第六十八話
チョコが焼ける甘い香りがたちこめている。今日のおやつは、チョコチップクッキーらしい。大きなチョコチップがたっぷり入ったクッキーの味を思い出したら、腹の虫がくうと小さな鳴き声を上げた。
「エル、おやつの時間よ。おばあちゃんとお父さんを呼んできて」
「うん」
キッチンの母に返事をして、読んでいた本を閉じ、椅子から下りる。
背伸びして窓から庭を見る。晴れた空の下、すっかり白くなった髪をくるくると結い上げた祖母が、背中を丸めて花壇の手入れをしていた。あの花壇は花が好きな祖母が趣味で作ったものだ。だから定期的に訪れる庭師ではなく、祖母が自分で手入れをしている。
「ばあちゃん、おやつだよ」
窓から声をかけると、祖母が立ち上がってとんとん腰を叩いた。
「おや、もうそんな時間かい」
庭いじりの道具をバケツにまとめて、祖母が家の裏口へと向かう。
次は店にいる父だ。
廊下を進み、店と家と隔てているドアをノックする。ドアを開けると、ロッキングチェアで父が読書をしていた。客の姿はない。
「父さん、おやつだって」
「ありがとう。今行くよ」
銀縁眼鏡がよく似合う父が本に栞を挟み、立ち上がって大きく伸びをする。
その間に私は、近くにある棚へと向かった。中から「休憩中」の看板を取り出し、店の入り口のドアを開けて外側にかける。これがないと客が入って来てしまうから、ゆっくりおやつが食べられない。
店内に戻ると、父が頭を撫でてくれた。
「今日のおやつはなんだい?」
「チョコチップクッキー」
父と会話をしながら、母のもとへと戻る。
テーブルには美味しそうなクッキーと、四人分の紅茶が並んでいた。もちろん猫の悪夢が入った瓶もある。あれを入れた紅茶は最高だ。
「ばあちゃん、夜になったらネムノキの夢食べていい?」
「悪夢を見ていたらね」
「あらやだ、お父さんったら口の横にチョコつけちゃって」
「ええっ? おや、本当だ」
なんでもない雑談を交えながら、皆でのんびり過ごす。この時間が大好きだった。
紅茶を少し飲んで、三枚目のクッキーを食べようと手を伸ばす。
そのとき、ドアを物凄い勢いで叩くような音がした。
「エルクラートさん! エルクラートさん!」
誰かが私の名前を叫んでいる。そんなにドアを叩かないで欲しい。こっちは今おやつを食べるのに忙しいんだ。少し静かにしてくれ。
「エルクラートさんってば! いるんですか!」
うるさいな。まだ店は開けていない。ドアに鍵がかかっているんだから分かるだろうに。
ん? 鍵?
鍵、かけたか?
「エルクラートさん! 生きてたら返事してください! あっ、開いてる。入りますよ!」
待ってくれ、営業時間外だ。勝手に入られても困る。ドアベルが鳴った。本当に入ってきた。なんでこんな真夜中に私の店が開いていると思ったんだ。
真夜中?
今は、いつだ?
掴もうとしたクッキーが、私の手から逃げるように遠ざかっていく。
いや、クッキーだけではない。
テーブルも、家族も、まるで私だけ置き去りにするように遠のき、ふっと消えてしまった。
ああ、私のクッキー。紅茶だってまだ少ししか飲んでなかったのに。
「エルク……ぎゃあああああああああああっ!」
やかましい叫び声で、現実に引き戻される。目を開けて辺りを見ると、エプロンをつけっぱなしのマルセルが腰を抜かしていた。
「どうしたマルセル、何事だ」
「ひあっ! 喋った!」
そういえばバクのローブを着たままだった。これではマルセルには頭しか見えない。胸元の留め具を外す。これで私の体が見えるはずだ。
ついでに店内の壁にかけていた時計を見ると、時刻は十一時半。カーテンの向こうはまだ暗い。真夜中じゃないか。何を考えているんだ。
呆れる私の前で、マルセルがほっと息をつく。
「よかった、生きてたんですね。生首だったから本当に死んだかと思いましたよ」
「すまなかったな。それで? 今度はどんな噂が流れたんだ?」
「エルクラートさんがバンシーに連れていかれたって聞いて、走ってきたんです」
ネネリアの声は驚きの大音量だったから、誰かの耳に入ったらしい。誰かまでは知らないが、そいつが金の小鹿亭に行き、マルセルに話したのか。
「安心してくれ。見てのとおり無事だ。それより店はいいのか? オリヴィアだけでは料理が作れないだろう」
「それどころじゃないですよ! エルクラートさん最近店を閉めっぱなしだとか噂になってるし、そうかと思えばバンシーに連れていかれたなんて話が飛び込んでくるし、そりゃあもう心配で心配で……」
「ああなんか悪かったな。だから泣かないでくれ」
「うう……」
マルセルが大きく鼻をすする。
「本当に心配したんですよ」
「そんなにか」
「だってエルクラートさんがいなくなったら、誰が俺の肩こり治してくれるんですか」
マルセル、うちはマッサージ屋ではないぞ。夢喰屋だ。肩こり解消の為に利用されても困る。
「でもよかったです。こうしてご無事な姿も見れましたし……って、エルクラートさん、なにかいいことでもありました? 表情がいつもより明るいですけど」
ついさっきまで腰を抜かして更には泣いていたくせに、今度は不思議そうな顔をする。そんなマルセルを見ていたら、つい笑いがこぼれた。
「懐かしい夢を見ていた。それだけだ」
そう、夢を見ただけ。
とても懐かしい夢に、浸っていただけた。




