第百二十四話
リルムから取り出したレモンもどきを使って一番最初に作ったのは、大きなレモンケーキだった。もちろん果汁だけでなく果実自体も食べきらないといけないので、スライスしてシロップ煮を作り、ケーキの表面にたっぷり並べて。
ハイエルフの悪夢というものは、とても香りがいい。味は少し酸味が強かったものの、その香りのよさについうっとりしてしまった。
肉を焼くときにはスライスを添え、作ったジャムはパンに塗り、毎食のデザートはレモンケーキ。初夏の訪れを思わせる爽やかな味わいは、私の身も心もとても満足させてくれた。
ハイエルフが客として訪ねてきたら、快く対応しよう。
そう思うほど、美味い悪夢だった。
もちろん美味い悪夢をたらふく食べた私は、リルムの悪夢を追体験した。
鉱毒でその身を蝕まれた、サルフェールのエルフたち。ある者は立ちあがれなくなったのか地を這いずり、またある者は息絶えた赤子を腕に抱きながら、皆一様に気味の悪い色に変色した体に醜悪な腫れ物を実らせ、助けてくれと迫ってくる。
体にしがみついてくる彼らを振り払うこともできず、歯を食いしばるリルム。彼女はこの悪夢を四百年近く抱えたまま、研究を続けていたのか。
間に合わなかったとはいえ、発狂してもおかしくない状況でリルムは薬を完成させた。その強さに感嘆するばかりだった。
リルムの悪夢を食べ終えるまで、一週間もかからなかった。
なんだか最近美味いものばかり食べているなと考えつつ市場へ買い出しに出かけたら、オリバーを見つけた。オリバーも生きているのだから、食事をしないわけにはいかない。晴れ間を見て買い出しに来たのか。
大きな生ハムの原木を抱えたオリバーが、正面から歩いてくる。
目が合った。
片手を軽く挙げて挨拶したついでに、リルムについて訊いてみた。
「リルムはどうしてる?」
私が悪夢を全て喰らったのだから、もう彼女から悪夢は漏れ出ない。オリバーとリルムの暮らしは、最初に比べてずいぶん安らかなものになったはずだが。
「あいつはもういないよ」
オリバーの返事はそっけなかった。彼は元々おしゃべりな性格ではないから、別に気にならない。
「そうか」
「そうだ」
私たちの会話は、そんなふうにあっさり終わる……と思いきや、オリバーがぼそっと呟いた。
「フィアンポローネ、だったか。美味かったなあ」
彼にしては珍しいしみじみとした響きに、オリバーも大満足だったんだなと微笑ましくなった。
市場を巡り終え、最後に入り口の花屋で店に飾る花を買う。看板娘のアイラのおすすめは、寒空の下でも色鮮やかに咲き誇るアネモネだ。紫のものを、白バラと一緒に包んでもらった。
花のいい香りを楽しみながら家に帰ると、ポストに分厚い手紙が届いていた。
この分厚さ。きっと私が待っていたものだ。
取り出した封筒には、独特の味わいがある文字で宛先が書かれている。差出人には我が友キールの名があった。
いそいそと家に入り、居間の暖炉に魔法で火を入れる。外套や荷物を手早く片づけると、私は温かな紅茶と分厚い手紙を持ち居間へと向かった。座り慣れたソファに腰かけ、さっそく封筒を開ける。
中から出て来た手紙は二通。
一通は封筒の宛名と同じ文字がびっしり並んでいる。キールが書いた手紙だ。
もう一通は、性格に似合わないころんと丸い字で綴られたクーアからの手紙だ。
クーアの手紙を読もうとして、思い直して先にキールの手紙に目を通す。キールの文字は解読に苦労するので、心身共に疲れる。先に読み終えてしまおう。クーアの手紙を愉しむのはそれからだ。
キールの手紙は文字こそひどいが、内容は細かい。
そんなキールの手紙によると、クーアが軽い風邪をひいて二日ほど寝込んだらしい。ハーフセイレーンのクーアを医者に見せるわけにもいかないのでどうしたのかと心配したが、キールがうまいこと話をまとめて薬を手に入れてくれていた。
人間のような見た目の魔物は非常に多いが、体の中身まで完全に同じとは言い難い。幸いバクは人間と同じ薬が効くが、私にとって咳止めの薬はハルピュイアのキールが飲めば腹を下す。
ハーフセイレーンにどんな薬が効くかなんて誰も知らないのだが、キールはハルピュイアとセイレーンの体は近いんじゃないかと考えたらしい。ハーフハルピュイアの子供だと言って、錬金術師に薬を作ってもらったそうだ。
幸いその薬はクーアによく効いたというところまで読み、安堵の息をつく。病気は怪我ではないから、魔法では治せない。クーアを任せたのが機転の利くキールで本当によかった。
風邪以外は特にアクシデントもなく、二人の旅は順調だそうだ。
キールの手紙を読み終え、紅茶で一息つく。心を落ち着けてから、クーアの手紙を開いた。
『タマネギの皮剥きを覚えたわ』
手紙の書き出しにふさわしい言葉はいくらでもあるだろうに、クーアの手紙はそんな一文で始まっていた。
まさか、イオリの城でしていたタマネギの話をずっと引きずっていたのか? 魔法の練習をよくサボる様子からクーアは飽きっぽい性格とばかり思っていたのだが、意外と執念深い一面がある。いらぬ刺激をして恨まれ続けないように気をつけよう。
今までならばキールと一緒に見たものや辿り着いた町での過ごし方が書き連ねられている手紙だが、今回は料理についての記述が多い。
野宿の際の自炊だけではなく、キールと美味いものを目当てにして行き先を決めたりもしたと書かれていた。食べたものについても、ただ美味かったという言葉だけではない。どこがどう美味しくて感動したという内容が、細かく綴られていた。
もしかして、クーアが帰ってきたら彼女の手料理が食べられるのか?
料理に関してかなりの興味を示しているクーアの様子に、そんな期待をしてしまう。
料理は作るのも好きだが、食べるのも好きだ。
愛しい者の手料理を食べられるのだとしたら、こんなに嬉しいことはない。
***
イリュリアでは二月も半ばとなると、雪が降る日はぐっと減る。寒さも和らぎ始めて、もっさり積もっていた雪が徐々に溶けていく。道は濡れた石畳が久方ぶりに姿を見せて、日ごとに春の気配が強まる。
いつものように店を開けてロッキングチェアでのんびりしていたら、郵便屋が手紙を持ってきてくれた。
ミント色の封筒に宛名を綴る文字は一度見たら忘れられないほど美麗だが、こんな見事な文字に見覚えはない。誰からだろうと差出人を見て、少しばかり驚いた。
リルム・ウロフォート。
リルムって、あの絵から生えていたリルムか?
記憶の遺産には様々な「リルム」という名の存在がいるが、私自身が実際に会い言葉を交わした「リルム」は、絵から生えたハイエルフの彼女しかいない。
封筒を眺めてばかりいても意味がない。ロッキングチェアに腰かけて、封筒を開ける。
中には封筒と同じ色の便箋が五枚入っていた。
『お久しぶりです』
そんな書き出しで始まった手紙は、自分を覚えているかと問うてきた。
間違いない。差出人はあのリルムだ。オリバーのそっけない言い方からして理想的とは言い難い結末を迎えたとばかり思っていたが、彼女は生きていた。
現在リルムは、錬金術師として旅をしているそうだ。
ひとりではない。
行商人のエルフ一行と一緒だ。
エルフは進んで外の世界に出ようという性格の種族ではないので、多くは今も各地に点在する里で暮らしている。そういったエルフ向けに商売をしている行商人たちとともに里を巡りながら薬などを作って暮らしていると、美しい文字で綴られていた。
なにがどうして旅に出る流れになったかというと、オリバーが思い切り関わっていた。
元々リルムの魂抜きには否定的だったオリバーが、行商をしているエルフにリルムの話をしたのだ。するとそのエルフは「ハイエルフを殺すなんてとんでもない」と憤慨し、元々リルムの絵を所有していた客から高額で買い取ったのだそうだ。
約六百年の命を宿し、絵から生えては喋るだの飲み食いするだのといったハイエルフは元の持ち主に非常に気持ち悪がられ、取引はスムーズに進んだとリルムは書いている。
これを書きながらクスクス笑っている彼女の様子が、目に浮かんだ。
それにしても、そうか。行商人か。職業柄商人とのやりとりが多いオリバーらしい選択だ。
『エルクラートさんのおかげで、楽しい毎日を過ごしています』
手紙にはそんな一文が書かれていたが、今の生活への手引きをしたのはオリバーだ。日々が楽しいのも、リルムと、彼女と共に旅するエルフたちがうまいことやっていけているからである。
ああでも、もしかしたらあれがちょっとだけ関係したのかもしれない。
フィアンポローネ。
あの絶品スープにオリバーが大満足していなければ、リルムが旅の仲間と出会えなかった可能性はある。
リルムはなにかあったら頼ってくれと手紙に書いていたが、私はもう充分な対価をもらった。
この世にひとつしかない奇跡の万能薬エリクシルだ。
相変わらず健やかな暮らしを送る私では、本当に効果があるのかたしかめようもない。けれどもリルムは、つまらぬ嘘で自分の功績をでっち上げるような真似はしないはずだ。彼女が魂を分割してまで研究し続けたこの薬を、私は心の底から信じている。
それでも、もし。
私の魔法でも、リルムの薬でも、どうしようもできない事態が起きたら。
そのときは、長い時を生きる錬金術師であるリルムを頼らせてもらおう。礼はまたフィアンポローネがいいだろうか。
そんなことを考えながら、読み終えた手紙を封筒へと戻す。
春の気配は徐々に近づいているものの、まだ暖炉を休ませるには早い。薪の爆ぜる音を聞きつつ、目を閉じる。
瞼の裏側に、温かなスープを口にしてとろけた顔をするリルムの姿が浮かんだ気がした。




