第七十二話
夏の夜に涼がとれるという点ではいえば、いいのかもしれない。ピケの悪夢をもりもり喰らって追体験した最初の頃は、能天気にそんな感想を抱いた。
というのも、ピケの悪夢の舞台は冬の海なのだ。
イリュリアには流氷は流れてこないものの、旅行記でそんな海があると読んだ覚えがある。氷が浮くほど寒いのに凍らないのだから、海とは偉大だ。
ピケの悪夢では、暗い色合いの海に巨大な氷の塊が浮いていた。よく見ればそれは、のけぞった姿のまま氷に囚われたクジラだと分かる。私が一体化している悪夢のピケの意識によれば、その氷漬けのクジラを実習船で引っ張っていこうとしているところだった。ピケの乗っている実習船は平均的な漁船と比べるとけっこう大きなものだが、やはりクジラの方がずっと大きい。
というか、大きすぎる。
氷漬けのクジラと比べると、ピケの乗っている船なんて小指の先ほどしかない。さすがにこんなに大きなクジラがいるとは聞いたことがなかった。夢ならではの大きさといえる。
そんな巨大な氷漬けのクジラに、船から発射されたアンカーがいくつも撃ち込まれる。大きさがあまりにも違いすぎてアンカーが無意味に思えるのだが、そこはさすが夢。実習船に引っ張られて、巨大な氷塊はゆっくりと動き出した。
アンカーが外れる様子はない。このまま無事に目的地まで引っ張っていけそうだと、ピケが甲板から氷塊を眺める。すると、ピケが見ている前で氷塊がぼろぼろと崩れ出した。あれよあれよという間に氷が剥がれ落ち、アンカーが外れ、クジラが丸出しになる。
「一班から三班! 飛び込め!」
教師のものらしい声が聞こえて、ピケが動いた。甲板から次々飛び込む生徒たちに続いて、勢いよく海へと身を躍らせる。
凍ったクジラに生徒たちが近づき、皆でその巨体を支えながら泳ぎ出す。船が小指の先くらいだから人などもう芥子粒ほどもないのだが、それでもクジラは生徒たちに押されて動く。このまま目的地まで押して行く気だ。
もちろんピケも海に飛び込んだのだから、クジラを懸命に押しながら泳いでいた。凍ったクジラは突き刺すような冷たさで、肉球がじんじん痛む。しかし手を離すわけにはいかない。
意外とあっさり運べていたクジラだったが、異変が起きた。
岩のように硬く凍っていたはずのクジラが、少しずつ柔らかくなっていく。のけぞっていた体が解凍され、元の姿勢へと戻る。大きな尾が、胸びれが、派手に海面を打った。
ピケが激しい波に飲まれまいとクジラにしがみつこうとするが、爪を立てたところでクジラの丈夫な皮膚にはこれっぽちも刺さらず、つるつる滑るばかりだ。それでもどこかないかと必死に泳いでいると、海水がごうごうと流れ出した。流れる先にあるのは、クジラの顔だ。見れば、クジラがゆっくり口を開いている。一度流れに捕まったピケの体はどんなにもがいても抜け出せず、海水と共にクジラの口の中につるりと流れ込んだ。
潮の匂いと、むせかえるような生臭さ。
澄んだ空気を求めながら、ピケの意識は闇の中へと落ちていった。
***
思い切り息を吸い込んでむせてしまい、目が覚めた。荒く息をしながら感じるのは、潮の匂いと生臭さだ。私を飲み込もうとしたピケの夢が、まだ体にまとわりついている。
全身がびっしょりと濡れているのは、寝汗ではない。夢の中で被った海水だ。
バクは夢の中に魂ごと溶け込むことがあるのだが、そうすると体験した物事がこうして現実にも影響を及ぼす。なにか美味いものを食べる夢なら腹が満たされて目覚めるのだが、冬の海に飛び込んだピケの夢ではこんなふうに海水まみれで目が覚めた。一緒に漂っている生臭さは、クジラの口の中で感じたものだ。ストレートに気持ち悪い。
こんな状況が、もう五日も続いていた。
まだ夜明けが遠い寝室は暗い。それでもこのまま寝直すわけにもいかず、ベッドを出る。そばにあるランプに魔法で火を灯すと、びしょびしょに濡れたベッドの姿が浮かび上がった。もちろん私が盛大に粗相をしたわけではない。私がこれでもかと浴びた海水のせいで濡れているのだ。ピケの夢を見るたびにこうなのだ。とてもではないが寝直せない。
悪夢で疲れている起き抜けに魔力の大量消費は、更に疲れるのでしたくない。だがこのままほうっておけば、ベッドを買い替えなくてはならなくなる。仕方ない。
洗濯洗剤を持ってきて、マットレスから布団まで魔法で丸洗いする。魔法で呼び出した風で乾かしている間に、新しいパジャマに着替えた。さすがにマットレスはなかなか乾かないので、風で乾かすと同時に魔法で水気を抜く。
ベッドがすっかり元通りの綺麗な姿になる頃には、完全に目が覚めてしまった。カーテンの隙間からも朝日が差し込んで、朝の支度をした方がいいと告げている。
もういい。このまま朝食にしよう。
寝不足で重い体を引きずるようにして、私は寝室を後にした。
裏口に配達された牛乳を回収してから、キッチンに向かう。配達されたばかりの牛乳と食糧保存庫にあった卵、それから買い足したばかりの小麦粉で作るのはパンケーキだ。
ボウルに牛乳、卵黄、小麦粉を入れてよく混ぜ合わせる。卵白は別のボウルでたっぷり泡立ててメレンゲにした。生地に少しずつメレンゲを入れて、さっくり混ぜ合わせる。バターを落としたフライパンにセルクルを置き、それに生地を入れてじっくり焼けば、頬ずりしたくなるようなふかふかのパンケーキのできあがりだ。
皿に盛りつけたふるふると揺れるパンケーキにバターを乗せて、上からピケの悪夢をたっぷりかける。ピケの悪夢はクロスト瓶に入っているから急いで消費する必要はないのだが、毎朝最悪の目覚めを演出してくれるのでさっさと食べ終わってしまいたかった。
パンケーキを焼いている間に用意した猫の悪夢入り紅茶と共に皿を運び、テーブルにつく。紅茶を一口。ほろ苦いカラメルのような猫の悪夢の風味が、甘い味わいの紅茶によく合っている。毎朝の楽しみである紅茶のおかげで、少し元気が出た。
続いて、ピケの悪夢をたっぷりかけたパンケーキを口にする。猫の悪夢に似た匂いがする悪夢は蜂蜜のようにバターと絡み合い、なんて美味いふかふかパンケーキ……と見せかけて、実際バターの味しかしない。ケット・シーの悪夢は蜂蜜もどきだから蜂蜜に似た味がするものなのに、どんなに味わっても水で伸ばしたかのような薄っぺらい味しかしない。猫の悪夢に似たあの甘美な匂いもさっぱりだ。
一般的なケット・シーの悪夢と比べると、ピケの悪夢は全体的にスカスカしている。
悪夢は熟成具合によって味に差が出る場合がある。ピケの悪夢は魂を浸食するほど熟成していたのに、あまりにも風味が薄すぎた。ケット・シーの悪夢は若いものでもちゃんと蜂蜜のような味がするので、こんなに薄味なのはありえない。私を取り込もうとするほどの力を持つ悪夢の味としては、あまりにも奇妙なものだった。
私の体調も悪くはない。現に、ピケの悪夢以外はいたって普通に味も香りも感じる。
純粋にあまり美味さを感じられないというのも、私がピケの悪夢をさっさと消費してしまいたい理由のひとつだった。
なんだか虚しい食事を猫の悪夢入り紅茶で慰めて、朝の支度をする。その間も頭の中では、ピケの悪夢について考え続けていた。毎日口にするたびに首をひねる味の理由が気になって仕方ない。
クロスト瓶にはたっぷり入っているのに、肝心の味がしない悪夢。
まるでそれは、ピケという存在自体がないのだと言っているかのようだ。
もしかして、ピケの悪夢を全て取り出しきれていないのだろうか。命に関わるレベルの夢喰いでミスをしたとは考えたくないが、喰らった悪夢の味がおかしいとなればいよいよそれを疑うしかなくなる。
もちろん私としてはミスをした覚えはないし、肝心のピケが再訪しないからには私の夢喰いに問題はないはずだ。それでも、一度芽生えた不安感はなかなか消し去れない。むしろピケの悪夢について考えるほどに不安感はむくむくと膨らんで、私を苛む。
たしかピケは、スティアアカデミーの生徒だと言っていたな。
スティアアカデミーは、海洋研究・技術者の育成を目的とした全寮制の学校だ。イリュリアが誇るそこには、様々な種族が集まっている。魚の運搬について研究しているというケット・シーのピケが通っていても、なんら不思議ではない。
ピケの学部は、水産研究科だったか。
悪夢を取り出し終えた夢主に会いに行くというのはあまりないのだが、一度会いに行ってみよう。私のミスでピケの悩みが解決していないというのであれば申し訳ないし、私の評判に傷がつく。家の名誉を掲げて商売している身としては、耐え難いものだ。
そうだな。アカデミーに行ってみよう。




