第六十話
ため息をつきながら立ち上がった途端、全身の血の気が退くすうっとした感覚にふらついて、テーブルに両手をついた。ぐらつく視界にちかちかとした光が散らばり、眼球が脈打っているかのような圧迫感がある。
「他のバクを頼れないから、あんたはアタシを自力で引き剝がそうとした。その口の悪さだ。どうせその性格が原因で、群れからつまはじきにされたんだろう? 哀れなものだね」
耳元で囁くナイトメアの声が、水中で聞いているようにくぐもっていた。
決して私は、こいつが言うようなはぐれバクではない。今まで他のバクをちゃんと助けてきた。なんならこのイリュリアにいる群れのバクたちからは頼りにされているという自負がある。
「諦めなクソガキ。あんたはアタシの餌になるんだ。生意気な口を利いたのを、夢の中で後悔するんだね」
心臓をぎゅうっと締め付けられるような痛みに、息が詰まる。
同時に吐き気がこみ上げ、思わず片手で口元を押さえた。
今ここで意識を失えば、こいつの望むままに悪夢を見てしまう。
だが、これ以上体を支えていられない。
脳みそがとろとろに溶けて揺れているような目眩に引きずられるように、私はずるずるとその場に倒れ込んだ。
***
眩しさに思わず呻き、そっと目を開く。
見慣れたテーブルのそばに、私はうずくまっていた。開け放たれた窓からはそよ風が舞い込み、白いレースのカーテンを揺らしている。
窓など開けた覚えがないが、春めいたそよ風が心地いい。
立ち上がると、膝の上からなにかがばさりと落ちた。見れば一冊の本が床に落ちている。それを拾い上げようとして、私は自分の手の小ささに気づいた。目線もいつもよりずっと低い。窓から庭が見えるかどうかという高さだ。
子供の体だった。
ならばここは、夢の中か。ナイトメアに眠らされてしまったわりには、穏やかな世界だ。
本を拾い、風に揺れるカーテンを眺める。
背後から小さな鼻歌が聞こえた。のどかな三拍子が、懐かしい記憶を呼び起こす。
振り向いた私の目に映ったのは、水色のエプロンをつけた母だった。私がよく知る穏やかな笑みを浮かべた母が、鼻歌を歌いながらキッチンに立っている。キッチンの方からは、ほんのりと甘いバニラの香りがした。
私の視線を感じ取ったのか、母がこちらを見た。
「なあに? お母さんの顔になにかついてる?」
問われて、つい首を横に振る。母の趣味で長く伸ばしていた私の髪が揺れた。
「エル、おやつの時間よ。お父さんを呼んできて」
まだ流行り病などなかった頃、我が家では家族揃っておやつを食べるのが習慣だった。
メニューはいつも違う。祖母が散歩の途中で買ってきてくれたもの、菓子作りが好きな母の手作り、父が営む夢喰屋の客から差し入れられたもの。毎日変わるおやつを皆で食べながら、のんびり過ごすのだ。
母が菓子を作っているときの甘い匂いが好きだったから、私はよく母のそばで読書をして過ごしたものだ。
母に頷いて父を呼びに行こうとして、ふと気になった。
祖母は呼びに行かなくてもいいのだろうか。
私が知る母なら、いつもこう言う。
『エル、おやつの時間よ。おばあちゃんとお父さんを呼んできて』
と。
「どうしたの、エル? お父さんを呼んできて」
皿を持った母が、キッチンから出てくる。
それを見た瞬間、苦味のある粉っぽい薬のような匂いが広がった。
母が持つ皿には、よく作ってくれたカスタードプリンが載っている。それを見てしまったら、口の中に味が広がった。思わず吐きそうになり、うずくまる。
そんな私の背中をさすりながら、母は言葉を続けた。
「今日のおやつは、あなたの好きなおばあちゃんよ」
嫌だ、食べたくない。逃げようとした私の頭を、母が押さえつける。眼前の床には、カスタードプリンが載った皿が置かれていた。
「どうしたの。おばあちゃん、好きだったでしょう?」
私が見ている前で、カスタードプリンが金色の綿飴へと姿を変える。漂ってくる甘い匂いは、間違いなく死んだバクのものだ。
「食べなさい、エル」
母の手から逃れたいのに、体が思うように動かない。
「食べて」
母の手に力がこもり、私の顔を皿に押し付けようとする。
「食べろ」
絶対に嫌だ。もう家族を食べたくない。
「……あああああああああああああ!」
思わず叫んだ。溢れる魔力を抑えられない。私の叫びに呼応するように、周囲で炎が渦を巻く。母の絶叫が響いた。炎に舐めとられた祖母が一瞬で姿を消す。
まるで頭の中を焼き焦がすような頭痛に呻く。炎が広がるほどに、痛みも増していく。魂に深く刻まされた記憶の遺産から作られた悪夢が焼ける痛みに、体が反応していた。
床に、壁に、炎が燃え広がり、全てを飲み込む。もう先ほどまでの穏やかな光景など、どこにもない。
緋色の部屋の中、長い髪を振り乱して絶叫していた母が、人形のように床に転がる。体を縮こまらせた母は真っ黒に焼けていて、肉の焦げた嫌な臭いが鼻をついた。
見たくない。
思わず目を閉じ、顔を背けてしまう。
そんな私の耳に飛び込んできたのは、甲高い鳥の鳴き声だった。この声は知っている。火あぶりにされかけたクーアを助けたとき、彼女が上げた鳴き声だ。
周囲の熱風に、果実とも花ともとれる淡い匂いが一瞬混ざる。間違えるはずがない。クーアだけが持つ悪夢の匂いだ。
つい目を開けてしまった私が見たのは、燃え盛る炎の中で叫ぶクーアだった。
私の家ではない。手製と思しき質素なベッドが三つに、小さなキッチン。クーアの悪夢を喰らったときに見た、彼女の家だ。親子三人で暮らすには少しばかり手狭なこの場所で、クーアが焼かれている。
本来ならば彼女の母親が焼かれているはずの悪夢で、クーアが焼かれていた。
熱風になびく長い髪を、白い肌を、炎が喰らっていく。
クーアの紅の瞳が、私を捉えた。
「エル、なんで……」
悲鳴は、意味のある言葉へと変わった。
「なんで、助けて、くれないの」
その言葉を最後に、クーアは炎に飲み込まれた。
これは夢だ。充分過ぎるほど知っている。ナイトメアが作り出した悪夢だ。こんな夢は私の記憶の遺産には存在していない。
しかし、元になっているのは私の中にある本物の母であり、クーアだ。記憶の遺産から作られた悪夢に傷がついたから、私は耐えがたい頭痛を感じている。
二人の悲鳴が耳の奥に残り、消えてくれない。
目覚めなければ。今ここで私まで燃えてしまえば、そのまま死んでナイトメアの餌になる。
がりっと音がするほど勢いよく親指を噛むが、血の味がするばかりで夢から抜け出せない。
指先に風を発生させて鋭い刃を作ると、私は己の腕を切りつけた。




