第三十話
さっきまでカウンターの端でとろけていた老猫だ。冬トマト煮に入っているタラの切り身を狙って、私の皿をすんすん嗅いでいる。
「だめだ。きみには塩辛すぎる」
老猫の丸い顔を押しのける。老猫は鼻息も荒く、私の手をかいくぐろうとする。凄まじい執念だ。しかしやるわけにはいかない。きみの健康の為だ。諦めたまえ。
老猫と戦いながら、大きなタラををスプーンですくった。丸ごと口に入れれば、ふわふわとした甘いタラの身がほどけた。程よい塩気と白ワインの香りが、トマトの旨味を際立たせている。タラにすり込んでいるのだろう。ほのかなニンニクの風味のおかげで、食欲が更にそそられる。ミックスハーブの香りが鼻腔を抜けていった。
今夜もマルセルの料理は美味い。魔法を使えば冬道など辛くもないが、寒さがあればほかほかの料理を最大限楽しめる。店まで一切の魔法を使わずに来たが、その甲斐あって、体にしみわたるほど美味い。
眼前で獲物を食べられたのがよほどショックだったのか、老猫が固まった。うるうるとした大きな双眸で、私の顔を見上げてくる。
それでも絶対に貰えないと理解したようで、老猫はおとなしく引き下がった。
大きな体のわりに軽やかにカウンターを飛び降りて、老猫がテーブル席の方へと向かう。丸い尻をもちもちさせながら歩く姿は、可愛い。
可愛いが、駄目なものは駄目だ。ただ煮たり焼いたりしただけのタラなら一口ぐらいほぐしてやってもいいが、これは猫の舌には塩辛すぎる。それにニンニクが入っているのだから、絶対に食べさせられない。猫が口にするには危険過ぎる。いじわるであげないわけではないのだ。
ビールを飲みながらなんとなくリザの横顔を眺めていて、ふとある話を思い出した。
昼間ティルが口にした夢屋についてだ。
「リザ、ワイン一杯で夢を売る夢屋を知っているか?」
「ワイン一杯?」
リザの手が止まる。だがそれは一瞬だ。また冬トマト煮を食べながら、リザが滑らかに言葉を紡ぐ。
一緒に食事をするたびに思うが、こいつの口はどうなっているんだ。外見はひとつの口でも中で食事用の口と会話用の口に分かれているのか?
「あれでしょ? 家のポストに手紙とワインを入れておくと、寝てる間に夢を配達してくれるっていう夢屋」
「それだ」
「手紙に書いたとおりの夢を配達してくれるって、町中の噂になってるよ」
「実際に配達されたという話があるのか?」
「あるある」
この短い時間の間に、リザの皿の中身は半分くらい減っていた。私はまだ一口しか食べていないのだが。
「ロラッシュ通りのマースルイスさん、知ってる?」
「ああ」
マースルイスは、このイリュリアで長年夢屋をしている男のハルピュイアだ。私の店で少し特殊な事情の客が出た場合、彼の世話になっている。
「パパから聞いたんだけどさ、細かすぎる内容の夢を注文してきたお客さんがいたから、断ったんだって。でね、そのお客さん、次の日に『希望の夢が手に入った』ってわざわざマースルイスさんにドヤりに来たらしいよ。感じ悪いよね」
夢屋を営んでいるのは、ハルピュイアが多い。様々な幸せな夢を作り出せるハルピュイアは、客の希望に応じて夢を作って売る。
しかし、あまりにもこだわりの強い夢を寸分違わず作り出すのは難しい。なんでも限界というものはある。熟練の夢屋に行っても、そんな注文はまず通らない。ある程度妥協して夢を買うのが普通だ。
だからこそ、ティルが言っていた夢屋の異様さが際立った。
「噂の夢屋、本当に寝てる間に夢を配達してくれるんだって。でもおかしくない?」
リザの手が止まった。
「寝てる間に家に侵入してるんでしょ? しかも報酬は、禁止されてる物々交換。しかもワイン一杯なんて、安すぎる。よくそんな怪しい夢屋を利用しようなんて思うよね」
リザが持っていたスプーンをひょこひょこ動かす。店の照明を反射して、スプーンがきらりと光る。
「うちはバクからの注文がメインだからいいけど、他の夢屋は最近売り上げががくっと落ちてるってさ」
「そんなにか」
「そんなによ」
水を一気に飲み干し、リザが満足そうに息をつく。いつの間にか、彼女の皿は綺麗に空になっていた。そりゃあ食事の手も止まるわけだ。
リザの空いたグラスに、マルセルが茶を注ぐ。いつもカウンターの中で彼が飲んでいるのと同じものだ。リザは酒が飲めない。
マルセルは会話に参加していなくても、こちらの様子をうかがっていた。
接客業だからというわけではない。マルセルは、私の恋人についてよく気にしている。気になって仕方ないところに私とリザが揃って食事をしているものだから、興味津々なのだ。
「ねえエル、おかわり頼んでいい?」
「きみの支払いでな」
「残念。マルセルさん、おかわりください。山盛りで!」
このペースだと、出来たての冬トマト煮はそのほとんどがリザの胃袋に収まる。
「リザ、それを食べたら帰れ。夜のひとり歩きは感心しないぞ」
「はいはい。エルはいつもそれ言うよね」
ティルが言っていた夢屋は、単なる子供っぽい噂ではなかった。もしただの噂でしかないのなら、腕のいい夢屋であるマースルイスにわざわざ客が嫌味を言いにくるなどありえない。
それに夢屋の売り上げに影響が出ているのだから、依頼主には望みの夢が本当に配達されている。だからこそ、噂がどんどん広まっているのだ。
腕利きの夢屋が断るほどの詳細な理由を、なぜワイン一杯程度でほいほい与えているのか。その理由はどんなに考えても分からない。
だが、何者かが気まぐれで行動しているとも考えにくい。なにかしらメリットがあるからこそ、これほどの話題になるレベルで行動している。
いったい誰の仕業かは知らないが、なんとも気味の悪い話だった。




