第七十一話
こちらとしては、好みの味だと分かっているから全く困らない。むしろ少しでも多い方が嬉しい。しかしはいそうですかとすんなり受けるわけにもいかなかった。
「全部か?」
「はいニャ」
ピケはまっすぐ私を見つめている。大真面目なようだ。
「どんな夢喰いでもそうだが、喰らえばその夢に紐づいている記憶も失われる。記憶の遺産は、きみの魂を構成する大切なものだ。それを夢喰いで一度に大量に失えば、きみの魂に傷をつけ、最悪死ぬ可能性もある。少しだけ悪夢を抜いて、夢屋で意識を悪夢から逸らせるようないい夢を入れてもらう方が安全だよ」
ケット・シーの悪夢が美味いとは言っても、ほいほい取り出すわけにはいかない。深い夢喰いにつきまとう危険は説明する必要がある。そのせいで手に入る悪夢の量が減ったとしても、命に関する話なのだから仕方ないのだ。仕事というものは辛い。
そんな私の前で、ピケはふるふると首を横に振った。
「ううん、全部食べて欲しいのニャ。今度アカデミーの実習船に乗るんニャけど、悪夢が現実になってしまいそうで、怖くて怖くて準備に集中できないのニャ」
悪夢が正夢になったら困るから手放したいという夢喰いの理由は、さほど珍しくもない。幸運が転がり込むのを期待して吉夢を買うのと似ている。
「こんなんじゃ、村にお魚をたくさん運ぶ為の研究も全然手につかないのニャ。皆、いろんな種類のお魚を食べられるようになるのを楽しみにしてるのに」
ピケの長いひげがしゅんと下を向く。そんなに悩んでいるのか。
「そういうことならば、悪夢を全て喰らうという方向で話を進めさせていただく」
私の言葉に、ピケのひげがふわあっと広がった。ついでに大きな目がきらきら輝いている。まるっきり猫だ。可愛い。
「その悪夢は、犯罪に関するものではないな?」
「もちろんニャ。僕は品行方正で先生たちの覚えもめでたい優等生だもんニャ」
ピケが胸を張る。店に張り巡らせている嘘探知の魔術は反応しない。優等生というところまで全て真実ということだ。
「目を見せて」
ピケの前にしゃがんで、くりくりとした瞳を覗き込む。もやのような大きな悪夢にまとわりつかれた魂の状態が見えた。魂が若干濁っている。
「深刻な悪夢で、魂が濁っているな。このレベルの悪夢を取り出して喰らうとなると、きみだけでなく私にも危険がつきまとう。悪夢に引っ張られて、死ぬことすらできず一生悪夢に囚われる可能性も考えられる」
いくらピケの悪夢が美味いと分かっていても、安請け合いしてそんな目に遭うのはごめんだ。悪夢に囚われてしまったら、助かりようがない。悪夢の一部となってしまった状態から助かる方法は、いまだ発見されていないのだ。
「きみと私の安全を確保した上で、悪夢だけを取り出し、君に二度と戻らぬように全てを喰らう。その危険な行為を間違いなくやり遂げる契約の証として要求する金額は、それなりのものになるが……」
「お金は残念ながらそんなに持ってないのニャ。でも、僕の宝物でなんとかならないかニャ」
そう言って、ピケがなで肩に掛けていた鞄に手を突っ込んだ。ぱんぱんに膨らんだ鞄の中から出てきたのは、私の拳ほどもある藍色の石だ。ピケが高々と掲げたそれは、深い色合いにもかかわらず不思議と光を通す。石を通った光が、床に美しい色を落としていた。
藍晶石だ。これほど大きな結晶は、私も初めて見た。
藍晶石は眼病の妙薬とされ、ときに失明すら治す。だが魔力が豊富な土地の清流でまれにしか見つからない石なので、非常に高価だ。
ケット・シーは比較的魔力が多い土地に集落を形成するので、彼らは時折藍晶石を売っている。ケット・シーのピケが持っていても不思議ではない。しかしこんな大物を目にする日がくるとは思わなかった。これを売れば暫くは働かなくていい。それくらいの価値がある。
「僕が村を出るときに、皆が持たせてくれたのにニャ。これでお代は足りるかニャ?」
「充分だが、そんな大事なものをいいのか?」
「もちろんニャ。村でいろんな種類の新鮮なお魚がたくさん食べられるようになる日を、皆心待ちにしているのニャ。その研究をする為に必要な夢喰いをお願いするんだから、皆も『いいよ』って言うはずニャ」
ほい、とピケが差し出した藍晶石を受け取る。ピケの命だけでなく彼の村の人々の願いも託されたような気がして、背筋が伸びた。
「こちらへどうぞ、お客様。あなたの悪夢、全て喰らいましょう」
受け取った藍晶石を棚に置き、ピケにロッキングチェアを勧める。
とてとて小さな足音をさせながら近づいてきたピケが、ひょいと椅子に飛び乗った。小さな体を抱きとめるように揺れた椅子にそのまま深く腰掛け、目を閉じて心地よさそうな顔をする。こうしていると本当に大きな猫にしか見えない。
「喰らって欲しい悪夢を、思い出して。ゆっくり、ひとつずつ、明確に」
ピケの胸元に右手をかざし、反時計回りにくるくると撫でるように動かす。ピケの体から、黒煙がすうっと上がった。黒煙はどんどん湧き出て、やがてピケの体の何倍も大きな塊となった。ずいぶんな悪夢の量だ。
悪夢を全て出し終えてから、棚に常備しているうちの店のクロスト瓶を持ってくる。もわもわと雲のように漂っている悪夢の下にクロスト瓶を近づければ、黄金色の蜂蜜に似たものがたらりと垂れてきた。ふわりと漂うほろ苦いカラメルのような匂いが鼻をくすぐる。
ケット・シーの悪夢は、本当に猫の悪夢によく似ている。ピケのおかげで何日かはちょっと贅沢ができそうだ。悪夢が全てクロスト瓶に入ったのを確認して、しっかりフタをした。これでこの悪夢はもう逃げられない。
悪夢を取り出されたピケは、なんとも平和そうな顔で寝ていた。悪夢を取り出された後はたいていぼんやりするものだが、まさか寝るとは。
「おいピケ、起きろ」
「ンニャア……ニャン?」
なで肩をぽんぽん叩けば、ピケは目を覚ましてくれた。大きく伸びをして、にっこり笑う。
「なんだか体が軽くなった気がしますニャ」
「それはなによりだ」
ピケが軽やかにロッキンチェアから飛び降りて、しっかりとした足取りで元気に店を出ていく。
たまに振り返っては手を振っていたピケの姿を、私はしっかり記憶している。
このとき私はたしかにピケというケット・シーの相手をして、彼の依頼を受けた。
そのはずだった。




