第七十六話
このままでは死ぬ。
本当に泳げないんだ。
ああ、最後に猫の悪夢をたっぷり入れた紅茶が飲みたかった。
まさか人魚によって海に引きずり込まれて死ぬだなんて。
「エルクラートさん、エルクラートさん」
ピケについて自分で調べようなんてしなければよかった。さっさと退散して、ココ先生に「ピケを知っている人魚がいる」と伝えておけば、こうはならなかったのに。ココ先生だって、ピケの手がかりは欲すれども彼を助けて欲しいなどとは言っていなかったではないか。
「ねえエルクラートさん、まだ足ついているよ」
「……ああ、そのようだな」
ベルの言葉で、私は現実に引き戻された。胸のあたりまで海水に浸かってはいるが、まだなんとか両足は地面についている。私の背がすくすく伸びるように産んでくれた母に感謝した。
しかしこれ以上は海に入れない。既に寄せてはかえす波で、体がゆらゆら揺れている。この以上の深さに進んだら、泳げぬ私に待っているのは死だ。
命の危機が目前に迫っている私の顔を、ベルの細い手が包んできた。なんの真似かと問う間もなく、彼女が唇を重ねてくる。
……は?
別にキスされるのが初めてというわけではないが、あまりにも唐突すぎる展開に頭がついていかない。それでも彼女の両手から伝わる体温や唇の柔らかな感触が、これは現実なのだと物語っていた。
熱を帯びた柔らかな感触が、そっと離れる。
「はい、おまじない終わり。これで海の中でも息ができるよ」
ベルが悪びれた様子もなくにっこり笑う。そういえば水に浸かって人魚とキスをすると、水中でも陸上と同じように活動できるんだったか。ようやく回り始めた頭が、人魚の種族特性に関する記憶の遺産を掘り起こしてくれた。これで今の出来事をクーアに知られても、浮気だと騒がれずに済む。
「さ、行こ」
ベルに手を引かれ、私は完全に海へと潜った。種族特性は魔法より信頼できる確実なものだと分かっていても、泳げない私からすれば疑念が拭いきれない。それでもいつまでも呼吸を止めているわけにもいかず、私は静かに口から息を吸ってみた。
鼻からは駄目だ。鼻で思い切り水を吸ってしまったときの痛みを思い出して、ぞっとする。ついでに幼い頃溺れた経験まで思い出して、陸に帰りたくなった。
それでもぎりぎりで帰ろうとしなかったのは、口に水が入ってこなかったからだ。
ゆっくり呼吸をすると、いつもと同じように息ができる。
自身を大きな気泡で包んで潜水する魔法もあるが、あれはそんなにたくさん空気を確保できない上に、酸素の残量が気になりすぎてとてもではないが落ち着けない。それと比べると水中での呼吸自体を可能にする人魚のキスは、多少私を安心させてくれた。鼻呼吸もできるのだと確認し終える頃にはだいぶ落ち着いてきて、周囲を見回す余裕が出てきたほどだ。
夏の陽が照らし出す海中は、明るいターコイズブルー。森のように広がるサンゴ礁の上を、黄色や青など色とりどりの魚たちが泳ぎ回っている。ベルに教えられてゆらゆらと揺れるイソギンチャクの触手の間に目を凝らせば、綺麗なオレンジ色のクマノミがこちらを見ていた。
ベルが少しずつ深く潜っていく。それに伴い、周囲の色がターコイズブルーから濃い青へと変化する。周囲を泳ぐ魚も、大きなものが増えてきた。それでもまだ海底は見えていて、足はつかない深さではあるものの周囲を案内しながら泳ぐベルの言葉と共に多少ほっとさせてくれる。
だがその安心感も、そこに到着するまでだった。
「ここだよ」
ベルが私を連れてきたのは、サンゴの森にぽっかり空いた巨大な穴だった。私たちが豆粒くらいの大きさに感じられるほど広い。光が届かぬ海の奥底まで穴は続いているのか、覗き込んでもただただ青く暗い闇がそこにあった。吸い込まれたらまず助からないだろう。人魚のキスの効果が切れたときのことまで考えてしまい、寒気を覚えた。
私と手を繋いだままのベルはというと、海で暮らす種族の余裕なのかけろりとしている。もしかして海にはこんな場所がほいほいあるのだろうか。だとしたらやはり海は恐ろしい。
「このあたりの海を守護している、レヴィ様の家。あたしたちの群れも、レヴィ様の守護を受けているの。ピケってケット・シーはここにいるんだ」
ベルの話しぶりからまさかここに入るのかと思ったが、違った。
「レヴィ様ー! レーヴィーさーまー!」
ベルが穴に向かって大声を張り上げた。ややあって、穴の中からズズズと不穏な物音がしてくる。まるで大きななにかが、暗い穴の底から這いあがってくるような音だ。
次の瞬間、穴から巨大な蛇に似たものが勢いよく飛び出した。荒い水流にもまれて、穴の縁まで押し流される。
仄暗い海の中でさえ輝いて見える白い鱗。髪飾りのように頭の左右を飾る大きなヒレに似た耳に、ドラゴンのような眼光鋭い顔。
穴から出てきたのは、リヴァイアサンだった。
海の伝承として古い言い伝えは耳にしたことがあるが、実物は初めて見た。
人間たちはリヴァイアサンを魔物に分類しているが、こいつはそのへんの魔物とは格が違う。世界の創造神が海の守護者としてこの世に遣わしたとされる、『幻獣』というものだ。その生態は一切不明。神話の時代から生きているとも、毎年生まれ変わるとも言われている。
このでかい穴は、リヴァイアサンの巣だったのか。
「ベルですか。どうしました?」
レヴィ様と呼ばれたリヴァイアサンが、存外穏やかな声で言葉を発する。声からするに、女っぽい。リヴァイアサンに性別があるなんて聞いたこともないので、なんとなくそんな雰囲気だなあという程度の感想なのだが。幻獣は出会うこと事態が非常に稀なので、ほとんど研究が進んでいないのだ。
「レヴィ様、お客様をお連れしました。ピケに会いたいそうです」
リヴァイアサンはときに鯨に喩えられる。だからリヴァイアサンに捕らえられたピケの夢に、不気味な鯨が出てきたのかもしれない。
それにしても、リヴァイアサンが小さなケット・シーをどうする気だ。肥えさせて食料にするにしても、小さすぎて物足りないだろうに。ピケでは一口分にも満たない。
「ピケに何用ですか?」
レヴィがずいっと顔を寄せてくる。
でかい。
ドラゴン面のレヴィは、顔面の真ん中に細い鼻穴が一対開いている。そこから吸い込まれてしまいそうなくらい、でかい。陸生のドラゴンとは比べ物にならない大きさは、幻獣云々というより海ならではのものだろう。海はとにかく巨大な生物が多い。そこもまた、私にとっては軽く恐怖を覚えるものだ。
「ピケが所属しているアカデミーが、彼を探しているんだ。返してもらえないか」
「なりません」
レヴィが強い口調で即答した。切れ味抜群の返答だ。
「ピケは神よりの賜りもの。我が後継者として、この海で生涯を過ごす定めなのです」
「ピケはケット・シーだ。リヴァイアサンの後継など無理な種族だよ。寿命もおそらくあなたが思っているよりずっと短い。返してくれ」
「くどいですよ」
ピケは生きているようだが、レヴィに彼を手放す気は皆無だ。レヴィ自身が神から与えられたものだと言っているし、後継者にする気満々のようなので、そう簡単に手放してくれるわけがないか。
ピケの居場所は分かったものの、このまま引き下がってココ先生にバトンタッチというのはさすがにひどい気がする。ココ先生になにかしらの恩義があるわけではないのだが、人間が相手をするには難しそうな幻獣を前に手を引くのは、後味が悪すぎた。
仕方ない。どうにかしてピケを取り戻すか。
「どうしたらピケを返してくれる?」
「バクよ、あのケット・シーにこだわるのはなぜですか。まずはそれを聞かせなさい」
レヴィはバクという種族を知っているのか。海の中のことしか知らないとばかり思っていたので意外だ。しかしまあ人魚のベルも私を見てバクだと分かっていたし、あまり不思議ではないか。
「ピケは私に夢喰いを頼んできた客だが、彼から取り出した夢には少々異常が生じている。それを解決する為に、彼を連れ帰らなければならないんだ」
レヴィが沈黙した。私を見たまま、なにか考えているようだ。
「あのケット・シーを返して欲しければ」
ゆっくりまばたきをひとつして、レヴィが言葉を続ける。
「私の息子を探してくるのです。生きている息子と引き換えならば、あのケット・シーを返しましょう」
一方的に言うと、レヴィはまたズズズと地響きをさせて穴の中へと戻っていってしまった。
レヴィには息子がいるのか。
レヴィの息子が行方知れずになっていたときにピケを見つけて、喪失感を少しでも埋めようと子供代わりにしたといったところだろう。濡れるのを嫌がるケット・シーは海では珍しいから、レヴィが『神からの賜りもの』と捉えても不思議ではない。それならばピケを生かしているのも頷ける。
「ベル、レヴィの息子はいつから行方不明なんだ?」
手を繋いだままのベルに問う。すると彼女は、非常にばつが悪そうな顔をした。
「あー、いや、その、行方不明っていうか……」
「なんだ。はっきり言ってくれ」
「うんとね……私たちの族長であるヘルミーネ様が、ずっとそばに置いてるの」
息子の誘拐犯はあっさりと判明した。私たちはよくレヴィに食い殺されなかったな。




