではない。木製の台座までついている。しっかりとした台座には、船名とシリアルナンバーが刻まれた金色に輝くプレートがついていた。肝心の船は、なんとなくだが私がピケの悪夢を追体験したときに乗っていた船に似ている気がする。
「僕の入学年に、生徒全員に配られたものなのニャ。このすっっっっごいお宝、エルクラートさんに受け取って欲しいのニャ!」
「受け取るのは構わないが、きみのとても大切なものだろうに。手放してしまってもいいのか?」
夢喰いの報酬は、村の皆が持たせてくれた藍晶石。そして今回は入学の思い出が詰まっていそうなボトルシップ。代わりになるものなどないかなり大切そうなものばかり手放している感があるピケが、心配になる。しかし当のピケは無理をしている様子もなく、実にあっさり頷いた。
「もちろんですニャ。命の恩人のエルクラートさんに、ぜひもらって欲しいのですニャ」
「そういうことならば、ありがたくいただこう」
ピケの小さな手からボトルシップを受け取ると、彼が満足そうににっこり笑う。
「このボトルシップを見るたびに、いつか偉業を成し遂げる僕のことを思い出して応援して欲しいのニャ」
「そうだな」
現状魚の輸送法には温度や品質管理の面ではまだ不十分なことが多く、運べる魚の量や種類はかぎられている。魔法も魔道具も、万能ではない。遠方の魚が缶詰ではなく新鮮な状態で食べられる日が来たら、そのときはピケに感謝しようか。
「ピケ、今日の夢喰いはどうする? リヴァイアサンや嵐の夢で困っているのなら喰らうが」
「ううん、食べてもらわなくても大丈夫ニャ。あれも僕の貴重な経験なのニャ」
恐怖にまつわる悪夢は手放したいと考えるのが一般的だが、ピケは記憶の遺産というものをしっかり理解していた。素晴らしい。
「それに今僕の頭の中は、最高のアイディアが湧いてきそうな感じがするニャ。とってもワクワクですニャア」
生き霊が持ち込んだ悪夢を喰らっただけで大丈夫なのかとこの一週間心配していたが、目をきらきらさせているピケを見るかぎり問題なさそうだ。
夢主は元気いっぱいだし、私が喰らっていたスカスカした生き霊の悪夢も特になにか変化するわけでもなく無事食べ終えられたし、今回の件はこれで全て終わりだ。
「きみの研究が捗りそうでなによりだ」
「ニャハハッ。この研究を完成させて、エルクラートさんに僕の村で獲れる川魚を食べさせてあげるニャ。待っててニャ」
「楽しみにしているよ」
イリュリアは港町なのだから当然魚の水揚げはあるが、海が身近なぶん川魚を食す機会はほとんどない。ピケの研究の完成が今から待ち遠しい。
元気に店を出たピケの後ろ姿が表通りの人の流れに消えるのを確認してから、ドアに『休憩中』の看板をかける。
ピケからもらった立派なボトルシップは、居間に飾ろうか。暫く模様替えをしていなかったので、これを機に手をつけるのもいい。
一度にあれもこれもと欲張って物を持ち落とすのは嫌なので、先にボトルシップだけを運ぶ。マントルピースの上を少し片づけて飾ると、しっくりきた。
もう一度店に戻り、客から取り出した悪夢の載った皿を持つ。
変わらぬ日常をあらためて実感し、ほっとした息をついた。




