第百二十六話
件の廃墟に到着して真っ先に感じたのは、これでもかという埃っぽさだ。陽光を感じさせない冷えた空気がとにかく埃臭くて、気持ち悪い。
視界に広がったのは、カーテン越しに弱い光がぼんやり差し込む室内だった。広さは私の店とそう変わらないくらいだろうか。
なにかの店であった証に、入り口にはカウンターと思しきものがあった。壁に沿って置かれた大きな棚には、埃と一緒に小さな籐のカゴが転がっている。どんな商品が置かれていたのだろうか。
床には二人分の足跡が残っていた。くっきり足跡が残るほど埃が積もっているのだから、息苦しいのも頷ける。
ユニアとロニアのものだと思われる足跡を辿れば、その先に埃が大きく乱れている場所があった。ここにロニアが座っていたと思われる。
帰還魔法は帰る為に使うことが主なので「帰還魔法」と呼ばれているが、基本的には術式に記憶させた場所に移動する魔法だ。自宅の寝室を記憶させている私のように場所を記憶させると、間違いなくそこに到着する。
しかしロニアを記憶させたユニアのような使い方の場合、若干の位置ずれを起こすのはよくある話だ。それでも近くに移動できたのは間違いないので、周辺を見回す。
ロニアがどこに行ったのかは、すぐに判明した。埃のおかげで、彼のものと思しき足跡が残っていたからだ。足跡は隣室へと続いている。
ドアが開きっぱなしの隣室をユニアと一緒に覗くと、そこは厨房だった。どうやらなにか食品を売っていた店のようだ。
もちろん厨房も長いこと使われていなかったようで、あちこちにクモの巣まである。
あまり長居したくない場所だが、そんな場所にロニアはいた。
後ろでひとつにまとめた青い髪に、ゆったりとした袖が特徴的な裾の長い服。背中にはユニアとお揃いの大きなリュックを背負っている。見るからに勝ち気そうなユニアとは反対に、少し気の弱そうな顔つきのこの少年こそロニアだ。彼が向かっている調理台には、ネムノキの鉢植えが置かれていた。
調理台の前に立ったロニアは、両手をひたすら動かしていた。調理台の表面を撫でるように両手を前後に動かしているが、なにをしているんだ。
訝しんで観察していたら、ロニアの声が聞こえた。ロニアの声は、声変わりをしてもなお高めでよく通る。さほど大声でなくとも、彼がなにを話しているのかは分かった。
「そりゃあなにかを混ぜたらそれなりに美味しいですけど、何事も基本が大事です。基本がしっかりしていたら、どんなアレンジでも味がブレません。一度クッキー作りの基本に戻りましょう」
目に見えない誰かと話すロニア。どうやら彼は、調理台の上でクッキーの生地を伸ばしているようだ。
まあ実物なんてどこにも見当たらないので、私には「クッキー生地を伸ばしているふり」にしか見えないのだが。
「エル兄、どうする?」
ユニアがひそひそ話しかけてくる。
「ロニアを連れ帰るが、その前にここを調べたい。ロニアになにか呪いが掛けられていても困るからな」
ロニアが異常な行動を繰り返している原因が分からないのだから、うかつに連れ出すわけにもいかない。もしかしたらここから離れると死ぬ呪いなんてものがかけられている場合もあるのだ。
「少し辺りを確認してくる。きみはロニアが危険なことをしないよう、見張っていてくれ」
「ええっ! ひとりは嫌だよお!」
ユニアが慌てる。基本的には気の強い娘なのだが、幽霊の類が大の苦手なのだ。怪談なんて聞かせようものなら鉄拳が飛んでくる。
しかしこの場には私とユニアしかいないし、あちこち確認して回るのならユニアよりも魔法や魔物に詳しい私の方が適任だ。
「『クッキー作ろ』でも歌って待っていてくれ」
「そんなあ!」
問答している時間が惜しい。ユニアをその場に残し、店内を調べようかと動きかけたそのときだった。
「お客様ですか? まあ、お客様ですか! いらっしゃいませ!」
そんな甲高い声が聞こえた。きいきいとした声につられて視線を落とすと、いつの間にか目前にアライグマが立っている。身長は私の膝丈ほどだ。
いや、アライグマとストレートに言うのは失礼だったか。
落ち着いた臙脂色のメイド服を着たそいつは、キキーモラという魔物だ。愛情深く誠実、そして綺麗好きな魔物である。特に女性はメイドや乳母といった職業で人気があるので、人里でもよく見かける。大きな屋敷に勤めているキキーモラとなると、メイド長をしていることも少なくない。
それにしてもずいぶん小さなキキーモラだ。彼らの平均身長は私の腰のあたりだと記憶しているが、目前のキキーモラはかなり小さい。子供だろうか。
「ようこそ、二十三年ぶりのお客様!」
キキーモラが几帳面そうな言葉を口にする。彼らは十歳で大人になるので、私が見ているキキーモラは立派なレディだった。
キキーモラは対象に幻覚を見せて操るという種族特性を持っている。ロニアがおかしくなったのは、このとても小さなキキーモラのせいだと考えていいだろう。
しかし妙だ。成人の証にホウキを贈る慣習があるくらい、キキーモラという種族は綺麗好きだ。それなのに今いる廃墟はどこもかしこも埃やクモの巣まみれで、とてもではないがキキーモラがいるような場所とは思えない。
「お客様よ! だけどどうしましょう! まだクッキーは焼き上がっておりませんの! どうかお待ちくださいお客様!」
小さな手を頬に当てて、キキーモラがおろおろする。
そういえばこいつ、キキーモラなのにホウキを持っていないな。彼らは正装が推奨される場でも愛用のホウキを手放さないのに。
いや、そんな話よりもロニアだ。
「待て、私たちは客ではない。人を探しているんだ」
「お客様でありませんの?」
「ああ。そこにいるロニアを探してここに来たんだ」
私の言葉に、キキーモラの体毛がぶわっと広がった。くりくり丸い目がつり上がり、口元からは牙が覗く。
「いけませんの! 副店長はクッキー作りで忙しいんですの! 邪魔は許しませんのよ!」
「あれのどこがクッキー作りなんだ。生地も道具も、なにもかもがないじゃないか。とにかくロニアは返してもらう」
小さなキキーモラを無視して厨房に踏み込む。
「ロニア、私だ。帰るぞ」
言いつつロニアの肩に手をかければ、その体から力が抜けた。糸の切れた操り人形のように倒れかけた体を、慌てて支える。
重い。
大きなリュックの分を差し引いても、重い。
見た目は細っちいロニアだが、旅暮らしとあってしっかり筋肉がついているようだ。
「ユニア、ロニアのネムノキを持ってくれ」
声をかけると、駆け寄ってきたユニアがネムノキの鉢植えを抱えた。そのまま私の腕に掴まってくる。
帰還魔法で我が家に帰ろうとした瞬間。
「いけません副店長! まだお仕事が残っています!」
小さなキキーモラが私の腰に飛びついてきた。
帰還魔法は発動が早い。
双子を連れ帰るべく多めに使った魔力が仇となった。小柄すぎるキキーモラまで魔法に巻き込んでしまう。
こうして私は、やかましいやつまで連れ帰る羽目になってしまったのだった。




