第八十二話
いかん。本当に眠ってしまった。
人魚たちにどこかへ運ばれている間もただじっと目を閉じていたのだから、仕方ないか。不眠症とは縁遠い私は、寝つきのよさには自信がある。
ゆっくり目を開けようとして、私はつい「うへえ」と声を漏らしてしまった。なにかぬるぬるしたものが私の頬に当たった。慌てて起き上がろうとして、身動きが取れないと気づく。見れば、横たわった私の体を海藻が包んでいるじゃないか。大きなコンブっぽいものにぐるぐる巻きにされている。逃れようとぐねぐね動くと、コンブっぽいものは意外とあっさり私を解放してくれた。
そのままごろごろ横に転がってコンブゾーンから逃げようすると、浮遊感を感じた。
そういえば海の中だった。
ということはこのコンブは、寝ている間に体が流されていかないように固定する役割があるのか。しかしぬめぬめするのは勘弁して欲しい。
天井に埋め込まれた光るサンゴのおかげで、室内の様子が分かる。
私が固定されていたコンブゾーンは、壁の大きなくぼみだった。そこがベッドなんだろう。
年中裸族である人魚の部屋に、クローゼットというものは見当たらない。それでも大きなシャコガイの殻を利用したソファっぽいものや、床から生えているテーブルのようなサンゴなんかがあった。
壁には鏡がくっついている。沈没船からでも手に入れたのだろうか。表面が少し錆びていた。
サンゴとコンブくらいしかない殺風景な部屋だ。
色とりどりのサンゴやイソギンチャクのおかげで色彩の味気なさは多少緩和されているものの、それでも家具というものがほとんどない部屋はがらんとしているように感じる。
ちなみに本のようなものは見当たらない。水中だから当然だが、寂しい。
夜伽を申し出た私が運ばれて寝かされていたからには、ここがヘルミーネの部屋か。わざわざ他の部屋に私を運ぶ理由はないと思う。
そうとなれば、さっさと準備をすませてしまおう。
凍れる魔術の下準備として、壁や床に術式を刻んでいく。特に魔法抵抗を持たせた特殊なサンゴや岩ということもなく、スムーズに進められる。
真面目に一晩ヘルミーネを慰めるつもりはない。それにどうせ誰がどう夜伽を務めたところで、ヘルミーネは満足などしないはずだ。カイルという欠けたパーツの代わりは、誰にも務まらない。
「起きていたか」
準備を終えて一息ついていたら、部屋の入り口からそんな声がした。当たり前だが皆が泳いでいる水中では、足音なんて聞こえない。突然聞こえた声に少しばかり驚いたものの、平静を保って振り返る。
部屋に入ってきたのはヘルミーネだった。さすがにティキは連れていない。もし連れてきていたら、とぐろを巻くティキで部屋がいっぱいになる。
「今何時だ?」
問えば、ヘルミーネがふっと笑った。
「さあの。人の定めた時間など分からずとも、海の者たちは困らぬ。陽に合わせて移ろう海を感じ取り、食べ、眠る。そういうものじゃ」
近寄ってきたヘルミーネが、私の顎を細い指でなぞる。形を確かめるようにゆっくりなぞると、彼女は両腕を私の首の後ろへと回してきた。すぐ耳元で彼女の声がする。
「バクや、おぬしは人の作ったものの中で生きていて窮屈ではないか? おぬしの体は、本能に従う自由な暮らしを求めてはおらぬか? わらわと海で暮らせば、もう人間に合わせる必要も、魔物と呼ばれることもない。どうじゃ?」
「私は今の巣を離れる気はないよ。あそこには我々バクが大切にしているネムノキがある。それが育たぬ海には、なんの魅力も感じないね。だが……」
ヘルミーネのくびれた腰に左手を回すと、彼女は私に体を預けるようにぴたりと寄り添ってきた。上半身は人のそれなので、たっぷりとした胸元の感触がある。
「人魚の夢がどんな味なのかは、非常に興味がある」
部屋中に刻んだ術式に魔力を流し込み、凍れる鳥籠の魔術を展開させる。周囲が一瞬眩い光に満たされ、真っ白な空間へと塗り替わっていく。
それまで海中にぷかぷか浮いていた体が、すとんと地面に降りる感触がした。地に足がついていることに安堵する。
ヘルミーネの体も同様で、私の腕の中で彼女の体が重さを主張し、下半身の大きな尾びれが真っ白な地面を叩いてべちょっと濡れた音を立てた。
「おいバク、なにをしたのじゃ! 離せ!」
「私流の夜伽だ。じっくり堪能してくれ」
ヘルミーネがもがくが、彼女を解放するつもりはない。腕に力を込めて、強く抱き寄せる。右手を彼女の後頭部に回して、撫でるように反時計回りに動かした。
ややあって、ヘルミーネから黒に白、ピンクに青と様々な色の煙が出てくる。彼女の体が弛緩した。私の首の後ろに回されていた彼女の腕が、だらりと垂れさがる。死んだわけではない。一度に大量の夢を取り出されたせいだ。
ヘルミーネを寝そべらせて、更に夢を取り出していく。
やがて色とりどりの煙は空間のあちこちに塊を作り、渦を巻き、その夢の内容を映し始めた。
「この夢は違うな。これも違う」
「なにを……」
「安心したまえ。殺しはしない。ただ少し記憶の整理をさせていただくだけだよ」
ヘルミーネの夢を覗き見て、カイルに関するもの以外は彼女に戻し入れる。そのうち私たちの周りの夢は、カイルと思しき男の人魚の姿ばかりになっていった。
カイルはベルと同じで、白い肌に緑色の髪をした人魚だ。笑った顔がベルに少し似ている。
ヘルミーネ視点の夢で、カイルは慈しみに満ちた微笑みを絶やさなかった。どれだけカイルがヘルミーネを愛していたのかが伝わってくる。それはヘルミーネも同じはずだ。互いに愛という名の信頼で結ばれているからこそ、二人は恋人なのだから。
「見ろヘルミーネ。きみの愛しいカイルだ」
「カイル……」
夢を取り出されたヘルミーネのとろんとした瞳がゆっくり動き、周囲に浮かぶ夢と夢の間を渡っていく。ふとその目から、一筋涙がこぼれた。すぐに一粒の真珠になり、ころんと転がる。
「ずっときみを愛してくれていた彼の代わりは、他の誰かで務まるのか?」
雪に似た色合いの夢が映し出す夢は、ヘルミーネとカイルが初めて出会ったものだった。サンゴの森でなくした髪飾りを探すヘルミーネを手伝ってくれたのが、カイルだ。夢にはベルの姿もある。仲のいい兄妹である二人は、親身になってヘルミーネの髪飾りを探してくれたらしい。
「誰彼構わず寝屋に連れ込んだところで、その虚しさは埋まりなしないだろう?」
黄色い煙の夢は、カイルと夜の浜辺に遊びに行った夢だ。あの日は人間たちが浜辺で花火をしていて、その灯りを二人で遠くから眺めていた。カイルはいつだってヘルミーネのそばにいてくれて、族長という重い責任に押し潰されてしまいそうな彼女を支え続けていた。
「もしカイルがいなくなった虚しさがその程度で埋まるようなものだとしたら、きみたちを繋いでいた愛など紙より薄っぺらかったという証だ」
見るからに甘い、桃の花のようなピンク色の煙。映し出す夢は、カイルにプロポーズされたものだ。二人が出会ったサンゴの森で、海中では珍しい宝石をちりばめた髪飾りを差し出しながら、カイルはヘルミーネに求婚した。
「私は、そうではないと思いたい」
黒い煙が映し出す悪夢。密猟者の網に捕まったヘルミーネをカイルが助けようとする夢は、ベルに助けを求められたヘルミーネの中で大きく膨らんでしまった悪い想像だ。夢の光景はめまぐるしく変化し、レヴィやベルの顔をも映し出す。
レヴィの姿がぐにゃりと歪む。彼女が助けられないというレヴィの言葉にショックを受けたときの傷痕のようなものだ。これが夢の中にあるかぎり、ヘルミーネは悪夢を見ては何度も同じだけのショックを受ける。
レヴィに続いて映るまだ髪の長かった頃のベルに、カイルの姿が重なって見えた。そのベルの姿を、黒い煙が飲み込み、沈んだかと思えばまたベルの姿が浮かび上がる。ベルという存在を消そうとする夢の示すところは、『あなたが捕まればよかったのに』や『どうしてあなたが助かってしまったの』などといったものだろう。ヘルミーネの悪夢を追体験しているわけではないから、さすがにこの夢に刻まれた彼女の想いを全て理解するのは難しい。
だがこの夢からするに、ヘルミーネは悲しみ以上に大きなものを自分の中に抱え込んでいる。




