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エルクラートさんちの夢喰日記  作者: Akira Clementi
第十一章 愛しいあなた

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第八十四話

 はっとして目を開けた私が見たのは、人の顔を覗き込んで微笑むヘルミーネだった。


「随分よく眠っておったのう。おかげで可愛らしい寝顔を堪能できたぞ」


 性格が歪む原因になった部分の記憶は消したはずなのだが、ヘルミーネの性格はそんなに変化していないような気がする。元からこうやって人をからかうタイプらしい。


 朝から絡まれて、私はついため息をついてしまった。そういえばここは海の中だから、いつもの紅茶が飲めないではないか。今一番欲しいものが得られない虚しさでもうひとつため息をつきそうになって、大人げないなとこらえる。


「バクや、ぬしはなんでも食べられるのかえ? 朝食を部屋に持ってこさせよう」


 なんと、朝食が出るのか。昨晩は夕食を食べた覚えがなかったので、ヘルミーネの言葉に驚いた。


「一応訊くが、普段の朝食はなにを食べているんだ?」

「ワカメサラダじゃ」

「……せっかくだが、遠慮させていただくよ。朝は紅茶がいいんだ」


 ずっと水中にいて体が冷えているせいで、とにかく温かいものが欲しかった。命の危険を感じるほどの低体温にならないのはきっと人魚の種族特性の効果だろうが、寒いことに変わりはない。陽の光が恋しい。


「ふむ、バクの食事は難しいのう」


 ヘルミーネはそう言うものの、そんなに落ち込んだ様子はない。私が断るのを予想していたようだ。


「それより、昨晩はご満足いただけたか?」


 私の問いに、ヘルミーネがふふっと笑った。


「そうじゃのう……。わらわの寝屋で体の関係を持とうとしなかったのは、ぬしだけじゃ。とても新鮮だったぞ。それに、久方ぶり寝覚めもよかったからのう。ぬしがわらわの悪夢を喰らった褒美に、魚の餌にはしないでおいてやる」


 私の身の安全は確保された。ベルにティキを逃がすよう頼んだので、ティキがいないことにヘルミーネは気づいているはずだ。しかしそれについてはなにも言及しないので、彼女の記憶の整理はうまくいったと思える。


「ベルがぬしを迎えにくるはずじゃ。広場で待つとよい」

「きみはどうするんだ?」


 問えば、ヘルミーネは少しばかりばつの悪そうな顔をした。


「朝食の後で、レヴィ様にティキ様をさらった件を詫びにいく。そんな情けない姿を他の者に見せるわけにもゆかぬじゃろう? ひとりで行かせてたもれ」


 私としてはレヴィがヘルミーネを罰するかどうかは正直興味がないので、ヘルミーネをひとりにしても問題ない。それにたぶんレヴィは、ヘルミーネを罰する気などない。


 ヘルミーネに連れられて、広間へと行く。既に二食抜いた体は、動き出すとここぞとばかりに空腹を主張してきた。ああ、早く家に帰って朝食にしたい。サラダと聞いてしまったらネムノキの悪夢が食べたくて仕方ない。それから風呂で温まりたい。変な姿勢で寝てしまったせいか体も痛いので、ベッドで好きなだけ眠りたい。


「バクや。ぬし、ベルをどう思うておる?」

「はあ?」


 ヘルミーネの言葉に、つい変な声が出てしまう。


「ベルはベル。それ以外の何者でもないだろう?」


 そう言ったら、ヘルミーネに深いため息をつかれた。なんなんだ。失礼だぞ。


「ベルにはあまり思わせぶりなことをするでないぞ? あの子が誰かを海へ連れてきたのは初めてなのじゃ」

「そうなのか? ずいぶん慣れた様子だったが」

「……なんというか、ぬしにだけはベルを近づけさせたくないものよのう」

「きみにベルを大切に思う気持ちが戻ってきてよかったよ」

「なにを言っておる。わらわはいつもベルを可愛く思っておるぞ。カイルの妹が可愛くないわけなかろう?」

「そうだったな」


 いまいちヘルミーネがなにを言いたいのか分からないが、ベルへの感情が正常なものに戻ってなによりだ。


 ヘルミーネと雑談をしていると、


「エルクラートさん」


 聞き慣れた声がした。そちらを見れば、ショートカットの人魚が元気に泳いでくる。


「おおベル。今日も元気そうじゃの」


 ヘルミーネの言葉に、ベルが慌ててぺこりとお辞儀をする。


「ベル、こやつに加護を与え直してやってくれぬかえ?」

「えっ、でも」

「こやつはぬしが連れてきた者じゃ。陸に帰るまで、守ってやるがよい」


 ベルの視線が、ヘルミーネと私の間を行き来する。ヘルミーネが言うからには、昨日彼女が私に与えた種族特性の効果はまもなく切れるのだろう。昨日はベルから奪うようにして私に種族特性を重ねがけしてきたのに、今日はベルにさせるのか。ヘルミーネが誰とでもほいほいキスをしなくなったのはカイルが喜ぶかもしれないが、私がクーア以外の者と唇を重ねるという現実はなにも変わっていないのでなんだか虚しい。


 しかしここで死ぬわけにもいかないので、ベルに声をかける。


 きっといつかクーアともキスをする機会があるはずだ。もちろん、彼女が嫌がらなければだが。別にキスができないくらいで彼女を嫌いになったりしない。私としては、クーアが私を好いていてくれるだけで充分なのだから。


「頼めるか、ベル」

「う、うん! あたし頑張るよ!」


 気合十分といった様子で私に泳ぎ寄ってくると、ベルは私の顔を手で包んでキスをしてくれた。やっぱり長い気がするが、確実に効果を付与したいというベルの優しさなのだと思っておく。それか癖だ。


「じゃあの、バク。また気が向いたら遊びにでもくるとよい」


 ベルが私から唇を離すのを見届けると、ヘルミーネはさっさと泳ぎ去ってしまった。


「ティキくんはちゃんと家まで送っていったよ。レヴィ様が、エルクラートさんが目覚めたら連れて来て欲しいって」

「そうか。じゃあ、また道案内を頼めるか?」


 私の言葉にベルが頷いた。


 もう少しで海から出られる。そう思うと、ひどい空腹ではあったがやる気が湧いてきた。

 今までそうしてきたように、ベルと手を繋いでレヴィの巣を目指す。

 サンゴ礁の中にぽっかり空いた大穴は深海に通じていそうな青い闇をたたえていて、その恐ろしさでもって私を迎えてくれた。


「レヴィ様ー! レーヴィーさーまー!」


 ベルが声を張り上げて、数秒後。


 ずずずと地響きを伴って、穴から真っ白な巨体が現れた。優雅にうねり、でかいドラゴン顔が私の真ん前にやってくる。


「バクよ、礼を言います」


 私がなにかを言うより先に、レヴィが口を開いた。文句が続かないところからするに、ティキは元気いっぱいのようだ。ヘルミーネは傀儡の轡でティキを縛っていたものの、食事などはちゃんと与えていたのだろう。

 あの轡の唯一いいところは、つけられている間の記憶が一切残らないところだ。「あれ? なにしてたっけ?」という大きな空白は生まれるものの、世の中には残らない方がいい記憶もある。


「約束どおり、あのケット・シーを返しましょう。お待ちなさい」


 言うと、レヴィは再び穴の中へと引っ込んでいった。ややあって、またしても地響きを伴って戻ってくる。


 再び姿を現したレヴィの口には、ひとりのケット・シーが咥えられていた。黒と白のハチワレに、首元の赤いスカーフ。ぎゅっと抱きしめている肩掛け鞄。間違いなくピケだ。


「ニャ? ウニャー! 夢で見た人ニャ!」


 私の前に差し出されたピケが、私の顔を見てそんな声を上げた。ピケの生き霊が経験したことは、生き霊が体に戻ったときに夢に見る。だから私についての記憶がピケにあってもおかしくない。


「藍晶石と交換に、きみの悪夢を食べたエルクラートだ。助けに来たぞ」

「ニャアアアッ! ありがとですニャ! ありがとですニャアアア!」


 レヴィの口から解放されたピケが、私が伸ばした腕にすがりつく。


 そんなピケを追いかけて穴をでてくる存在がひとつ。


「やだー! 帰っちゃやだー!」


 すぽーんと勢いよく出てきたのは、ティキだ。レヴィと並ぶとあまりにも細く見えるティキがうねる。


「ねえピケ、すっごく美味しいサザエ拾ってきてあげるからまだ海にいなよ! ねえピケ、もっと遊ぼうよー!」

「だめよ、坊や。ピケはあなたのおもちゃじゃないの。陸で暮らす種族なんだから、ちゃんと陸のおうちに返してあげて」


 暴れるティキにレヴィが優しく言い聞かせようとしている。おまえがそれを言うかと思いはしたが、思うだけにした。レヴィに親としての威厳があった方が、ティキも言うことを聞きやすいだろう。

 なおも駄々をこねるティキをぱくっと咥えて、レヴィが巣穴へと引っ込む。


 これでもう海ですべきことはない。ベル、私、ピケとひと繋がりに手を繋いでイリュリアの浜辺へと泳ぎ出した。


 深い青から、陽の光を感じる温かみのあるターコイズブルーへと世界の色が変わる。色とりどりの魚たちが賑やかに泳ぐ中を進み、ようやく海上へと顔を出した。約一日ぶりに思い切り吸った空気は実に新鮮で、清々しい。


「ねえ、エルクラートさん」


 私とピケを砂浜へと引っ張って泳ぎながら、ベルが口を開く。


「あたしね、エルクラートさんが初めてなの」

「海の中に誰かを連れていったという話か?」

「ていうか、えっと、ほら、その……キスしたの、エルクラートさんが初めてなんだ。でも、初めてがあなたでよかったなあって。へへ」


 だからさ、とベルが言葉を続ける。


「素敵な思い出になるように、もう一回だけキスさせて?」


 そう言うなり、ベルが振り向いて私へと迫ってきた。こちらの返事を確認する前に、唇を重ねてくる。見ていたピケが「ニャハーッ!」と興奮気味に声を上げた。


 初めてまともに海に入って分かったことが、ひとつだけある。


 人魚は、キス魔だ。

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