第七十七話
「そのヘルミーネ様には、会えるのか?」
私の言葉に、ベルがすぐに頷いてみせる。
「うん。エルクラートさんならヘルミーネ様も機嫌よく会ってくださると思うよ」
たぶんその理由は、浜辺で人魚たちが私を取り囲んだのと同じ理由だ。特別確認しなくても、なんとなく分かった。
「すまないが連れて行ってくれ」
「任せて!」
にっこり笑うと、ベルは私の手を引いて泳ぎ出した。巨大なレヴィの巣の上を通り過ぎて、深いブルーの中を泳いでいく。
暫く進むと、周囲のサンゴに変化が現れた。
サンゴが仄かに輝いている。
赤やピンク、白といったふんわりした光が、周囲を満たしている。その光の森の中に、町が姿を現した。岩やサンゴを利用して作られた町を、色鮮やかな魚の群れや人魚たちが泳いでいる。
「このへんがあたしたちの町の大通り。へへ、綺麗な町でしょ」
「ずいぶん大きいんだな」
「まあね」
人魚も集落を形成するとは知っていたが、こんなにしっかりと町を作っているとは思わなかった。物珍しさからつい周囲を見回してしまう。これはいいものを見た。
まっすぐ伸びる大通りの奥。そこにそびえるのは、大きなサンゴの城だ。まるで絵本のような光景だった。
「ここがヘルミーネ様のお城だよ。あの、今からヘルミーネ様に会いに行くんだけど……その、ティキくんの扱いを見ても、気を悪くしないでね?」
幻獣リヴァイアサンの息子を誘拐した犯人に会いに行くだけでもあまり愉快な話ではないのだが、これ以上気分を悪くするようななにかが待っているようだ。
レヴィはこのあたりの海の守護者だと、ベルは言っていた。であるからにはベルたちの族長であるヘルミーネはレヴィの息子ティキを大切に扱わなければならないはずなのだが、いったいこの城でなにをしているのだ。あまり残酷なものは見たくないが、これからどうしてもティキの扱いを目にしなければいけない。それなりに覚悟をする。
ヘルミーネの城は出入り自由なようで、城の周囲にいる人魚たちは誰も私たちを止めなかった。
人魚の建築において、ドアというものはないようだ。城の入り口も、淡いピンク色に光るサンゴで飾り立てられた城内も、ドアらしいものを見かけない。考えてみれば水中でドアは開閉しにくい障害物でしかないので、ない方が楽なのか。
道中すれ違う人魚たちが、ちらちらとこちらを見てくる。クーアに褒められると嬉しいものも、どうでもいい者にやたら注目されるとうんざりしてしまう。別に人がどんな顔をしていてもいいじゃないか。
不愉快な気分を抱えながら辿り着いた広間では、壁際に大勢の人魚が並んでいた。彼らに見守られながら、ひとりの人魚が楽しそうにレヴィの息子ティキと思しきリヴァイアサンに乗っていた。ティキはレヴィに似ていて、真っ白な鱗が美しい。大きさはレヴィほどではなくて、私でも一抱えで済みそうなほど細かった。
それにしてもずいぶんおとなしく乗り回されているなと見ていて、それに気づいた。
ティキがつけられている毒々しい紫色に輝く轡は、ただの轡ではない。傀儡の轡という魔道具だ。ティキが白目を剥いているから間違いない。あれをつけられると、使用者の意のままに操られてしまう。装着者の意思が入り込む余地などまったくないから、休みなく死ぬまで働かせたりといったことが可能になるのだ。倫理に反するとして戦争以降は動物に対してすら使われなくなったものだが、まさかまだ作られ、使われていたとは。
思っていたよりヘルミーネは外道だった。
周囲に自慢するようにティキを乗り回していたヘルミーネが、こちらに気づく。
「ベル、その男は?」
「エルクラートさんです。人探しで海に来ました」
「ほう」
ティキに乗ったまま、ヘルミーネが近づいてくる。ヘルミーネは、人魚にしては少し変わった外見をしていた。蜂蜜のような色合いの豊かな金髪に碧い瞳、それに日焼けしたような小麦色の肌と、緑髪緑目色白という人魚たちの中にいたらかなり目立つ容姿をしていた。人間でいうと、三十代くらいだろうか。
暫く私を見ていたヘルミーネは、赤い紅を引いたような唇で艶やかに微笑んだ。
「誰を探しておる?」
「ピケというケット・シーだ。レヴィの巣にいると確認が取れた。彼女の息子と引き換えに返してもらう約束をしている。きみが今乗り回しているティキを解放してくれないか」
「……ベル、レヴィの巣に行ったのかえ?」
ヘルミーネの目がすっと細められた。ベルがびくりと震え、私の後ろへ隠れるように身を引く。
「ご、ごめんなさい、ヘルミーネ様」
「私を案内してくれただけだ。彼女が好き好んで行ったわけではない」
「ふうむ」
ヘルミーネの視線が、ベルと私の間を往復する。
「まあよい」
ヘルミーネは意外とあっさり機嫌を直してくれたようで、その顔に再び艶やかな笑みが浮かんだ。
「それで、この子の話だったか」
ヘルミーネが、指の間に水かきがついた手でティキの輪郭をついと撫でる。
「この子は捕まえるのに随分苦労したからのう。ただではやれぬな」
このヘルミーネという女、魔道具を使って人の子供を誘拐する外道だけあって欲深い。
「要求はなんだ」
どうせろくな話が出てこないんだろうなと思いつつも、一応問うてみる。もしかしたら「陸で流行っている菓子が食べたい」とか可愛いことを言うかもしれない。
しかし、私の淡い期待はあっさり砕け散った。
「そなたじゃ。そなたが夜伽としてわらわに仕えると言うのなら、この子を解放してやってもよい」
「断る」
ああ、脊髄反射で返事をしてしまった。
だが嫌なものは嫌なのだ。なぜネムノキと離れ離れになってまで、海の底で外道の夜伽をして暮らさなければならないのだ。ピケを助けるのに必要だとしても無理である。
それに私がいなくなってしまったら、誰がクーアの帰る場所を守るんだ。
私が光の速さで断ったのが相当気に入らなかったのか、ヘルミーナの顔から笑顔が消えた。人をからかうような色のあった瞳が、氷のような冷たい鋭さをはらむ。
「ならばこの話はなしじゃ。ベル、こやつをつまみ出せ」
それだけ言うと、ヘルミーネはさっさと私から離れていった。
「えっ、あの」
ベルがおろおろした様子で、私とヘルミーネを交互に見る。
「だそうだ。ひとまず退散といこう」
「え、わ、わかった」
ベルに手を引かれ、私はヘルミーネの城を後にした。
「エルクラートさん、次はどうするの?」
私の手を引いて人魚の町を泳ぎながら、ベルが問うてくる。
「これ以上できることもない。浜辺に連れ帰ってくれないか?」
「うん、いいよ」
気持ちよく返事をしてくれたベルが、速度を上げた。
「あのね、エルクラートさん。ヘルミーネ様のことなんだけど……あまり悪く思わないで欲しいんだ」
そう言われても、たった今見た光景のどこを見て悪く思わずにいられるだろうか。それでもベルは、言葉を続ける。
「ヘルミーネ様が変わられてしまったのは、恋人のカイルが……あたしのお兄ちゃんがいなくなってしまってからなの」
あいつ、恋人がいたのか。まさかの存在に、驚きが隠せない。いやしかしそのカイルとやらからしたら、ヘルミーネにもなにか唯一無二の魅力を感じる要素があったんだろう。私とクーアだって、なぜか互いに惹かれ合った。キールが言っていたではないか。「恋愛の前に理屈など不要だ」と。
「ヘルミーネ様はひどく落ち込んじゃって、暫く寝込んでたんだ。で、やっとあたしたちの前に姿を現してくれたと思ったら、あの調子でさ」
「そのカイルがいなくなった原因はなんなんだ?」
「人間に狩られたの」
なんだその捕獲の連鎖はと言いそうになって、思い直した。カイルはもう帰ってはこないだろう。
人魚はアンコウのようなもので、捨てる部位がほとんどない。最も有名な肉は不老長寿の妙薬になるし、それ以外も余すところなく魔道具の材料になる。しかし人魚漁は人間自身が法律で禁止と決めた。つまりヘルミーネの恋人カイルは、密猟者の餌食になったということだ。生きた人魚は真珠の涙を流すが、それよりも殺して切り売りした方が手早く大金を手にできる。カイルは既にこの世にはいないと考えるのが自然だ。
「それがなんでティキの誘拐に繋がったんだ。レヴィが密漁の手引きをしたわけではないだろうに」
「うん。レヴィ様はそんなことしなかったよ。てか、なにもできなかったっていうのか正解かな。あたしも自分で見たわけじゃないから噂しか知らないんだけど、ヘルミーネ様はお兄ちゃんが捕まったときに、レヴィ様に助けを乞うたんだって。でもレヴィ様が守護しているのはあくまでも海で、陸に上がっちゃったらもうなにもできないでしょ?」
ベルが言葉を濁す。
ヘルミーネがティキを誘拐した動機は、レヴィへの恨みか。恋人を助けてくれなかったのを恨み、代わりとでもいうようにティキを誘拐して、乗り回している。推測はできても、その所業に及ぶ気持ちは理解できない。
それでもピケを助けるには、まずはヘルミーネをどうにかしないといけないのか。レヴィはティキが戻ればピケを解放してくれると言っているのだから、ヘルミーネをどうにかするのが先だ。
「ねえエルクラートさん」
「うん?」
「恋って、そこまで心を狂わせるものなの?」
ターコイズブルーの海の中で、ベルがこちらを振り返っている。
恋は心を狂わせるか。その問いは、肯定も否定もできる。見境なくなる者もいれば理性を保ち聡明な判断をする者もいるのだから、一言で答えようがない。それでもじっと考えてみれば、共通するものはひとつあった。
「心を狂わせるのではない。優先順位を変えてしまうんだ。最も大切なものが他人とは変わってしまうから、はたから見て狂ってしまったかのように見える場合もある」
私だってクーアになにかあったら、平静を保っていられる自信はない。
「そっかあ」
ベルの視線が前方へと戻る。
「あのね、エルクラートさん。私ね」
繋いでいた手を、ベルがぎゅっと握った。
「私ね、恋をするのが少し怖い。皆は『人魚は恋に生きるものだ』っていうけど、恋を失ったヘルミーネ様はすっかり変わってしまった。あたしもいつかなにかの形で恋を失ったらヘルミーネ様みたいになってしまうのかなって思うと……怖いんだ」




