第八十三話
ヘルミーネの様子を確認すれば、彼女は悪夢をじっと見ていた。
取り出した己の悪夢をその場で見せられるというのは、なかなかできない体験だ。夢喰屋を利用するときは誰もがリラックスして、施術者であるバクにその身を任せる。
今のヘルミーネはうたた寝に近い状況のはずだから、ぼんやりとした頭で若干混乱していると考えらえる。私が自分からナイトメアを取り出そうとしたときに混乱したときのようなものだ。
その状態でもこの悪夢に視線が釘付けになるからには、それだけこの悪夢がヘルミーネを蝕んでいるせいだ。
「ヘルミーネ、きみの後悔と罪悪感を助長しているのがこの悪夢だ」
もうヘルミーネの中から夢を取り出す必要はない。どの夢を喰らうかは決まった。不要な他の夢をヘルミーナの中に戻す。
「カイルを助けられなかった後悔に苛まれて、きみはレヴィやベルを憎むようになったのだな。だがきみも彼女たちが悪かったわけではないと分かっている。彼女たちを憎みながらも、そんな自分に心底嫌気がさしている。そんなところではないか?」
カイルの最期に関する擦り切れるほど繰り返された悪い想像と共にひとつの夢になっている、浮かんでは沈むレヴィやベルの姿。忘れたくても忘れられないのは、カイルの件はどうしようもなかったのだと自分に何度も言い聞かせようとしているからだ。
「カイルの犠牲を悲しむなとは言わない。だからこの悪夢を忘れなくていい」
それでも、と言葉を続ける。
「愛する人の妹を憎んで自己嫌悪に陥るのは、もう終わりだ。カイルが望んでいるのは、きみの苦しむ姿ではない。きみの幸せだと、分かっているだろう?」
「なに、を……」
「安心しろ。きみの苦しみを取り除くだけだ」
悪夢の黒い煙に手を伸ばし、ふわふわした綿の塊をほぐすようにして中を探る。全て喰らう気はない。想像の産物ではあるもののカイルが人間に捕まったという部分だけをちぎりとって、ヘルミーネに戻す。これで『カイルが人間に捕まった』という記憶だけは残るので、彼がいないことを訝しがらずに済む。
それ以外の心臓に悪いショックに満ちたレヴィの部分や、ベルに向ける自己嫌悪がたっぷり混ざった憎悪だらけの部分は、なくなってくれた方が都合がいい。
両手で残った悪夢を押し潰すようにすれば、悪夢はぎゅっと収縮した。私の手の中で五粒ばかりのブラックベリーに変じる。意外と量が少ないなと思ったが、一粒口に含むと熟した豊かな甘味が口の中に広がった。ヘルミーネがこの悪夢を幾度も見た証だ。それにしても美味いな。少し腹が減っていたので、あっという間に喰らってしまう。もっと手に入るのならパイでも作りたいくらい美味い。
記憶の整理をさせてもらったヘルミーネはというと、その双眸が焦点を失ってとろんとしていた。
凍れる鳥籠の魔術を解くと、すぐにひんやりとした海水が私たちを包んだ。一瞬身構えたが、ヘルミーネが私に付与した種族特性の効果は切れておらず、陸と同じように息ができる。
せっかくベッドがあるのに床に転がしておくのもなと思い、私はヘルミーネを抱き上げてうねうねコンブベッドに運んだ。ヘルミーネを横たわらせると、すぐにコンブが彼女の体を包み込む。
「ヘルミーネ、ティキにつけた轡の鍵はどこだ?」
「か、ぎ」
形を変えた夢を戻されると、それがなじむまで少しばかり時間がかかる。ヘルミーネの意識がはっきりしないのは仕方ない。
「そう、鍵だ。きみがティキにつけた轡の鍵は、どこにある?」
ゆっくり問えば、ヘルミーネの唇が震えた。
「かが、み、の……うし、ろ」
「ありがとう」
室内を見回す。鏡は壁にくっついているものが一枚きりだ。表面がやや錆びている古めかしい意匠のそれに近づき、縁を指先で調べる。指が三本ほどすぽっと後ろに入り込む隙間があった。注意深く探れば、指先に当たるものがある。引き出すと、それは間違いなくひとつの鍵だった。紫色の光を帯びているから、傀儡の轡の鍵だと分かる。
ちょうどそのとき、部屋の入り口からこそこそ私を呼ぶ声があった。
声が聞こえた方を見れば、なんとベルが顔を覗かせている。
「エルクラートさん無事?」
「ああ、このとおりだ。ティキも解放できそうだし、そろそろ帰ろうと思っていたところだよ。また道案内を頼めるか?」
「もちろん。あの、それで……」
ベルがうねうねコンブベッドのヘルミーネをちらりと見る。私を助けに来たとヘルミーネにばれたらなにかしら処罰があるはずなのだが、それでもベルはヘルミーネの身を案じているらしい。
「少し記憶を整理させてもらった。目覚めたら今までよりはまともになっているはずだ」
「そう」
元々のヘルミーネの性格が分からないので本当にまともかは不明だが、少なくとも理不尽にベルへの八つ当たりをすることはなくなる。記憶の整理をしたのだから、もうヘルミーネにはベルに八つ当たりをする理由がない。
そろそろ行こう。ベルも迎えに来てくれたし、鍵さえ手に入ってしまえばもうヘルミーネに用はない。
そう思ったのだが。
「待って……待って、カイル」
部屋を出ようとした私の耳が、そんなヘルミーネの声を拾った。見れば、うねうねコンブベッドからヘルミーネの片腕が伸びている。
「ひとりに、しないで」
若干混乱しているヘルミーネは、私とカイルを間違えているようだ。夢の中で見たカイルは、私とはまったく似ていなかったのだが。
「カイル……」
私はベルにヘルミーネを助けてくれと頼まれている。ベルがいる前で、ヘルミーナのか細い声を無視するのは少々ばつが悪い。
「ベル、すまないがこれでティキにつけられた轡を外してやってくれないか」
手に入れた鍵を、ベルへと差し出す。
「轡を外せば、ティキは正気に戻る。レヴィのところへ送り届けてやってくれ」
「エルクラートさんはどうするの?」
「きみにヘルミーネを助けて欲しいと頼まれているからな。一晩は様子を見ていくよ」
ヘルミーネにはどう思われても構わないが、ベルには二日間助けてもらった恩がある。それに私の身を案じて危険を冒そうとしてくれたのだ。ベルの要望に寄り添うべきだと思えた。
「また明日迎えに来てくれないか。きみがいないと浜辺に戻れない」
「わかった。エルクラートさん、気をつけてね」
「ああ。きみもな。さあ早く行け。誰かに見つかったら面倒だ」
鍵を受け取ったベルが泳ぎ去る。その姿が廊下の角を曲がるのを見届けてから、私はヘルミーネのもとへと戻った。ベッドのそばに座り、彼女の手を握る。
「安心して眠るといい。次に目覚めたら、きみはカイルが愛したままのきみだ」
意識がはっきりとしないヘルミーネが、私の言葉を全て理解したとは思い難い。だが安心したのは確かなようで、双眸がそっと閉じられる。
繋いだ手を離すタイミングを計っているうちに、私はこっくりこっくりと船を漕ぎ始めた。
ふわふわとした心地の中で見たのは、クーアの夢だ。青空の下、どこかへ行く船上で、彼女が明るい笑顔を私に向けてくれる。姿を隠すフードをつけていなかったから、すぐに夢だと分かった。けれども夢と分かっていても、会えたのは嬉しい。
風になびくクーアの長い髪が、はらはらと小さな光の粒を振りまいている。
いつかこんなふうに、クーアがなにも隠さず自由に生きられたのなら。
もしその願いが叶うのならば、こんなに嬉しいことはない。




