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エルクラートさんちの夢喰日記  作者: Akira Clementi
第十一章 愛しいあなた

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第八十話

 翌朝も快晴だった。配達された牛乳を取りに外に出た私の頬を、トラキア山脈から吹き下ろす涼風が撫でる。


 キッチンで毎朝のように紅茶を淹れて、猫の悪夢をティースプーン一杯垂らす。紅茶の香りとともに立ち上るカラメルのようなほろ苦くも香ばしい匂いが、実に心地いい。


 ティーカップを手にのんびりしながら、そういえば人魚の夢はどんな匂いだったかと記憶を探る。


 町中に来ない人魚が夢喰屋を利用するわけがないのだが、もしかしたら私の一族の誰かが行きずりの人魚の夢をつまみ食いしているかもしれない。もしもその夢に関する記憶の遺産があれば、夢の匂いを辿ってヘルミーネの城に行き、カイルに関する記憶を奪える。そうすれば晴れてティキは解放され、レヴィからピケを返してもらえて全てが解決だ。


 だがそううまい話があるわけもなく、すぐにため息をひとつついた。


 それに考えてみれば、私はレヴィの巣の正確な場所を覚えていない。海の中はもちろん看板があるわけでもなく、どこもかしこも似たような景色ばかりだったのだ。覚えようがない。


 結局私がピケを助けるには、また誰か人魚の手を借りなければいけなかった。それになにか問題があるのかといわれると、ひとつだけある。


 種族特性の与え方だ。


 海の中でキス。


 嫌なわけではない。昨日の体験から、人魚のキスは潜水魔法よりもはるかに長時間効果が持続すると学んだ。海中で行動するにはとても便利である。


 しかし、私としては少し困る。


 なぜなら私はまだクーアとキスしていないからだ。


 それなのに出会ったばかりの女とほいほいキスをするだなんて、私の倫理観が泣いている。

 またため息が出そうになって、私は紅茶をぐいと飲み干した。


 人魚たちが何時頃から浜辺に転がっているのかは知らないが、さすがに涼しい朝のうちからではないだろう。全裸で日光浴をするにしては涼しすぎる。


 そんなわけで、私は午前中だけ店を開けようとさっそく準備にとりかかった。

 時折訪れる客の相手をしている間に、時間はのんびりと過ぎていく。それは普段と変わりない光景なのだが、今日ばかりは壁にかかっている時計の針が正午に近づくにつれて、私の心は重くなっていった。


 手を引くには後味の悪い物事が重なった結果今に至るのだが、ピケを助ける為にまた海中へ潜るのかと思うと、どうしても心が沈む。人魚の種族特性を信じていないわけではないが、潜水中にもしも効果が切れたらどうしようと考えてしまうのだ。

 それに上下左右あらゆる場所が青い海中も、レヴィの巣で見た深い海の底を思わせる闇も、なにもかもが泳げぬ私には恐怖の対象だ。足の力が抜けそうになる。ついでに圧迫感まで感じてしまって、陸にいるのに若干息苦しい。


 ちなみに私は、船には極力乗りたくない。理論上水に浮かなければおかしいのだと分かっていても、沈没したらどうするんだという不安が拭えないからだ。


 なお、泳げるように特訓をするという選択肢はない。泳がなければならぬ場所には近づかなければいいだけなのだ。


 極力泳ぐ必要を避けて生きていたいのだが、ピケを助けると私自身が決めたのだから、最後までやり通さねばならない。


 そうやって自分に言い聞かせる頻度も時計の針が進むほどに増え、昼で閉店作業をする頃には憂鬱と不安ばかりが私の中で渦を巻いていた。

 今日食べなければならない分の悪夢を昼食として元気のない胃に押し込んで、少し腹を休めてから外に出る。向かうのはもちろん人魚の群れがいる浜辺だ。


 浜辺に近づくにつれて、風が波の音や海水浴客の弾んだ声を運んでくる。


 昨日人魚の群れを見かけたあたりに行くと、彼らは今日も浜辺でごろごろしていた。よく眠るバクもだらだらごろごろするのは好きなのだが、さすがに夏の日差しの下でだらけようとは思わない。人魚たちは暑くないのかと純粋な疑問を抱いたが、実際こうして浜辺に転がっているんだから大丈夫そうだ。


「ベルはいるか?」


 別にベルにこだわっているわけではないのだが、キスの相手をほいほい変えるというのも少し抵抗感があって、私は一番近くにいた男の人魚にそう声をかけた。

 うつ伏せになっていた男の人魚が緩慢な動作でこちらを見上げる。彼は目を大きく見開くと、


「イケメンだ!」


 叫んだ。


「イケメンがまた来たぞー!」


 その声に、人魚たちが一斉に起き上がった。


「えっ、イケメン!」

「イケメン昨日ぶりだね!」

「イケメンも脱いで日向ぼっこしようよー!」


 人魚たちから声が上がる。なんかこのやり取り、昨日もした気がするぞ。嫌われないだけいいものの、この人魚たちはどれだけ他人の顔に興味があるんだ。


「ベルはいるか?」


 わらわら集まってきた人魚たちにそう声をかければ、


「はいはーい! ここにいるよ!」


 まっすぐ挙手をしながら、ベルが姿を現した。


「またヘルミーナのところに連れていって欲しいんだが」


 そう声をかけた瞬間、ベルの顔がわずかにくもった。だがそれは本当に一瞬で、元気な笑顔に戻って私の手を掴む。


「任せてっ。さあ、行こ!」


 ベルが私の手を引き、海へと駆け出した。


「いいなあベル」

「イケメーン、次は俺と行こうなー」


 背後から聞こえる人魚たちの声に、ベルが女性でよかったと胸を撫でおろした。人魚はキスする相手の性別を特に気にしないようだが、私はかなり気にするのだ。好意的に接してくれているのに申し訳ないのだが、いくら種族特性を得る為でも男と唇を重ねるのだけは避けたかった。


 昨日のように海に肩まで浸かり、ベルの口づけを受け止める。やけに長いなと感じたが、もしかしたら私がクーア以外の誰かとキスをするのに抵抗があるせいかもしれない。


 ベルに手を引かれ、ヘルミーネの城へと向かう。


 光るサンゴの城に住む族長ヘルミーナ。

 彼女はカイルの件さえなければ、この城に似合う美しい心を持った人魚だったのかもしれない。そうでなければ、変貌してしまった彼女を皆とっくに見捨てている。いくら族長といったところで、従う者がいなければなにもできまい。


「ヘルミーネ様になんの用?」

「気が変わってね。会いたくなったんだ」

「それって、恋?」


 ベルがちらりとこちらを振り返る。


「違うよ。私は交渉の為に会いたいんだ」

「そっか」


 昨日は海の中について色々話しながら泳いでくれたベルが、やけにおとなしい。人魚にしては珍しいショートカットをぼんやり眺めていたら、昨日のことを思い出した。


『私ね、恋をするのが少し怖い』


 昨日もこうして私の手を引きながら、ベルはそう言っていた。


 そしてその言葉の前にこうも言っていた。


『でもレヴィ様が守護しているのはあくまでも海で、陸に上がっちゃったらもうなにもできないでしょ?』


 なぜベルは、カイルが陸に上げられてしまったと知っているんだ?

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