第八十一話
「ベル、少しきみについて聞いてもいいかな?」
気になってしまったら、聞かずにはいられなかった。
「えー、なあに? エルクラートさん、あたしに興味もっちゃったって感じ? 彼氏ならいないよ」
「安心してくれ。そのつもりはない。それに私には恋人がいる」
「ええっ!」
ベルがとんでもない速度で振り返った。なにか妙なことを言ったかと考えても、特にそんな気はしない。だとすれば、私に恋人がいるのがそんなに不思議か。それとも、婚約者と言ったほうがよかっただろうか。
「エルクラートさんの彼女さんってどんな人? えっ、美人? 美人なの?」
「私の恋人よりきみだ。私はきみについて知りたい」
「それ、独り身のエルクラートさんに言われたかったよ……」
ベルの泳ぐ速度ががくっと落ちた。
「……で、あたしのなにを知りたいの?」
「昨日きみは私に、レヴィがカイルを助けられなかったのは彼が陸へ引き揚げられてしまったからだと教えてくれたな」
「うん」
「つまりきみは、カイルが引き揚げられる現場に居合わせたのか?」
ベルの返事はない。
「きみの髪が短い理由は、それに関係しているのではないか?」
ベルの泳ぐ速度が更に落ち、まるでとぼとぼ歩く程度になり、やがて完全に止まってしまった。私に向き直った彼女の顔は、浜辺で私に見せたような元気さは欠片もない。小さな唇をきゅっと噛み締めた表情は、今にも泣き出しそうに見えた。
「……あたしのせいなの」
ベルの声が震えている。
「お兄ちゃんが捕まったのも、ヘルミーネ様がああなってしまったのも、ティキくんがあんな目に遭ってるのも、全部あたしのせいなの」
力ない声が、言葉を紡いでいく。
「お兄ちゃんは、どんくさいあたしなんかを助けようとして人間に捕まったの。あたし……」
ベルの手が私から離れる。細い両手は、彼女の小さな顔を覆い隠した。
「お兄ちゃんが乗せられた船を追いかけたけど、船が港に入っていくのを見たら、怖くて、なにもできなくて」
ベルの手の間から、ころんと小さな真珠が転がり出た。人魚の涙は真珠になる。ベルは泣いていた。
「とにかく助けを呼ばなきゃって思ってヘルミーネ様に報告したんだけど、陸に上げられてしまったお兄ちゃんはレヴィ様の加護から離れてしまったから、もうどうにもできなくて……」
「それで、ヘルミーネが償いとしてきみの髪を要求してきたのか」
ベルが何度も頷く。嗚咽がこらえきれなかったらしい。ひっくひっくとしゃくりあげながら、肩を揺らして泣いている。
容姿に厳しく特に長い髪を誇りにしている人魚が自ら髪を切るなど、珍しい話だとは思った。ヘルミーネにしてみれば、ただ見ているしかなかったベルが許せなかったのか。そうでなければ、恋人の肉親に自傷に等しい行為をさせるわけがない。
「全部あたしのせいなの。あたしがっ……!」
「それは違う」
別にベルをなぐさめたかったわけではない。ベルが弱みを握られてヘルミーネの言いなりになっているのも、別に私にとってはどうでもいい話だ。それでもベルの言葉をさえぎったのは、単純にベルの話が間違っているからだ。
「カイルは自分の意思できみを助けた。そうではないか? だとしたらヘルミーネがきみを責めるのは間違っている。だいたいカイルが人間に捕まったとき、誰かに助けを求められる状況だったのか?」
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら泣くベルが、小さく首を横に振った。
ベルの本来の性格を、私は知らない。それでも昨日今日と私に積極的に親切にしてくれるからには、元々活発な一面はあったと思える。その彼女なら、周囲に助けを求められない状況になれば自分でなんとかしようと思ってもおかしくない。襲われて混乱してもカイルを追いかけたのは、そういった理由だと思う。
だが、追いかけたところでどうにもならないこともある。たしかに魔物は大なり小なり魔法が使えるが、だからといって皆がハルピュイアのように好戦的で強いわけではない。人間の法律で守られなければ狩られ放題の人魚の少女にたったひとりで危険な密漁者に立ち向かえというのは無理な話だ。
「きみはきみを責める必要はないし、ヘルミーネの理不尽な要求を飲むこともない」
「でも……」
「客観的に見ればこういう意見もある。それを聞いた上できみがそれでも自分を責めたいと言うのなら止めはしないが、そうしたいか?」
「ううん、嫌」
ぐずぐずの涙声ながらも、ベルが口を開く。両手で拭う目元からは、ぽろり、ぽろり、と小さな真珠がこぼれていた。
「あたし、お兄ちゃんが助けてくれた分をちゃんと生きたい」
「だったら、自分を責めるのはこれでお終いにするんだな」
そう言った直後。
「……エルクラートさああああん!」
ベルが抱きついてきた。胸を貸すとは一言も言っていないのに、私の服に顔を埋めてわんわん泣き出す。さすがにこの騒ぎには、周囲を泳ぐ魚たちも驚いたらしい。皆私たちを大きく避けて泳ぎ去る。
儲け話が大好きな類の人間が見たらたまらない涙をたっぷり流しながら泣くこと数分。やっとベルが落ち着いてくれた。
「えへ、なんか、恥ずかしいところ見せちゃったね」
「人魚にも羞恥心はあるのだな」
「ひどい! あたしたちだって恥ずかしいって思うときあるよ!」
ちょっとからかえば、ベルはすぐに反応する。もう大丈夫なようだ。
「そろそろ案内を頼めるか?」
「あっ、うん。そうだったね。ごめんごめん。……あのね、エルクラートさん」
「なんだ?」
「ヘルミーネ様のこと、助けてあげて」
「善処しよう」
私がヘルミーネに会いにいくのは、あくまでもティキを返してもらう為だ。べルの言葉もあるので気にはかけてみるが、最終的に態度を改めるかどうかはヘルミーネ次第である。
泣き止んだベルに連れられて、海の深くへと進む。
光るサンゴの森、その中にそびえるヘルミーネの城に入ってまっすぐ向かったのは、昨日と同じ広間だ。昨日見たのと同じように、ヘルミーネがティキを乗り回している。
ティキは子供とはいっても、リヴァイアサンだ。それなりの体長がある。城内の他の場所がどれほどの大きさかは知らないが、ティキと過ごすのならばこの広間がちょうどいいというわけか。
「ヘルミーネ、話がある」
声を張り上げれば、ティキの手綱を握っていたヘルミーネがこちらを見た。
「昨日の男ではないか。気が変わったのかえ?」
ティキに乗ってゆったり広間を回りながら、ヘルミーネが問うてくる。
「そうだ。おまえの夜伽をしてやろう」
「ほう?」
こちらに興味を持ってくれたようだ。ヘルミーネが近づいてくる。ついでにティキの顔がぬうっと私の前に現れた。子供とはいえ立派なドラゴン顔をしている上に轡の効果で白目を剥いているのだから、はっきりいってちょっと怖い。
「昨日はさっさと断ったというのに、ずいぶんな気の変わりようじゃのう」
「ティキを返してもらわないとこちらも困るからな。ただし」
私がヘルミーネの夜伽をするにあたって、譲れない部分がある。
「一晩だけだ。私が一晩夜伽をする代わりに、ティキを返してもらおう」
「たしかにぬしはわらわたち人魚と比べても綺麗な顔をしておるが、随分な自信じゃのう。ぬしの一晩と、この子。本当に価値が釣り合うのかえ?」
ヘルミーネがくすくすと笑う。嘲りの色があるそれに、私は即答した。
「もちろんだ。他のどんな種族の男よりも、きみを慰めてみせよう。毎晩の夜伽などいらなくなるぞ。どうだ?」
「面白い。……だが、わらわもこの子を簡単に手放す気はない。もしもわらわが満足しなかった場合は、千に刻んで魚の餌にさせてもらうぞ」
温度の低いヘルミーネの言葉に、ベルが繋いでいた手をぎゅっと握ってくる。見れば、私に向けられた顔は満面に不安をたたえていた。そんなベルに小さく頷いてみせる。彼女にここへ連れてきてもらったのは、こうして私という餌でヘルミーネを釣る為だ。なんの心配もいらない。
「契約成立だ」
私の言葉に、ヘルミーネがにいっと笑った。ティキの手綱は握ったままだが、その上から降りて私の目前に泳いでくる。
「ベル、手を離せ。今よりこやつはわらわのものじゃ」
「ヘルミーネ様……」
「聞こえなかったかのう? その手を離せ」
年若いベルでは、族長に物申すなどまず無理な話だ。ここまで私を導いてくれた小さな手が、ゆっくりと離れた。
「なんの役にも立たぬ小娘と思っていたが、面白い玩具を見つけてくるものよ」
ヘルミーネが私の顔を両手で包む。海中にいるせいで、その手は温かいのか冷たいのかすら分からない。
「魚の餌にするには惜しいほど絶美な顔をしておるのう。今からでも心を変える気はないかえ? そなたには不老を授けよう。その命尽きるまで、わらわのそばにいるとよい」
「不老に興味はないよ。きみと寝屋を共にするのは、今夜かぎりだ」
「強情な男じゃ」
ヘルミーネの顔が近づいてくる。種族特性の効果を付与し直すつもりのようだ。どれほど効果が持続するのかと不思議だったのだが、こうして付与し直すからには一日持つか持たないかというところか。つい効果が切れてしまったときのことを考えて、寒気を覚えた。海の底で酸素を求めてもがき苦しみながら死ぬなんて絶対に嫌だ。
ヘルミーネと私の唇が触れ合う。
これで私は、一晩ヘルミーネのものだ。
口づけついでというように、ヘルミーネが私に魔法をかけてくる。バクは魔法に長けている種族だから、もちろん元来持つ魔法抵抗力も強い。ヘルミーネがかけてきた睡眠魔法を打ち消そうと、ほぼ無意識に近い状態で魔力が作用した。
でもまあ、一応この場は空寝をするのがいいかもしれない。睡眠魔法が効かないからとむきになって変な魔法で気絶させられても困る。
そう思い、私はゆっくりと目を閉じた。




