第七十三話
過去に数回訪れた経験はあるが、いつ来てもスティアアカデミーは広い。海洋生物を飼育・研究する設備以外にも実際に船を浮かべて訓練する施設などもあるから、当然ではあるのだが。
正門を通ってすぐに広がるのは、青々とした芝生の広場だ。寝不足のせいで見ているだけで寝転がりたくなったが、夏の暑さが私を止めてくれた。
ざっと見回したかぎり、生徒たちの姿もない。授業中か。
そばに設置されていた案内板に従い、事務局を目指して白い石畳を歩く。時間にして五分もかからずに、事務局に到着した。校舎内をあちこち歩くとなると大変だが、事務局は正門から非常に近いので助かる。
白とオレンジという二色のレンガ造りの事務局に入ると、私はさっそく一番近くのカウンターへと向かった。
「おや、エルクラートじゃないか」
カウンターの中で新聞を読んでいた初老の人間の男が、私を見てそんな声を出す。
金の小鹿亭の常連、べっ甲眼鏡がトレードマークのシモンズだ。よれたシャツを着て袖をまくり上げている姿は、まるで家でくつろいでいるかのようである。
たいていひとりで金の小鹿亭を訪れるシモンズは、私と同じでカウンター席を利用する。一緒になることも少なくないので、二人で飲むうちにいつのまにか名前を覚えてしまった。
まあ私の顔と名前は商売のおかげである程度知られているから、付き合いがない相手にも名前を呼ばれはするのだが。初対面にもかかわらずいきなり私を愛称で呼び捨てにしたクーアがいい例だ。それに最近だとピケも私の名前を知っていた。
「今日はどうした。入学希望か?」
「魚は学ぶより食べたいものだね」
「はは、そうかそうか」
シモンズも私もお互い素面のはずだが、顔を合わせれば金の小鹿亭と同じ調子になる。
「で、誰に用だ? 暇でも潰そうと俺に会いに来てくれたわけではないんだろ?」
「水産研究科二年のピケという生徒だ」
「ピケ? 水産研究科の、ピケか? あのケット・シーの」
「ああ、そのピケだ。先日うちの店を利用した件で、少し確かめたいことがある」
「ピケ……」
シモンズの表情が曇った。顎に手を当てたまま、黙り込んでしまう。
なんだ、いったいどうした。ピケはなにか問題でも起こしているのか。
返答を待っていると、シモンズが小さく息をついた。
「……座って待っていてくれ。ちょっとばかり時間をもらうが、なにか飲み物はいるか?」
「いや、いいよ」
「じゃあこれをやる」
シモンズが今まで読んでいた新聞を差し出してくる。時間潰しの本は持ってきていなかったので、私はありがたくそれを受け取った。シモンズはというと、近くの職員と何事かを話して事務局を出ていく。
時間がかかるというのなら、のんびり待たせていただこう。私は窓辺のソファに座ると、さっそく新聞を広げた。シモンズが折り目をつけていたページを見ると、最近イリュリアで流行っているスイーツ『塩ジェラート』の特集記事が載っていた。塩バニラに、塩スイカ、それから塩モモに、塩キウイ? 本当に美味いのか? ああでも帰りに冷たいものを食べるのもいいな。せっかくだから寄って帰るか。バニラとスイカどちらにしよう。
そんなことを考えたりしながら、のんびり新聞を読み進める。
全て読み終えた頃に、シモンズが戻ってきた。ピケを連れてきてくれたのかと思いきや、彼よりも年上に見える女教師を連れている。外見から判断するに、種族は人間っぽい。ブラウスとペンシルスカートという出で立ちの彼女は、すっと伸びた背筋が美しい。頭を大きく動かした拍子に、肩にかかる髪をまとめている螺鈿細工のバレッタがきらりと輝いた。
「待たせたな」
女教師と会話を終えたシモンズが、彼女を連れたまま私のもとへやってくる。読み終えた新聞を返しながら、私はソファから立ち上がった。
「おかげで有意義な時間を過ごせたよ。ところで、そちらは?」
「ピケのクラスを担任している、ココ先生だ」
ピケを呼んだつもりが、担任が出てきた。いよいよピケの夢喰いでなにか失敗してしまったかと不安になる。全寮制のスティアアカデミーでは、生徒の生活面で起きた問題を教師が知っていてもおかしくはない。
簡単に挨拶を済ませると、ココ先生は私を事務局の奥にある応接室へと通してくれた。席についてまもなく、ノックがしてシモンズが二人分のコーヒーを運んできてくれる。飲み物が出てくるということは、私のミスでピケが困っているわけではないようだ。
たぶん。
そう思いたい。
シモンズが退室すると、私の向かいに腰かけたココ先生が口を開いた。
「ピケくんですが」
ココ先生が目を伏せる。ややあって、意を決したように彼女の明るい茶色の瞳が私を見た。そこには切迫した光が浮かんでいる。
「十日前の外海実習で行方不明になったままなんです」
「十日前?」
思わず訊き返した私の言葉にココ先生は静かに頷いた。
「実習船が大きな嵐に遭遇したんです。その際に生徒が数名海に落下しまして……」
「その落下した生徒たちの中に、ピケもいたと?」
「ええ。他の生徒たちは無事救助されたのですが、ピケくんだけが見つからないんです」
「まだ実習中ですか?」
「いいえ。もう終了して、実習船も帰港しています」
私がピケと会ったのは六日前だ。なんらかの方法でこっそり外海から実習船より早く帰ってきたピケが来店したと考えるのは、無理がある。それに店でアカデミー生だと自己紹介したピケだ。無事に助かったのだとしたら、まずはアカデミーに連絡する。
可能性はほぼ無いに等しそうだが、一応ピケがアカデミーに帰りにくい理由がないか確認してみるか。
「ピケが学校生活や交友関係で悩んでいて、アカデミーに戻りにくいといった事情はありますか?」
「いえ。成績も優秀でしたし、人当たりや面倒見もいいので学年問わず様々な生徒から慕われていました」
そこまで話してから、ココ先生がはっとしたような顔をする。
「もしかして、ピケくんがエルクラートさんを訪ねたのですか?」
「ええ。夢喰いをして欲しいと来店はしたのですが、それが六日前のことです」
特に隠す話ではないので、私ははぐらかさず言葉にした。
それがよくなかったようだ。
ココ先生の顔から、すうっと血の気が引いた。
非常に嫌な予感がする。たとえば、
「実は……ピケくんが行方不明になった頃から、校内でピケくんの幽霊が目撃されているんです」
そうそう、幽霊とか。
……えっ?
「ピケの、霊?」
ココ先生が静かに頷いた。
よりによってな話になってしまった。あいつらは大嫌いだ。元々そういった魔物の種族というわけではなく生者の肉体から抜け出た類の霊は、気づいてもらおうとあの手この手でアプローチしてきて、存在に気づくとこちらの都合なんてお構いなしにぐいぐい迫ってくる。怖いとかそういう理由ではなく、ひたすらに面倒だから嫌いだ。
しかしおかげでピケの悪夢の味がスカスカしている原因が分かった。
霊は肉体を持たない、精神体――魂だけの状態だ。魂は非常にもろいので、特になんの対処もしなければあっという間に風化してしまう。もちろんそれは魂と結びついている夢もだ。霊の持つ夢はあらゆるものが魂と共に風化し、味が薄くなる。
察するに、ピケの霊は嵐の海で亡くなった恐怖でいっぱいといったところか。その苦しみから逃れようとして、夢喰屋である私のところに来たのだろう。幽霊ならば味がスカスカしていて当然だ。




