第百二十七話
連れ帰ったロニアは、ずっと不眠不休でクッキー作りごっこをさせられていたようだ。客室のベッドに寝かせた彼の顔は血色が悪い。だが幸いなことに、呪いの類はかけられていなかった。
そんなロニアを寝かせたベッドを挟んで、ユニアとキキーモラが睨み合っている。
女にしては背の高いユニアと、あまりにも低身長なキキーモラ。
お互いのサイズは全く違うのだが、その体から発する闘気は凄まじい。ロニアは眠っていて正解だったと思う。
「副店長はミモラとクッキー屋をするのです!」
「ロニアはあたしと夢喰屋をするんだ!」
ロニアをベッドに横たわらせてからもう一時間ほど経ったが、二人ともずっとこの調子だ。部屋から引きずり出そうとはしたのだが、そうすると二人とも大暴れしてこちらが痛い目を見る。ミモラ――キキーモラの名だ。見た目のとおり女だった――を連れ出そうとしたら、その鋭い爪で引っ掻かれて服の裾が破けてしまった。先週買ったばかりで、とても気に入っていたのに。
まあそんなわけで二人の不毛な言い合いを眺めているのだが、そろそろ飽きてきた。ロニアは深い眠りに落ちて起きる気配はないものの、彼のそばで二人がぎゃあぎゃあ騒いでいるのはあまりいい環境とは思えない。
「二人ともいい加減落ち着け。そうやって騒いだところで、実際ロニアがどうするかなんて分からないだろうに」
「いいえ、副店長がミモラとクッキー屋をするのはもう決まっているのです!」
「あたしたちはもう何年も一緒に旅の夢喰屋をしてきたんだ! こんなやつに誘われて今更夢喰屋を辞めるわけがないじゃん!」
ああ、うるさい。ミモラもユニアも、よくそんなに興奮できるな。話が平行線だと早く気づいて欲しい。
「分かった。だったらロニアにあらためて決めてもらおうじゃないか」
ロニアを取り合って騒いでいるのだから、渦中の人物に決めてもらうのが一番確実だ。
ロニアの枕元に近づき、額に右手をかざす。
「ミモラといったか。おまえはあの場所で、ロニアに幻覚を見せて操ったな? その影響はロニアの中に残っている。今からそれを全て取り除く」
二人を黙らせる為には、まっさらな状態のロニアに決めてもらった方がいい。
「ミモラが幻覚を見せる前のロニアに戻して、これから先どう暮らしていきたいのか訊こうじゃないか。きみたちがロニアの枕元で騒いでいるよりも確実だ」
かざした右手を反時計回りにくるくる動かせば、こんがり焼けたようなきつね色の煙がふわりと湧き上がった。あの廃墟とミモラに関する夢を取り出したのだが、悪夢ではない。幻覚を見ている中でも、なにか満ち足りた気持ちを感じていたようだ。前向きな気分で見る夢の色をしている。
きつね色の煙が収束していく。下に手を添えると、まん丸のどんぐりもどきが四つ落ちてきた。良夢が変じるこのどんぐりもどきは、もちろん悪夢と同じで全て食べられる。軽く煎って食べると香ばしくて美味いので、今夜のおやつにでもするか。
「これでロニアの記憶の遺産からは、あの場所やミモラに関するものは消える。あとはロニアの回復を待って話し合うぞ。二人ともそれまで部屋を出てくれ。ロニアをゆっくり休ませてやろう」
「でもエル兄」
「ユニア、今のロニアには休息が必要だ」
唇を尖らせたユニアを部屋から連れ出す。ロニアを休ませなければいけないと、やっと理解してくれたらしい。今度は暴れなかった。ミモラも引っ掻いたり噛みついたりすることはなく、「おやすみなさいませ、副店長」なんてロニアに声をかけてから退室してくれる。
「ユニアは自分とミモラの部屋を用意してくれ。ミモラはユニアの手伝いだ。腹が減っているならキッチンを使ってもいい。ただしキッチンの端にあるカゴは絶対に触るな」
キッチンの端には、客から取り出した悪夢を入れたカゴがある。普段は夢喰屋をしているユニアが食べるのはまだいいが、ミモラが食べたら面倒だ。
「とにかく二人とも、私が医者を呼びに行っている間おとなしくしているように」
「……はい」
「かしこまりました」
なんだか歯切れの悪いユニアが気になるが、いつも一緒のロニアがこんな目に遭って動揺しているだけかもしれない。ユニアとミモラは険悪そうだが、ミモラもキキーモラだ。家事や人の世話が得意なはずの彼女がいたら、少しの間ユニアから目を離しても大丈夫だ。
うん、大いに不安がある。しかし信じるしかない。
自分に言い聞かせながら、私は医者を呼ぶべく外へと出た。
***
キキーモラがいるのだから大丈夫などと考えたのは、大きな間違いだったようだ。
帰宅した私は、地獄の光景を見ることとなった。
ロニアを医者に診てもらい、病気ではなく軽い衰弱と疲労だと判明したのまではよかった。しかし安心して少し茶でも飲もうかとキッチンに向かい、その光景を見てしまったのだ。
まるで嵐でも通ったのかというほど荒れ果てた、地獄のようなキッチンを。
あちこちに転がっている鍋や食器。床に散らばっているのは、踏まれてバキバキに折れたパスタの乾麺だ。そこを彩っているのは雪のように積もった小麦粉と、おそらくひと缶丸々ぶちまけられた紅茶の茶葉である。食糧保存庫は半開きで、かけられている冷却魔術のおかげで冷気が漏れ出ていた。犯人は水を使おうとしたらしい。あちこちが濡れている。
幸いなのは、悪夢が入ったカゴが無事だったことだ。キッチンを阿鼻叫喚の地獄たらしめた犯人は、たったひとつの言いつけを守るだけの知能はあった。
片付けを考えて暗鬱となっていたところで、「それ」を思い出す。
猫の悪夢! 猫の悪夢は無事なのか?
毎朝の楽しみである猫の悪夢が入ったクロスト瓶は、カゴに入れていない。茶葉の缶とともに棚にしまっていた。茶葉がぶちまけられているからには、猫の悪夢もまたとんでもない目に遭っているのではないか。
床に散らばるパスタをポキポキ踏みながら奥の棚に向かえば、そこもやはりぐちゃくちゃにされていた。
愛用しているティーカップは、棚になくて当然だ。ロニアを助けに行く前、ユニアとテーブルで話していたときに私自身が使っていた。
しかし。
「ああ……」
猫の悪夢は、残念ながら無事とはいかなかった。クロスト瓶の蓋が外れ、横倒しになった瓶はすっかり空になってしまっている。目線を落とせば、床には虹色に輝く猫の悪夢がこぼれていた。
なんてことだ。
昨日リザが届けてくれたばかりで、瓶いっぱいに詰まっていたのに。
最近はいい天気続きだから猫の悪夢がなかなか集まらないとかで、貴重な一瓶だったのに。
足の力が抜けて、へなへなとその場に座り込んでしまう。
こぼれた猫の悪夢を這いつくばって舐めるほどのあさましい勇気も出せず、呆然としていたときだ。
「申し訳ございません、申し訳ございません」
小さくともきいきいとした声が背後から聞こえた。振り向けば、少し離れたところにミモラが立っている。小さな手で白いエプロンをきゅっと握りながら、ミモラはぷるぷると小刻みに震えていた。
「ミモラはユニアにお茶を飲ませたかったのです。ミモラの部屋を用意してくれたユニアに、温かなお茶と美味しい軽食を用意したかったのです。ですがミモラはできませんでした。なにひとつできませんでした」
「……わざとでないのなら、仕方ない」
「怒っていますか? とても怒っていますか? ミモラを縛り上げて、納屋に吊るしますか?」
「そんな真似はしないよ」
ミモラに情けをかけたわけではない。どんなに悲しくとも、この惨状がアクシデントであったというのなら受け入れるしかないのだ。ミモラを縛り上げたら問題が解決するというのならそうするが、そんな話あるわけがない。
ただ、ミモラに妙なものを感じた。
廃墟の掃除をしていなかったミモラ。
私が出かけていた間に、我が家のキッチンを崩壊させたミモラ。
家事が得意で綺麗好きな者が多いキキーモラの行動としては考えられないものばかりだ。
「片付けをお手伝いします。ミモラがキッチンを綺麗にします。ミモああっ!」
踏み出したミモラが、転がっている鍋を踏みつけて見事に転ぶ。小さな体は小麦粉の山に倒れ込んで、もっふあああ……と白い粉塵が舞った。
「あー、ミモラ。ここはいいから、風呂に入ってくるとい。私に指示されたと言えば、ユニアが用意してくれる」
「ですがミモラはまだお役に立っていません。そう、なにもお役に立っていません!」
「大丈夫だ。気にしないでくれ」
正直に言うと、ミモラにはなにもして欲しくない。頼むからおとなしくしていて欲しいのだ。これ以上家をめちゃくちゃにされてはたまらない。
肩を落としてとぼとぼ去るミモラを見送り、重いため息をひとつついてから立ち上がる。
小麦粉だらけの服を着替えたいが、まずはキッチンを片づけなければ。
これでは、夕食が作れない。




