第百二十二話
「なんの釜だ?」
「調合用の釜です。薬を煮るときに使うんですよ」
それは食品を入れてもいいのかという疑問がつい私の顔に出てしまったのか、リルムがはっとする。
「だだだ大丈夫ですよ! 飲み薬を作るのにも使いましたし、いつもちゃんと綺麗に洗ってますから!」
「……そうか」
リルムは錬金術師だ。その釜に入れたものを口にしても安全かどうかは、彼女の方が詳しいはずだ。それにその釜に入れたものを、彼女も口にする予定である。
信じよう。
マルセルの商売道具は、なるべく早く返したい。
リルムが出してくれた釜にブロスを入れる。それにしても美味そうだな。このまま塩コショウでも振って飲みたいくらいだ。
フィアンポローネの作り方は、マルセルの手元に残ったブロスを使って教えてもらうことになった。調理台にはまたしてもタマネギとセロリが並ぶ。それから冬トマトの瓶もあった。
「エルフの里では魔法で年中トマトを栽培してるそうなんですけど、さすがにこのへんじゃ手に入らないので冬トマトで代用しましょう。俺の師匠と作ったときも冬トマトを使ったんですけど、美味かったので安心してください」
「だそうだ。リルム、いいか?」
マルセルが言っている時点で美味さは保証されているが、リルムの記憶にあるフィアンポローネとは少し違ってしまう。リルムに確認を取れば、彼女は小首を傾げた。
「冬トマトってなんですか?」
「魔法で冷凍保存した秋採れのトマトだ。私が出した食事に入っていたトマトは全てこれだ。濃い味のトマトなんだが、フィアンポローネに使うトマトはこれでもいいか?」
ここで嫌だと言われたら、トマトを求めてエルフの里へ行かなければならない。昔ほどではないとはいえ里に部外者を入れるのをよしとしない彼らからトマトを手に入れるとなると、どれだけの苦労をするのか。
嫌な想像がちらりと脳裏をよぎりはしたが、それはすぐにリルムの声がかき消してくれた。
「はい! エルクラートさんの料理に入ってたトマト、甘くてとっても美味しかったです! ぜひそれでお願いします!」
リルムがいいのなら、あとは作るだけだ。
たっぷりのタマネギとセロリをせっせとすりおろす。冬トマトは一口大にカットした。ブロス作りで使った野菜を鍋から取り除き、代わりにすりおろしたタマネギとセロリ、それからカットした冬トマトを入れ、フタをしてコトコト煮込む。
その間にリルムからフィアラニールの卵をひとつ受け取り、溶いて丁寧に濾した。三回くらいは濾したと思う。オレンジに近い色合いの卵液は、見るからに味が濃くて美味そうだ。
鍋のフタを取り、塩コショウで味を調える。
そしたらいよいよ、卵の出番だ。
「五回程度に分けて、少しずつ入れていきます」
マルセルが傾けるボウルから、鮮やかな色合いの卵液が細い帯となって鍋の中に落ちていく。
「卵は肉のように溶けてしまわないのか?」
「ええ。不思議なんですけど、卵は熱にとても強いんです。なかなか火が通らないんで、さらさらになるまで濾して、回数を分けて煮込む必要があるんですよ」
ただ単にトマト入りのかきたまスープにすればいいわけではないのか。
「でもこの卵が、ふわっふわになって美味いんですよねえ」
「あー、マルセルさんに同意です。フィアンポローネにはふわっふわの卵ですよねえ」
マルセルとリルムが、にやけた顔でうんうん頷く。そんなにふわふわになるのか。期待が膨らむ。
丁寧に卵液を流し入れて煮込み、ついにフィアンポローネは完成した。若干手間はかかるものの、工程はいたってシンプルだ。これなら家でも問題なく作れる。
それにしてもいい匂いだ。
マルセルが盛りつけてくれた器の中では、金色のスープがきらきら輝いている。ふわりと上がる湯気には鶏と香味野菜の濃厚な匂いが溶け込んでいて、もう空気だけでも美味い。
じっくりと火を通された卵は鮮やかなオレンジを保ったまま、夕暮れの雲のようにスープの中を漂っていた。冬トマトの赤が、早く食べてくれと言わんばかりに卵の雲の合間からちらちら顔を覗かせている。
マルセルとリルム、そして私。三人でさっそくフィアンポローネを口にした。
ぎりぎり液体を保っているような、ぷるんとしたとろとろスープ。なめらかなプリンを思わせる触感のスープは、ぷりぷりした鶏肉にかぶりついているんじゃないかと錯覚するほど味が濃い。
それもそうか。
このスープはフィアラニールの肉や骨が全てそのまま溶けたものだ。
一般的に出回っている鶏肉で同じように作っても、この味と食感にはならないだろう。
もちろんスープは肉の味ばかりではない。香味野菜や冬トマトの味がこれでもかと溶け込んでいるおかげで、深みのある甘さがある。
それを引き締めるのが、ほのかなニンニクとコショウだ。
見るからにふんわりとした雲のような卵は、口に含むと舌の上でさっとほどけた。コクのある卵の味が口の中を満たす。
一口飲めば、もっと欲しくなる。そんな味だ。
真に美味いものは食べる者を無言にするというが、このスープがまさにそれだった。
「ああ、全部食べてしまった……」
口ではそう言っているマルセルだが、顔が幸せを物語っている。
三人で欲望のままにおかわりを続けた結果、大きな寸胴鍋がすっかり空になってしまった。
「オリヴィアの分がなくなってしまったな……」
こんなに食べるつもりはなかったのだが、どうしてこうなってしまったのか。そうは思えども、私の脳内はフィアンポローネの余韻でいっぱいだ。
「二人とも、これを見てください」
うっとりとした表情で、リルムが絵から調合用の釜を出してくる。その中にあるものがなんであるのか、私とマルセルが知らぬはずがない。
「卵もあとひとつありますよ」
リルムの囁きは、まるで悪魔の誘惑である。
私とマルセルは目線を合わせて頷き合うと、再びフィアンポローネ作りにとりかかった。




