第百二十三話
自宅での夕食の席にも、もちろんフィアンポローネを出した。美味かったから食べたいというのも理由だが、一番の理由はオリバーに食べさせると約束していたからである。
そう、今夜は我が家の夕食にオリバーがいる。
食後にリルムの夢喰いを済ませて、オリバーが絵を持ち帰ることになっていた。私ができるのはフィアンポローネ作りと夢喰いまでで、リルムが希望している魂抜きについてはオリバーの領域だ。実際魂抜きをするかどうか、彼と話し合ってもらうことになっていた。
もちろんフィアンポローネだけでは夕食にならないので他の料理も用意したが、私とリルム、そしてオリバーの三人が夢中になったのはやはりフィアンポローネだ。
マルセルのところから持ち帰ったものを温めなおして出したのだが、美味さは全く変わらない。むしろ再度火を入れたことで煮込まれたのか、昼間に食べたときよりもぷるぷるした食感も味も濃くなった気がする。
さすがに大きな寸胴鍋二つ分のフィアンポローネを食べ尽くすほど、私やマルセル、そしてリルムの胃は大きくなかった。それゆえマルセルの妻であるオリヴィアにも食べさせられたし、夕食の分を持ち帰ることだってできた。
一羽のフィアラニールと二つの卵で、こんなにも満たされた食卓になるとは。エルフたちのとっておきスープの効果は素晴らしい。
「幸せってこういうことを言うんですよね、きっと」
食後の紅茶を飲みながら、リルムが呟く。
「皆で美味しいものを食べて、『美味しいね』って言い合う。そんな幸せを味わえて、本当によかったです」
まるで最後の晩餐とでも言いたげなリルム。その言葉に、私はついオリバーに視線をやってしまった。
オリバーのひげもじゃ顔はやつれた様子もなく、温かな料理を堪能したせいかとても血色がいい。リルムが魂抜きを望んでいるとはとっくに伝えているのだが、それについて悩んでいる様子は見られなかった。
リルムは死にたがっている。
病気でも寿命でもないのに、その命を手放そうとしている。
本人が望んでいるのだから好きにしたらいいじゃないかと思う気持ちも、私の中に少なからず存在している。他の誰でもない自分の命をどう扱うか。それを決めるのは、いつだって自分自身だ。
もう守るべき者もおらず、絵画として買われたリルム。
彼女が死を望んだところで、別に私がどうこうなるわけではない。
だが、「それは違う」と心の奥から叫ぶ声があるのだ。そしてその理由は、夢喰屋の私自身がよく分かっている。
だからこそ私は、魂抜きについて考え直すという条件でフィアンポローネ作りを引き受けたのだから。
猫舌ゆえに茶を飲むのが遅いオリバーを食卓に残し、私は絵を持って店へと向かった。もしもリルムが少しでも自分の心に嘘をついているのなら、店内に張り巡らせている嘘探知の魔術が反応する。
リルムの心からの願いが、本当に死なのか。
私はとても知りたかった。
照明魔術の灯りを浮遊魔術で浮かべた店の中、客を座らせるロッキングチェアに絵を乗せる。
「リルム」
声をかければ、リルムがにょきっと絵から生えてきた。
「今からきみの悪夢を全て取り出す。対価はたしかに受け取っているから、私はきみの命を守り抜くし、取り出した悪夢は二度ときみに戻らぬよう全て喰らおう」
「はい」
「悪夢を全て喰らえば、紐づいている記憶も消える。サルフェールで過ごした全ての思い出を忘れはしないだろうが、少なくとも鉱害で苦しむ皆の姿は忘れられる」
夢喰屋は単に嫌な悪夢を手放すだけの場所ではない。前に進むには障害となってしまう、心に傷をつけるほどの深刻な悪夢と決別する場所でもある。
そう、生きる為に訪れる場所だ。
「きみは本体から切り離された魂だとしても、その姿で時を刻み続け、何度も食事をした。それはつまり生きていると同義だ。私とともに数日過ごした中で、なにかきみの興味を惹くような事柄はなかったか?」
少しでも心残りができたのなら、リルムは死ぬべきではない。
「興味といえば、興味なんでしょうか」
思案しながらというように、リルムがゆっくり口を開く。
「エルクラートさんが作ってくれるご飯を食べて、お店でも一緒に食事をして、世の中にはこんなに美味しいものがたくさんあるんだって驚きました。冬トマトだって初めて食べましたよ。私が錬金術の勉強をしていた頃は、冬トマトなんて存在してませんでしたから」
リルムの細長い耳が、ぴぴぴと小さく震える。感情が昂ると動く耳は、彼女が喜びの感情を思い出していると示しているように見えた。
たしかにリルムは色々食べた。私が彼女を喋らせようとあれこれ考えながら作った手料理は、なんでも「美味しい」と食べてくれるクーアやリザの食事よりも気を使った。
それ以外にも図書館のカフェや金の小鹿亭、フィアラニール狩りに行く途中の食事休憩など、様々な場所で誰かと食事をともにしていた。
「たくさん美味しいものを食べて、いい思い出ができたなって思ってます。里の皆にまた会えたら、こんな美味しいものを食べたんだぞって話して聞かせたいくらい。それくらい美味しくて、楽しかった」
リルムがそのハイエルフらしく整った顔に浮かべる笑顔は穏やかで、彼女の言葉は真実なのだと魔法を使わずとも分かる。好奇心旺盛な彼女のことだ。新しいものを取り込むのが楽しくないわけがない。
「皆で行ったフィアラニール狩りも楽しかったなあ。私が参加したのは、血抜きからですけど……。でもご一緒できたおかげで、フィアンポローネの日は大勢で食べる理由が分かりました。あんなに大きい鳥だったなんて。すっごい獲物なんだから、皆で食べる方が絶対美味しいですよね」
小さく震えるだけだったリルムの耳は、ついにぱたぱたと動き出した。
「美味しくって、幸せで、何度でも食べたくなる。フィアンポローネみたいな幸せな味を、たくさん経験できました」
噛み締めるように言いながら、リルムが困ったように笑う。
「こんなの知ってしまったら、もう生きるのはいいやなんて言えるわけないですよ」
細長い耳が、しゅんと下を向いた。
「ねえエルクラートさん、私どうしたらいいですか? 里を助けられなかったくせに、もう本体の私もいないのに、絵に塗り込められた私は、まだ生きたいと思ってしまうんです」
リルムの言葉に、嘘探知の魔術は反応しない。切々と語られるそれには、少しの偽りもなかった。
「生きて、もっといろんなものを食べたい。この絵に閉じ込めた時間が尽きる日までいろんなものと出会いたい。そしていつかそのときがきたら、里の皆に全部伝えたいって、そう思っちゃうんです」
でも、とリルムは言葉を続ける。
「私だけそんなに幸せになってもいいのかなって、不安で不安でどうしようもないんです。生きるのも死ぬのも、どちらも怖い。私は絵なのに、怖くて仕方ない」
「それが普通だ。明日が見えぬと恐れる気持ちも、二度と目覚めないかもしれないと震える気持ちも、誰もが心の中に少なからず持っている。きみの心を示す針が死という終わりに振り切れていない中途半端な状態なのに、そのまま死んでも後悔しないのか?」
問えば、リルムは首を横に振った。蜂蜜色の髪がさらさらと揺れ、照明魔術のほのかな灯りを反射して煌めく。
私が口を開こうとしたとき、背後から野太い声がした。
「死ぬのが怖くなったついでに、俺のことも考えてもらえると助かるんだがな」
家と店と繋ぐドアから姿を現したのはオリバーだ。食後の茶は飲み終わったらしい。私たちのそばまでのしのし歩いてきた彼が、腕組みをしてリルムを見やる。
「六百年も寿命が残っている上に意思を持つおまえさんの魂抜きというのは、殺人に近い行為だ。罪に問われないのは、モンテッサンの絵の具に使われた魂は本人に戻しようがないからという理由でしかない」
モンテッサンの絵の具で描かれた対象をひとつの命として扱うなんて、きっと誰も経験がない。それでも自分を二人に分けたというリルムを、オリバーはしっかりひとつの命として扱っていた。
エルフとドワーフは、価値観や美的センスが合わないという理由であまり相性のよくない種族だ。それでもオリバーはリルムというハイエルフに嫌悪感を示さず、対等な立場で物を言っている。彼のそういう面が好きだからこそ、私は彼がその手を汚さずに済むようにと願ってやまない。
「とりあえず夢喰いはしてもらえ。おまえさんから溢れる悪夢の影響を受けるのはたまったもんじゃない。嫌なことは忘れた上で、自分の魂抜きについてもう少し考えるんだな」
言い方はちょっとぶっきらぼうだが、オリバーは優しかった。
今夜オリバーに絵を渡すことになったのは、オリバーに魂抜きを頼んだ客がせっついてきたからだ。いくらオリバーでも客からの預かりものなので、ずっと私のところに置いておくわけにもいかなかった。
たぶんオリバーはリルムの現状を客に見せた上で、魂抜きをやめるよう説得するつもりだ。ただ魂抜きを断ったのでは、他の魔道具職人のところに持ち込まれかねない。
まあ魂抜きについてはオリバーとリルムでゆっくり話し合ってもらうとして、今は夢喰いだ。
「リルム、夢喰いはしてもいいんだな?」
「あっ、はい! お願いします!」
リルムがぺこりと頭を下げた。
リルムの頭上に右手をかざし、くるくると反時計回りに動かす。絵から生えていたリルムの体が弛緩して、気絶した蛇のようにふにゃりとロッキングチェアの座面に倒れた。そんな体からは、悪夢を示す黒い煙がもうもうと出てくる。
リルムの中から全て出し終えた煙が、渦を巻きながら収束していく。なにか塊になるようだ。煙の下に手を添えて待っていると、悪夢がぼとっと落ちてきた。
リルムの夢が変じたのは、私の片手がいっぱいになるくらい大きなレモンもどきだ。鼻に近づければ、陽気な色合いの果実からはレモンによく似た爽やかな香りがする。さて、なにを作って食べようか。これだけ大きな悪夢だ。色々作れる。
「オリバー、彼女をどうするつもりだ?」
リルムの目覚めを待つ間、オリバーに問うてみた。
「俺ひとりの言葉でどうこうできる話じゃない。こいつと客で話し合うがいいさ」
私の予想とは違っていたが、たしかにオリバーが言うとおりだなと納得できた。
いざとなったら、リルムは魔法を使って逃げたらいい。血抜きのときに浮遊魔術を使っていたから、その気になれば絵を魔法で浮かせて自由に移動できるはずなのだから。




